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戦国ちょっと悪い話44 [無断転載禁止]©2ch.net

1 :
2016/08/10(水) 07:53:50.85 ID:N3newNEx
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話43
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1452933689/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話44
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1469664777/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html
2 :
2016/08/10(水) 08:27:42.14 ID:xCVEOQYi
個人的にはあの字幕の方が個性があって面白いから、自分の好きに作れば良いと思う。俺の意見としてはね
3 :
2016/08/10(水) 14:29:35.29 ID:BlSChZfX
>>1
乙候
4 :
2016/08/10(水) 14:50:00.66 ID:xCVEOQYi
大発狂www
5 :
2016/08/10(水) 17:25:19.56 ID:kv4aHxC0
【ちょっとどころじゃない前田利家・利長父子の悪い話】

奇襲部隊の敗北は羽柴軍の総攻撃を受ける前の自壊から始まり、それは友軍の逃亡により生じた動揺と混乱がもたらしたものであることが分かる。
そこに戦後の事実として、
・秀吉は前田家に加賀北部の2郡を加増した。
ことも考えると、逃走した部隊とは前田利家の軍勢だったことが推測できる。
そしてこの戦線離脱が原因で、奇襲部隊そして柴田軍は敗北した。戦場から離脱しただけの金森長近は十万石も加増されたりはしなかった。
また逃亡したのが別の軍勢だったなら、前田家家臣の小瀬甫庵は『太閤記』で紛らわしい書き方はしなかっただろうし、あるいは 逃走した部隊を率いた武将の名前をはっきり記しただろう。
こうしてみると「柴田勝家が盛政に早く撤退するよう指示した」や「盛政の慢心が敗北を招いた」という記述も疑わしくなってくる。
ただし『太閤記』を読んだ当時の前田家の人々や著者の小瀬甫庵には葛藤があったかもしれない。
『太閤記』の記述だけでも、前田勢が疑われるには十分だからである。
――加賀百万石の繁栄の基礎を築いた偉大な藩祖と二代目の汚点を記すことはできない。敗因は佐久間盛政に負わせるが、盛政の活躍も記す。読者には察してほしい。
なお当時の前田家当主は三代目の前田利常で、当事者だった父と兄は故人で意見を求めることはできなかった。
また賤ヶ岳の戦いは織田家中の内紛であり、合戦当時は前田父子の行動は特に世間から咎められず、江戸時代になってから価値観の変化で問題視されるようになり各史料は曖昧に記述した、という可能性も考えられる。
賤ヶ岳の戦いにおいて、奇襲作戦が成功して秀吉が戻ってくるまでの間、つまり柴田軍が優勢だった時も、山路の他に柴田軍へ戻った武将は結局一人もいなかった。
6 :
2016/08/10(水) 17:30:01.73 ID:kv4aHxC0
>>5
佐久間盛政にとって悪い話。
賤ヶ岳の戦いの敗因の濡れ衣を着せられた。
7 :
2016/08/10(水) 17:50:00.66 ID:kv4aHxC0
>>6
こっちの「悪い」というのは「気の毒」ってことね。
>>5の「悪い」はそのまま解釈してね。
8 :
2016/08/10(水) 19:20:17.83 ID:5oRQ+Ych
考察はいいので逸話をください
9 :
2016/08/10(水) 19:25:44.96 ID:GVKjmEBJ
自分で出せばいい。>>8
10 :
2016/08/10(水) 19:39:10.14 ID:5oRQ+Ych
残念ながら持ち合わせてございません
11 :
人間七七四年
2016/08/11(木) 05:01:18.58 ID:ZosboOOY
ふざけんなゴミクズ
生きてて恥ずかしくないのかこの社会のド底辺が
12 :
人間七七四年
2016/08/12(金) 19:52:43.93 ID:Kk3SUg2j
山本太郎

愛媛県の伊方原発が再稼動される。正気とは思えない判断だ。東電原発事故や熊本地震から一体、何を学んだのだろうか?
http://ameblo.jp/yamamototaro1124/entry-12189491723.html


マイト レーヤは原発の閉鎖を助言されます。
マイト レーヤによれば、放射能は自然界の要素を妨害し、飛行機など原子のパターンが妨害されると墜落します。
マイト レーヤの唇からますます厳しい警告と重みが発せられることを覚悟しなさい。彼はいかなる人間よりもその危険をよくご存じです。

日本の福島では多くの子どもたちが癌をもたらす量の放射能を内部被ばくしています。
健康上のリスクは福島に近づくほど、高まります。福島県民は発電所が閉鎖されれば1年か2年で戻って来られるでしょう。
日本の近海から採れた食料を食べることは、それほど安全ではありません。汚染されたかもしれない食料品は廃棄すべきです。
問題は、多くの人々が核の汚染の影響で死んでいるのに、日本政府が、原子力産業を終わらせるおそれのあることを何も認めようとしないことです。

注意欠陥障害(ADD)多動性障害(ADHD)、慢性疲労、あらゆる種類の癌の増大、呼吸そのものが脅かされています。
世界中で病気、主に皮膚、心臓、肺に関する病気の発生率が上昇し、ずっと昔に征服された病気が復活しはじめています。
汚染による死者の数は、他のいかなる原因よりも多いです。河川の汚染は社会に対する犯罪と見られなければなりません。
免疫システムの崩壊の結果がアレルギーです。人々は肺炎やインフルエンザやHIV/エイズなどに抵抗できなくなっています。
認知症の過程は放射能汚染によって加速します。増加するアルツハイマー病の原因となっており、より若い人々に起こっています。


2011年
3月18日  「致死量の放射能を放出しました」東電の小森常務は、こう発言したあと泣き崩れた。
        事故に直接責任のある清水・勝俣に20億円を支払い、事故当時の経営陣は全員、全額退職金を税金から分捕って逃亡
13 :
2016/08/17(水) 18:32:46.28 ID:O49atqFZ
梃子でも動かない男

寛永5(1628)年7月14日、江戸城において能があり諸大名が見物していた。
その時大地震が起こり、驚いて能舞台の周りの白洲に降りてしまう人が多かった。
森忠政は嫡男の忠広と共に座っていたが、向かいにいた忠広がすぐに(逃げようと)
立ち上がろうとしたのに気づくと忠広を思い切り睨みつけたので忠広は立ち上がれなかった。
忠政の隣に座っていた堀尾忠晴も立ち上がったが、忠政が袴の合引をつかみ座らせた。

伊達政宗は(逃げようと)端まで出てしまっていたが、忠政父子が(揺れていても)座っているのを見て
「御前が近いのに大騒ぎではないか、最早揺れも鎮まったのでみな席に戻られよ」
と差していた扇を開き、白洲に降りた人を取り鎮め自らも席についた。

翌日、堀尾は森家に来て忠政に
「昨日の御心付けは生生世世忘れがたいことです」と礼を言ったという。

――『森家先代実録』

……政宗がちょっとかっこ悪かったのでこっちに。
14 :
2016/08/17(水) 19:11:30.95 ID:zg4l8qgT
>>13
政宗せっかく取り繕ったのにばれてるw
15 :
2016/08/17(水) 19:35:39.02 ID:WgAt7fYc
>>13
以前読んだのは、忠政と家康以外みんな逃げたが、
逃げようとした政宗は、忠政と家康が微動だにしないのを見て、逃げるのを止めた。
だったと思ったが、1628年なら家康死んでるな。
16 :
2016/08/17(水) 19:42:28.89 ID:q/ilRzTo
凡人と偉人のラインの
ギリギリ偉人側にいるのが政宗
17 :
2016/08/17(水) 21:32:27.65 ID:WgAt7fYc
堀尾忠晴って、前田利常の彼氏だったな。
18 :
2016/08/18(木) 19:30:48.20 ID:zWB+z/Fv
これはたいへん申し上げにくいことなのですか、世の中では殿(井伊直政)のことを、人を斬る人物だと
沙汰しています。私達においても、よその知人から、『未だ生害にあわず、存命でしょうか?』と、
生存を確認する書状が来る始末です。

殿におかれては、大方の科は御堪忍なされ、処刑に値する罪でも、五度に二度は命を助けられ追放に
とどめ、罪のある中でも忠功のある者には、前の科を捨てられることこそ、誠の大将というものなのです。

殺害の多い大名は良い家臣を持てません。先年、当家(井伊家)は、美濃輪、橋田、秋山、戸倉、勝野の
五人、彼らは上方で名のある武士であったので、それぞれに千石づつ宛てがい召し抱えたいと伝えました。
彼ら五人は、その前は織田源之丞に仕え、五百貫を知行していました。そんな彼らに千石づつという
非常に高い条件で召されたというのに、彼らは「上方にて望む所があるので:と、断ってきました。

しかし、断った彼らの本音は、「井伊家はキツイ」という判断なのです。
その後千五百石まで条件を上げても参りませんでした。近頃聞いた所によると、彼らは本多平八殿の所に、
わずか八百貫で五人全員が参ったそうです。実に惜しき事です。
家臣が当家長久、子孫・武勇繁盛と祈るのも、それは長命を前提としているのですよ。

殿は六年ほど前からお心がけが変わり、物荒くなられました。
家康公の仰せにも、「何であっても三度家臣と相談して決定するように。」と有るではないですか。
これはしっかりと自覚すべきです。

(松のさかへ)

井伊直政への重臣よりの諫言書より。
直政の重臣たちにはよその知り合いから「まだ生きてる?」という書状が届くような状況だったらしい。
19 :
2016/08/18(木) 21:08:30.27 ID:sUGxG//l
>>18
>『未だ生害にあわず、存命でしょうか?』
どんだけ危ない大将なんだよw
20 :
2016/08/18(木) 21:23:15.57 ID:o2hjQZMp
q=井伊ね!
21 :
2016/08/18(木) 22:11:36.52 ID:MlTLB+Gb
鬼武蔵のところはどうだったんだろう?
22 :
2016/08/18(木) 22:12:31.09 ID:ZS1gmFa7
武士って本当楽じゃねえな…
23 :
2016/08/19(金) 00:45:11.09 ID:oH+VXyuJ
喜多院に味噌をすること成らず

永禄の頃とか、喜多院の住持が天狗となって妙義山中の獄というところに飛び去ったという。
よって住職代々の墓の中に、この住持の墓だけは無いという。

またこの住持に使われていた小僧も天狗となって飛び立ったが、庭前で墜ちて死んだ。
ゆえにその処に今小祠を建ててある。
この小僧が飛び去る前は味噌を摺っていたが、すりこ木を投げ捨てて飛んだとか。
その故か、今はこの院内で味噌を摺ると、必ず何物かがすりこ木を取り去ると。
なので味噌を摺る事ができないので、槌で打って汁にするという。
これもまた何者かがかくなしているのか。

(甲子夜話)
24 :
2016/08/19(金) 10:11:35.12 ID:/CyzfqZL
うんこは持ち帰りの逸話かと思った
25 :
2016/08/19(金) 13:04:04.23 ID:46fc0BLd
味噌を擂って使ってたのって昭和何年くらいまで?
26 :
2016/08/21(日) 02:03:59.09 ID:g3SzQ0MP
浅野長政の歩士が伊勢に使いをした時のこと。歩士が道に墓場のある場所を
夜中によぎったところ、変化の物が出現した。

その身体には火炎があり、不動明王の姿形のようだった。火光の中のその顔を
見れば、にかりにかりと打ち笑って、こちらに向かって来る。

歩士が刀を抜いて走りかかり、これを斬ると火光はたちまち消えて暗夜となった。
それから、歩士は伊勢に行き、次の日の帰路で件のところを見ると、苔むした
石仏の頭から血が流れ出ていた。また、刀の切っ先外れには斬った跡があった。

歩士は取って返し、この事を人に言ったが、誠らしからぬことなので親しい友に
密かに語り、刀を見せた。すると、その刃には血が付き、石のひき目があったが
刃は欠けていなかった。

浅野長政はこの事を聞いて、秀吉の耳に入れた。秀吉がその刀を召し寄せて
一覧すると、備中青江の作で2尺5寸のものだった。

秀吉は、「これは名物である」と言って、その刀に“にかり”という異名を付けて
秘蔵した(にっかり青江)。にかりはその後、京極忠高の家に伝わった。

――『武将感状記』
27 :
2016/08/21(日) 08:44:20.47 ID:IxSsKAaB
こっちは女の幽霊じゃないのか
てか、ニヤニヤしてる不動明王とか気味悪いw
28 :
2016/08/21(日) 11:38:25.16 ID:7gpb65U3
>>26
にっかり青江の別パターンか
29 :
2016/08/22(月) 03:26:52.13 ID:hhsYaD5R
堀尾信州(忠氏)は23歳で関ヶ原陣を勤めなさって功があった。
信州は帰陣以後に出雲・隠岐を拝領した。

信州は自らの縄張で城を築き、父・帯刀(吉晴)の後見を受けず
して完成させた。

信州が言うには、「帯刀殿の思し召しでもあれば、承りたい」との
ことであったが、ひとつの過ちも無かった。

その信州は26歳で死去した。

――『武功雑記』
30 :
2016/08/22(月) 08:12:16.67 ID:+u2AfNLo
人柱の祟りですな
31 :
2016/08/23(火) 04:34:45.80 ID:WpCl8dTq
段階踏んでどーこーじゃないよっての
いい例なんだよね実際
32 :
2016/08/23(火) 21:27:08.57 ID:JLm47JcP
森武蔵守戦死のときの甲冑所在の事

予が在勤していたとき、森右兵衛佐(忠賛)〔赤穂城主〕としばしば会った。
そのとき彼が語った中で、

彼の先祖の武蔵守は、世に鬼武蔵と称されていて、
長久手で戦死した時に着ていた具足が今に家伝しており、
糸威の鎧であるが、小兵と思われて、胴が小さく某には合わなかったとの話が出た。

この右兵衛佐もさほど大兵ではないので、かの鬼武蔵というのは
世の沙汰には似ず小兵と見える。

またその時着ていた兜は家には伝わってない。
聞くところでは永井の家にあると語った。

(甲子夜話)

鬼武蔵チビ説
33 :
2016/08/23(火) 21:36:21.16 ID:fxMtgD6b
鬼さん、ちびっこだったんか
34 :
2016/08/23(火) 21:43:13.34 ID:67sBkC92
>>32
信憑性が気になる
35 :
2016/08/23(火) 23:52:10.01 ID:AYGW6QM6
松浦静山が実際に聞いたってんだから、森忠賛がとりあえずつけてみたのは確かなんだろう
本当に森長可の具足だったのかどうかはさておき

でも小さくても鬼のように強いとかたまにあることだし
36 :
2016/08/24(水) 04:21:00.00 ID:QmNZSZ0d
中川修理太夫秀重(秀成)の家来・赤座七郎兵衛は鉄砲頭である。赤座の妻の
弟に村井津右衛門という浪人がいて、彼は赤座のところにいた。

岡城は険阻な地理で諸士の居宅はここかしこにあって続かず、10町ほど家から
離れたところには墓場があった。いつの頃からかこの墓場で、雨風の夜に物の
羽撃きと鳴く声がするようになった。

そのため化物が出て来たと言い広められ、農商女童はたいへんこれを恐れた。
こうして数日が過ぎた時、村井はある所に行って夜に入り、帰ろうと言った折、
雨風は激しく、夜も更けていた。

その帰路は前述の墓場を過ぎる所だったため、その座中の人々は、「きっと、
最近の化物が出るだろう。とにかく、ここに泊まりなされ」と、村井を止めた。

村井は「何の思慮も無く粗忽な言葉だな。こう言われては泊まるべきだろうか」と、
心中で思ったが、なんでもない体で「赤座に必ず帰ると申したので、寝ずに待って
いるでしょうから」と言って、帰った。

ところが、村井が墓場近くに来ると、羽撃いて鳴く音が聞こえた。村井は、「さては
事実だったか!」と思い、その声に従って歩み寄ったが風の絶え間に声が止んだ。

彼がこの辺だろうと声のした所に近づくと風が吹くと同時に“はたはた”“ひょうひょう”
と言って、頭の上に何かが掛かった。村井は前もって、「斬らずに捕らえてやる」と、
覚悟していたので、これを捕らえ手探りして見た。

すると、それは竹の子笠で、墓場の竹垣に掛けて置いてあったものだった。これを
外すと風が吹いても声はしなかった。村井はこれを取って帰り、とっくに寝ていた
赤座を起こして、「私は今夜、かの化物を斬り留めました」と言った。

赤座が「それは奇怪なことだな」とその事を問うと、村井は人を退かせて、「こうこうの
首尾です」と、言った。これを聞いた赤座は、「事実は言うな。単に斬り留めたという
ことにしろ」と言って、次の日に人に会いこれを語った。

つまり“はたはた”という音は笠が垣根に当たる音である。“ひょうひょう”という声は、
笠にさえぎられた風が、垣根の竹の穴に激しく当たる音である。

その後、羽撃きも鳴く声も無かったので、人は村井が斬り留めたのだと信じた。
世上で妖魔などと言い伝えるものは、その実を正せば皆竹の子笠の類なのだろう。

――『武将感状記』
37 :
2016/08/24(水) 14:02:15.40 ID:pPGBazbw
>>36
手柄にしちゃうのか(困惑
38 :
2016/08/24(水) 14:41:12.97 ID:jO55FeWP
はやく出てってもらいたい居候だしな
妖魔退治の噂が拡がれば仕官の話くらい出てくるだろう
39 :
2016/08/24(水) 16:06:04.15 ID:v1aiHHVU
騒動の原因を取っ払って不安を解消してるんだから
手柄にはなってるしいいんじゃないか
種明かしするか妖怪退治したことにするかは
教訓話が好きなタイプは前者の方を評価するだろうけど
義兄は後者の方がいいと判断したんだろう
40 :
2016/08/25(木) 14:21:09.55 ID:vy/UI/bB
ガラシャの鐘とディエゴ加賀山の殉教

永青文庫にて所蔵・展示されている「九曜紋付南蛮鐘」は、記録がないため詳細は不明だが
現存する4つの南蛮鐘(キリシタンベル)の内の一つで大変貴重なものであり
現代の細川家/永青文庫では通称『ガラシャの鐘』と呼ばれている。

ttp://sawarabituusin.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2013/04/15/130405_112_2.jpg

細川忠興は妻の珠(ガラシャ)とは生前信教のことで対立することも多かったものの、
珠が自害した翌年には焼跡から珠の遺骨を拾ってくれたオルガンティノに教会葬を頼み、自身も参列。
慶長7(1602)年からは、小倉城下ではセスペデス神父や家臣の加賀山隼人の指揮の下
天主堂や集会所等を作ることを許し、キリシタンに対して非常に寛容な態度で接していた。
忠興がこの南蛮鐘を鋳造させたのは、恐らく天主堂に寄進するためだったのだろう。
加賀山は10歳のときにフロイスから洗礼を受け、安土のセミナリヨで学んだという筋金入りの
キリシタンだったので、小倉の教会では中心的人物になったという。

しかし慶長11(1606)年のセスペデス神父の急死や、慶長18(1613)年の幕府の禁教令により
キリシタンに同情的だった忠興の態度はついに硬化し、天主堂を初め関連する建造物は全て破却された。
この鐘も小倉城下に音を響かせることは終ぞなく、櫓の隅に仕舞い込まれたと言われる。

当然細川家中でのキリシタンへの目も厳しいものとなり、六千石の禄を得ていた加賀山も幽閉され、
忠興に「自分と一緒に地獄へ行こう!」とまで言われ棄教するように説得を受けたが、拒否し続けた。
元和5(1619)年在京中に信者52人が処刑された京都の大殉教を見た忠興は、加賀山の説得を諦め処刑を命じ
10月15日、加賀山隼人(洗礼名:ディエゴ)は小倉城下町の西、干上りの丘で斬首された。
41 :
2016/08/25(木) 14:21:50.71 ID:vy/UI/bB
おまけ

細川忠興の親友森忠政はいろいろあって津山城を完成させ、お祝いに忠興から鐘をもらっている。
(参考:ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1154.html)

ttp://blog.zaq.ne.jp/bokuhakaze/img/img_box/img20110522130421625.jpg

通称『朝顔の半鐘』とも『篇笠の釣鐘』とも言われる鐘だが、『ガラシャの鐘』と九曜紋の位置や大きさを
除けば、非常に似通っている。
確証こそないものの津山城完成が元和2(1616)年で同時期のため、
ガラシャの鐘を鋳造するときに一緒に作られたのではないかという論考がある。
こちらの方は津山城の天守閣の最上階に吊るされ、時を告げる鐘として毎日鳴らされ続けたらしい。
42 :
2016/08/25(木) 20:30:59.76 ID:IOH8YPJd
プレゼントなんだから、九曜紋じゃなくて鶴丸紋にするべきだったんじゃないかな。
43 :
2016/08/26(金) 04:32:02.82 ID:SjtvSl7Y
西三条逍遥院(三条西実隆)殿が、御養生として有馬へ湯治に出かけたことがあった。
そのとき、歌の批評を望む者が参った。

とにかくよろしくないものであったので

昔より 奇特ありまの 湯ときけど 腰折れ歌は 直らざりけり
『腰折歌 下手な歌』

(醒睡笑)
44 :
2016/08/30(火) 02:43:42.84 ID:6yQcpp99
光秀の連歌、今愛宕になき事

愛宕山で明智光秀連歌のことは、世にあまねく知るところであるが、
そのときの懐紙、伝わってかの山房にあるという。

予は今年阪昌成に〔連歌師〕にこれを問うと、

「寛政の末に、かの山で火事があったとき、このものも消失ました。」

とのことであった。貴むに足りるものではないが、旧物なので惜しいものだ。

そのときの百韻は今に伝写のものがあるという。

(甲子夜話)

燃えちゃったので、里村紹巴の書き換えも分からないままとなってしまいました
45 :
2016/08/30(火) 20:11:06.04 ID:ec+RNKRo
高橋右近大夫種統(元種か)はもともと豊前国に所領を持っていたが、日向の懸にも土地を有していた。
大友家が滅亡した後、天正16年7月、豊前より日向に移り、松尾城に居住し、その後慶長8年、再び
懸城を築いて松尾城から移った。

元種は初めのうちは行状も正しく、領民たちも皆その政に懐いていたが、中頃より行状大いに乱れ、
酒宴にひたり女色に溺れ、無道の挙動多かった。

その頃、板坂出羽守(直盛)という大名の甥に、水間勘兵衛(宇喜多左門か)というあぶれ者が有った。
彼が故あって、直盛の厩預かりの侍を討ち果たして出奔した。直盛は大いに怒って将軍家に訴えたため、
将軍家はあまねく天下の諸侯にその捜索を命じた。

この水間勘兵衛は伊予国、飛田信濃守(富田信高)内室の従兄弟であったので、一旦は富田家を頼って
匿われていたが、富田信高も匿いきれないと考え、官兵衛に扶持を与えて、肥後の加藤家を頼って
遣わした。しかし加藤家でも匿いきれず、高橋家を頼り、高千穂の山奥に匿うことと成った。

ところがこの水間勘兵衛は、元来悪逆無道の者であったので、高千穂において召し使っていた人夫の一人を
手打ちにした。この時、元種の家老である花田備前守は元種に向かって
「あの水間勘兵衛を加藤家に返されるべきです!」
と諌めたが、元種はそれを承知しなかった。
しかし、勘兵衛に殺された人夫の父は、我が子が非命に死んだことを無念に思い、関東まで密かに上り、
板崎家に訴え出た。

こうして水間勘兵衛の匿われた場所が露見し、高橋元種も隠しきることは出来ず、勘兵衛を搦め捕えて
関東に差し出した。
時に慶長18年夏、駿府において富田、加藤、高橋の三家が召され裁判が行われた。

富田家は勘兵衛に不知を与えた罪により改易を仰せ付けられた。
加藤家は申し訳が立って無罪。
高橋家は匿い置いた罪によって、元種ならびにその嫡男に、出羽山形への配流を命ぜられた。

(日向纂記)

高橋元種が、富田信高と坂崎直盛の対立に巻き込まれて改易と成ったお話。
46 :
2016/08/30(火) 20:20:27.58 ID:8e77uKs8
>>45
>人夫の一人を手打ち
匿われてるのにクズすぎるだろw
47 :
2016/08/31(水) 00:05:59.17 ID:L4DywtDZ
叔父がクズなら甥の坂崎もクズでその甥もクズという連鎖
48 :
2016/08/31(水) 00:35:56.01 ID:udK35cdD
>>45
正確には元種一家は棚倉の立花家預かりだな
しばらくは宗茂が元種のために復権の活動してくれてたらしいけど
49 :
2016/09/01(木) 09:28:23.41 ID:OMaP3/ky
今が御侍の世の中だ

(美作国)大庭郡湯原村に住む宗玄という百歳超えの長寿の老人が言うには
今は御侍の世の中だという。

「某(宗玄)が若き時分は、笹向の侍、飯山の侍、一瀬の侍衆は
表裏によく糊を付けた白い布を打ってそこに綿を入れ布子にし、着物にしていた。
備前からの通路が不自由なので朝夕は麦飯と赤鰯しか食べることが出来ず
『誰尊上(目上の人)とは久しく会っていないなぁ』と言えば
『十日以上前に討ち死にして、毛利家に首を取られたよ』と言われて
『(奉公してから)そんなに間がなかっただろう』と聞けば
『奉公して三十日で討ち死にしたらしい』と言われた」

「今の侍は小袖を着て白米飯には肴を添え、その上敵に首を狙われる事もないので
今が御侍の世の中だ」と言ったとかいうことだ。

――『森家先代実録』
50 :
2016/09/01(木) 19:03:25.11 ID:szwZYy7K
将軍秀忠の娘(千姫)と豊臣秀頼との婚姻の沙汰有り、この執成を行ったのは加藤肥後守清正であった。
肥後守はこの当時、肥後熊本に在城して本知行70万石、御預り地24万石を支配し、誠に秀頼にとって
補佐の臣であった。

この姫君が大阪に輿を入れた後、暫くの間は天下無為の思いをなした。

このお輿入れは慶長8年7月28日という説があり、また慶長10年7月28日だったともいうが、これらは共に
妄説である。徳川家の実録によると千姫のお輿入れ慶長13年7月28日、輿添は池田輝政、浅野幸長とある。

しかしこの時豊臣秀頼は、関東(幕府)の仕方を悪み、そのため御台所とも不和であり、淀殿も後々には
対面すらしなくなった。この事は関東が、豊臣家に対する感情を悪化させる最初の出来事であった。

加藤清正は秀頼と千姫の不和を聞くと大いに嘆き、数ヶ条の言葉を以って諫言をしたが、秀頼は
全くその意見を聞かなかった。そしてこれは、大阪が社稷を失う基となったのである。

(慶元記)
51 :
2016/09/02(金) 00:05:46.39 ID:TDgDkPzi
>>49
森家ってあの森家?
52 :
2016/09/02(金) 09:24:33.24 ID:HDiKfvez
>>51
先代実録自体はいろんな書からの集成なんで(家記は大体そうだけど)
森家自体の話ではなくて森家が入った津山の地元の侍の話ね
53 :
2016/09/02(金) 12:44:19.68 ID:lZSj8fMP
大阪御城明ずの間の事

 大阪の御城内、御城代の居所の中に開かずの間というところがある。
この所は大きな廊下の側にある。ここは五月落城のときより閉じたままで、今まで一度も開いたことがないという。
よって代々のことなので、もし戸に損じがあれば版をもってこれを補い、開かざることとなし置くという。
 ここは落城のとき宮中婦女の生害された所という。
この故か、後になおその幽魂が残ってここに入る者があれば必ず変禍をなす事がある。
またその前にある廊下で臥す者は怪異に遇うともいう。

 観世新九郎の弟宗三郎、かの家伎のことによって、稲場丹州が御城代であったときに彼に付き従った。
ある日丹州の宴席に随って酒を飲み、覚えずかの廊下に酔い臥せった。
翌日丹州に

「昨夜、怪しいことはなかったか」

と問われたが宗三郎は覚えがないと答えた。

「さらばよし。ここはもし臥す者があれば異変が出る。お前は元来このことを知らなかった。
なので冥霊も許したのだろう。」

と言われると、宗三郎は聞いて初めて怖れて、戦慄居る所を知らなかった。

 また宗三郎の物語に
ある天気が快晴のとき、かの室を戸の隙間から窺がい見るとその奥に蚊帳と思しきものが
半ば外し、半ば鈎にかかっているものがほのかに見えた。
また半挿のようなもの、その他の器物が複数取り散らかしている体に見えた。
しかし数年久しく陰閉の所なので、ただその状態を察するのみであったという。

 いかにも身の毛が立つ話である。
また御城代の某侯、その権威でここを開いたことがあったが、たちまち狂を発せられて止めたという話も聞く。誰であったのだろうか。

 このことを林述斎に話せば大笑いして
「今の大坂城は豊臣氏の旧に非ず。偃武の後に築き改められた。まして家屋の類は勿論皆後の物である。
総じて世に流れる造説には実らしいこと多いものである。
その城代である人も旧事詮索しただけであろう、徒に斉東野人の語を信じて伝えるのは、気の毒千万である。」
という。
 
 林氏の説もまた勿論である。しかし世には意外の実跡もある。
また暗記の言は的証ともなしがたいものだ。
ゆえにここに両端を叩いて後、定めを待つ。
(甲子夜話)
54 :
2016/09/02(金) 16:12:38.73 ID:aSA/depL
>>53
なんだこの冷静な作者はw
55 :
2016/09/03(土) 10:00:07.73 ID:K223baAA
方広寺鐘銘事件について、難波戦記、片桐伝記、北川覚書などに記される所によると、
これが幕府から豊臣家を咎めた第一の理由であり、大坂の陣はこの事を理由に起こったように
記せられている。これは甚だしい妄説である。

幕府が片桐且元を召して告げた七ヶ条の御難題と、鐘銘事件は関係がない。
もちろんその七ヶ条の末の一ヶ条に、鐘銘に関東呪詛の文有りとの文言があるが、この事について
強く諌めてはいない。

いまここに、この鐘銘について記しているのは、世の人々皆が、この鐘銘より兵乱が起こったという説を
疑わず、童すらそう知っているためである。

この鐘銘の草案は前年の冬、片桐且元より本多佐渡守に遣わされ、「何か問題が有ればすぐに伝えてほしい」と
言いおかれている。しかしあえて供養の日に至って、板倉勝重より「関東調伏の文有りし故、供養は
延期するように」とその停止を求めた。これは本多正信、板倉勝重らの謀臣がこのように謀ったのでは
ないだろうか?
その奥意は深く計り難い。

(慶元記)
56 :
2016/09/03(土) 19:52:23.95 ID:wB+53SAg
今でも通説だよね
57 :
2016/09/03(土) 19:54:56.38 ID:AJFlgTjl
>>45のレスを見て思ったけど坂崎出羽守って歩く爆弾みたいなものだな

・宇喜多秀家(宇喜多騒動で家臣激減。関ケ原敗北で八丈島配流。ある意味直盛による最大の被害者)
・中村九郎兵衛(加賀前田家出身。宇喜多家執政。大坂で直盛に襲撃されて加賀へ逃亡)
・宇喜多忠家(息子が起こした騒動のせいで宇喜多家を退転隠棲する羽目になる)
・富田信高(直盛甥隠匿事件で改易に追い込まれた人その1)
・佐野信吉(富田信高の弟。直盛甥隠匿事件で改易に追い込まれた人その2)
・高橋元種(秋月種実の子。直盛のせいで改易に追い込まれた人その3)

以上は坂崎直盛被害者の会と言っていいと思う

その他

・千姫(直盛の逆恨みで襲撃されそうになった人)
・本多忠刻(忠勝の孫。小松姫の甥。千姫の再婚相手。直盛のとばっちりを受けそうになった人)
・立花宗茂(西国無双。千姫奪取未遂事件時に直盛の乱鎮圧の計策をひねり出したのはこの人らしい)
・柳生宗矩(宗茂の計策を胸に直盛を説得し切腹に追い込み乱を鎮める。二枚笠紋を直盛から譲られる)
・小野寺義道(元・出羽横手城主。直盛に恩義を感じ直盛十三回忌時に墓を建立)
・明石全登(大坂城七将星。元・宇喜多家客分。キリシタンになったのは直盛の勧めという)
58 :
2016/09/04(日) 10:31:28.65 ID:dE41Oe15
南部の地を仙台侵せしときのこと并侵地の広さ

奥州の南部の人がいる。
今青山大膳侯の家臣である。岡本祐助と称す。
彼は予の小臣の小楠十乃助なる者に以下の事を語った。

「南部侯の領内は広々と開けているので、
昔はあたかも限りが知れないと思われるほどの地であった。
ある頃の主は幼稚であったので、
隣接していた主の政宗とやらが、
徐々に領界の傍示を南部領へ移し立て、
仙台領を広めて、ついに大河がある辺りまで領境を及ぼした。
南部では大いに驚いたが、幸いにしてその河辺りに大洞窟があったのでそれを拠点にして、
この中に人衆を屯し弓銃を備え、仙台から人が来たら防御を専らとするようにしたら、
仙台の侵奪が止んだ。
今なおその穴の中に従卒を三十人ほど置いていて、
古昔からそのことは替わっていない。
なので今に至っても、交守して長城の塞兵の如しである。」

また言う。
「かの河向かいの、かつて仙台が侵略した地はおよそ二十万石とか。
今、目で全てを見渡すことができない大広田である。
今その所には、仙台侯の土着の士が多い。
それなのに南部侯の領有の地名を苗字にする者がいるのは、
彼らはかつて南部から仙台に従った、不義の輩であろう。」

以上は小人の話なので、実否は疑わしい。
(甲子夜話三篇)

バス停コピペを思い出す
59 :
2016/09/05(月) 12:22:55.41 ID:A8Sc2ruY
本にすると面白いね
60 :
2016/09/05(月) 13:31:03.55 ID:WluS7hFV
初対面の額を平手打ちして激昂した相手に仕返しされる逸話が好き
61 :
2016/09/05(月) 13:32:33.87 ID:vV2TbTzk
政宗の逸話はしょうがねえなーって感想ばかりだw
62 :
2016/09/05(月) 22:35:33.44 ID:ZYCSMBwN
>>58
なんかほのぼのとしてワロタw
63 :
2016/09/08(木) 08:59:52.56 ID:Zv8WSUbD
須賀川の城落つる事


二階堂盛義の正室大乗院(一般には阿南姫と呼ばれる)は夫の盛義と次男の行親が相次いで
没したため、天正10年(1582年)から須賀川城主となっていた。
阿南姫は伊達晴宗の長女で政宗から見れば伯母にあたる人物だが
蘆名盛隆(実は蘆名氏に養子に入った阿南姫の長男)とその子が没したときに
伊達側が政宗の弟小次郎を養子に送り込もうと画策し失敗したことが
禍根となり伊達家とは絶縁状態であった。

天正17(1589)年、伊達政宗が摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼした後
親蘆名だった二階堂家の須賀川城にも数日中に攻め寄せる風聞が立った。

評定の席で家臣たちが阿南に
「伯母なのだからきっと悪いようにはしない(命は助けてくれる)でしょう」
と降伏をすすめると阿南は
「いや、そうではない。はかない女の身ながら一途に思い入れていることがある。
我が身が盛義と離れてから九年になるが、思うようにならず暮らしていたところを
田村清顕が浅ましくも小倉・松ヶ鳥屋に押し寄せてきて河東の郷を奪い取ろうとし
防戦したとは言え関河内まで難なく清顕が入ってきたとき、嬉しいことに
佐竹義重が大軍を後詰めに出してくれたため清顕を追い返すことが出来たのだ。
松ヶ鳥屋のあたりを今まで無事に領しているのはひとえに義重のおかげである」
「我が身を安々と政宗が手中に収めてしまえば、仙道筋の諸将であの者に逆らおうと
する者はいなくなるだろう。そうなれば横柄な政宗は上見ぬ鷲の挙動してすぐにも
義重に仇をなすだろう。我が身だけはせめて一日でも歯向かい義重の恩に報いたいのだ」
と訴えた後、重恩の郎党共を召し寄せて
「風聞通りなら間もなく政宗が大軍で押し寄せてくるだろう。そうなれば多勢に無勢の習いで
安々とこの城は落ち甲斐なく討たれることは必定だろう。また命を惜しみいずこへ落ち延びたところで
草葉を分けて探しだされ妻や子どもにさらに憂き目を見せるだけになるのではないか。
ここはそれぞれ思うように降り政宗に奉公してほしい。少しも恨むことはない」
「我が身は女ながらも思うことがあるので、一人でもこの城でこらえて政宗が寄せてくるのを
待って自害する。冥途まで一緒にと思う者は伴をせよ。そうでない者は暇を得させよう」
と目を涙でいっぱいにして訴えたので、そこにいた家臣たちも袂を顔に押し当ててしばらく
涙に咽んでいたが、少しあってから
「そこまで思い定めなさっているのに、誰が恩を忘れ見捨てることがあるでしょうか。
たとえどのようなことになってもまず私達が討死してからの御身のことだと思って下さい」
と頼もしげに言ったので、阿南もとても嬉しそうにしていた。
64 :
2016/09/08(木) 09:00:44.01 ID:Zv8WSUbD
しかし政宗が侵攻してくるという沙汰が頻繁になってくるといつしか家臣同士も不和となり
早くも降る人間も出始め、重臣の守屋筑後守も伊達側と裏切りの密約を交わした。
侵攻してきた政宗は、敵側の死狂いに味方が駆り立てられ死傷者が増えるので攻めあぐねていたが
そこで守屋が自分の指物を抜いて部下に合図し長祿寺という禅寺の便所に火を付けさせたところ
西風が激しく吹き城中の役所に燃え移り四方に焔を吹いて軒を連ねた舘共々、炎上した。

阿南はこの成り行きを見て守屋の謀反を悟り、城中にいた守屋の妻を呼んで
「守屋め、譜代重恩の身を忘れこのようなことをするとは情けない」
と言ってさめざめと泣いたので、守屋の妻は応えて
「まことお恨みの程、愚かな我が身にもこれ以上はないと思います。この上は
御胸を晴らす為に某をどのようにでもしてください、露ほども恨みはしません」
と涙ながらに言ったので、腹をすえかねた阿南が襟を掴み刺し殺そうとすると
流石に女の儚さでそばにいた女房が袂に取り付いて妨げたので、阿南は小刀で
自害しようとし、大勢でとどめることになった。

その後政宗の元から迎えの人間が十四、五人来たので女房八人侍九人が阿南に付き添って
炎の中から泣く泣く出てきたことは、哀れといえるだろう。

――『会津四家合考』

その後阿南は政宗によって保護されたが伊達側が用意した食事には手を付けず、政宗のことを嫌って
甥の岩城常隆を頼ったが常隆が亡くなると、さらに甥の佐竹義宣の下に身を寄せた。
慶長7(1602)年佐竹家の転封に伴い出羽国に赴く途中、須賀川付近で病を得て亡くなったという。
65 :
2016/09/08(木) 14:06:48.26 ID:jEld/eEc
>>63-64
嫌になるぐらいリアルだ…現実は小説や映画のようにかっこよくはいかないなぁ…。
66 :
2016/09/10(土) 07:36:06.71 ID:jkkgXYN4
佐竹義宣が石田三成と親しかったのは、理由の有ることであった。
常陸国には三十三館(南方三十三館)といって、名家の末があったら、年来義宣の下知に
従おうとしなかった。石田三成は関白秀吉の覚えめでたい人物であったので、義宣はこの人に
付いて「三十三館の者共が、関白の仰せを軽んじています。」と訴えた。

三成は秀吉の側にあり、これを取り次ぐと、秀吉は「下知に背くものは尽く誅すべし。」と
仰せ下した。
義宣はこれを受け、三十三館の者達を招き寄せると、そこに武士を伏せておき、尽くこれを殺した。
そして彼らの城々に討手を遣わしてその一党を攻め滅ぼし、所領尽く併呑した。

関ヶ原の後、佐竹は出羽国に転封となった。
この時佐竹家臣の群馬丹波守猛虎という者は義宣を諌めた

「君にはどうして、唯々諾々と先祖伝来の地を他人に渡されるのですか!?
ここには恩顧普代の侍が5万人あり、兵糧の蓄えも、10年ほどは不足しません。
さらに、この城(水戸城)は要害堅固であり、天下の兵を集めて攻められたとしても、
一気に落とされるようなことはありません!
しかし一旦ここを去ってしまえば、もうどうにも出来なくなるではありませんか。」

しかし義宣は言った
「お前の言葉は理あるに似ている。だがな、佐竹義久が内府のことを天の許せる英雄であると言ったのは
違っていなかった。

私は先に、三十三館の者たちを滅ぼし、その領地を尽く取り上げた。
今日、私に従っている者達の中には、その親族遺臣が少なからず居るが、彼らが背き離れようとしないのは
私を畏れるためではない。内府の威を憚っているからだ。

お前は私のために命を惜しまぬと言うが、どうしてかつての仇敵に縁のある人々を率いて、
天の許せる人に歯向かうことが出来るだろうか?戦が始まる前に、内乱が起こればそれこを
どうしようもなくなる。」

こうして、佐竹義宣は七十余騎のを率いて累代の地を去り、秋田城へと入った。
しかし群馬丹波守猛虎は

「よしよし、大腰抜けの大将の手に従って、何の功があるだろうか!我のやり方を見よ!」
そう言って手の者を率いて旧領に立ち返り、徳川家の代官を夜討ちしようとしたが、事表れて
捕縛され斬られた。

(話園)
67 :
2016/09/10(土) 08:06:35.79 ID:nMnnQhTV
車か
68 :
2016/09/10(土) 10:01:45.01 ID:FHiD7+jV
団吉さんの先祖か
69 :
2016/09/10(土) 11:36:58.85 ID:6O+I42Iv
猛虎魂を感じる
70 :
2016/09/10(土) 12:10:51.78 ID:FIfw/Yj9
ほんの10年前に小田原城ですら籠城諦めたというのに
71 :
2016/09/10(土) 16:13:41.82 ID:CLzpJJzs
勝てるわけねーw
72 :
2016/09/10(土) 17:58:44.42 ID:eb/flYs6
大坂から遠征してきた秀吉ですらあの破壊力なのに、江戸を本拠にしてる徳川に逆らうとか滅亡確実やんか
73 :
2016/09/10(土) 20:19:46.69 ID:VXkU+es6
片目の人「領土拡張のワンチャンあるでwww」
74 :
2016/09/12(月) 00:02:56.43 ID:LvRoFsZ9
三方ヶ原の戦いの後、武田信玄によって行われた野田城攻め、この戦いの中である夜、
武田方は不意に城を乗っ取ろうと寄せてきた。

野田城中ではこれに気がつくと、敵が近づくのを見計らい。弓鉄砲を一斉に放ち、近づいて
塀に取り付くものには大木を使って突き落とし、必死の防御をした。

ここに、小楠又右衛門という者が野田城南の曲輪を守っていたが、敵がそこに攻めてくるのを見ると、
彼は女房に矢櫃を持たせ、矢継ぎ早に敵に射かけた。彼は弓術の達人であり、あだ矢なく
射続けたが、遂に矢種が尽きてしまった。

ところがここで、矢櫃を持っていた又右衛門の女房(彼女は無双の大力であった)が大石を
礫のように投げ下ろした。これによって、敵には兜の鉢を打ち割られた者、或いは手足を
打ち折られた者が夥しく、慌てて引き退いたという。

(野田戦記)

敵の矢が尽きたと思ったら女ドンキーコングが居たでござるの巻
75 :
2016/09/12(月) 00:11:04.55 ID:Ml1ss3zT
矢の方がましだったでござる
76 :
2016/09/12(月) 13:19:51.55 ID:BBC0j9Np
>>66 悪名高い三十三館のだまし討ちですね。
77 :
2016/09/12(月) 17:17:18.94 ID:d/81xp/w
>>74
大石ってのが凄いなw
78 :
2016/09/12(月) 18:14:36.53 ID:bVa6Ctst
巨石じゃないけど…そんなにすごいの?
79 :
2016/09/13(火) 01:17:27.18 ID:Q/4NsHvX
人間の骨が折れるってことは最低でも大きめの漬物石くらいはあるな
80 :
2016/09/13(火) 16:32:21.63 ID:u8uFI+D3
大坂御城中、深夜には殺気ある事

新庄駿河守直規というのは〔常州麻生領主、一万石〕予の縁家で活達直情な人である。
寛政中、抜擢されて大番頭となった。

彼の話に、大坂在番に行って、御城中に居ると深夜などは騒々しい音がある。
松風かと戸を開いて聞くと、そうではなく正しく人馬喧乱争の声を遠く聞くようである。
しばらくすると止むが、時々このような事がある。
大坂の合戦で戦没の人の魂気が残っているためだと伝わっている。

予は奇聞と思い、その後在番した人に問うと、その事は知らないと言う。

駿州はでたらめを言う人ではない。
心無い輩は何事も気づかないのであろうか。

(甲子夜話)


どうやら、静山さんは洒落の通じない人は気に食わないようです
81 :
2016/09/16(金) 00:06:48.75 ID:SRMLoQW2
武田信玄に攻められていた三河野田城に籠城する者の中に、村松芳休(一節に法休)という者があった。
彼は伊勢国山田の出身で、笛の名人(異名を小笛芳休といった)であった。

この者、武田軍に包囲された野田城にあって、毎夜櫓に上って笛を吹いた。寄せ手の諸将も
これを聞いて、大いに感じ入ったと云う。
ある夜、芳休が例のごとく笛を吹き、その妙を極めた。この時武田信玄が陣廻りをしていて
この笛の音を聞き

「優しくも、明日を限りと覚悟して吹いているように感じる。しかし当世の笛の上手の中で、
これに過ぎる者があろうか。」

そう語ると、矢文を城中に射込ませた。その上書きには『笛の殿へ参る』と書かれていた。
その内容はどのようなものであったか、今に伝わっていない。きっと笛の妙技を賞美したのであろう。

菅沼家譜によると、この村松芳休が毎夜笛を吹き、敵もこれに聞き入る中、2月9日、竹を立て
紙を張り巡らせた中で堀端にて笛を聞く者が居た。これを鳥居三左衛門が訝り、この竹を目印にして
鉄砲を仕掛けおいた。

その夜、芳休がまた笛を吹くと、あの竹のあたりに人声が聞こえた。鳥居は敵が笛の音を聞きに
現れたことを知って、矢場より鉄砲を撃った。目当ての竹のあたりで、「大将が撃たれた!」と
叫ぶ声が上がり、敵陣は暫くの間驚動した。この時の鉄砲は、信玄に当たったのだと言い伝わる。

(野田戦記)
82 :
2016/09/16(金) 10:12:01.06 ID:NIv0BKyK
尼子政久「無粋なやつめ」
83 :
2016/09/16(金) 11:09:41.21 ID:BKFh2dMD
三村家親「まったくだぜ」
84 :
2016/09/16(金) 13:36:01.71 ID:B78Kd0Cs
神祖御山駕銃丸之細聞

前に、今の林祭酒(述斎)が日光御蔵にある神祖の御山駕籠を拝見されたときに、
この御駕籠の屋根から銃丸を見下ろしに打ち貫いてあることを知った。
何者がかかる非逆の所為をしたのかとの念が止まらなかったところに、
近頃宗耕にこの事いかんと問うと、以下の話をしてくれた。

「『武徳大成』には、
慶長十九寅年十月二十一日、彦根松原で神祖の御駕籠へ鉄砲を打ち入れた者がいた。
御目付山本新五右衛門が吟味したところ、
真田の家来の日下部五郎左衛門と申す者によることだとことであった。」
との記述があるらしい。

これによれば、大坂御陣のときと見える。
真田の奸計は、これに始まらないことであるが、彦根の松原は御味方随一の地であるのに、
ここにガマリをこのように出してきたのは、流石真田である。
されども御当家の御剛運は、神明諸仏も加護があるので、
いかに真田といえどもとても及ぶ所ではない。
そのうえおかしいことに、このように打ち損じたら人々は驚いてすぐ捜索するというのに、
日下部は木の上に居たので、逃げ遁れることも叶わずすぐに生け捕らえられたということだ。
筆記するだけでも笑えてくるのは、しかたのないことだ。
喜々粲々

(甲子夜話三篇)
85 :
2016/09/16(金) 21:05:01.80 ID:SRMLoQW2
天正18年、徳川家康の関東入国にあたり、家康は彦坂元正を派遣して菅沼定盈にその所領分限を尋ねた。

その頃定盈は東三河でも2,3を争う大身であったのだが、課役の重くなるのを恐れ、彦坂元正と相談の上
所領三千貫(三千貫とあるが三千石の誤りか)と言上した。
ところが、却って本知行の3倍、一万石を賜り、上野国阿保(一節に阿布)に移った。

菅沼定盈は阿保において隠居し、家督を嫡子新八郎定仍に譲った後、定仍に与えられた伊勢長島において
慶長九年七月十八日、六三歳にて逝去した。


(野田戦記)

軍役が嫌で所領少なめに申告したらその三倍もらっちゃったでござるの巻
86 :
2016/09/16(金) 22:41:53.10 ID:3G+Fzqpe
三千貫なら一万石でだいたい合ってる気もする
87 :
2016/09/17(土) 00:25:27.25 ID:iAZnnAm7
方広寺大仏殿開帳(天保三年,1832年)のとき、
京都を通行した者が来て、そこで聞いた話をしてくれた。

かの大仏の宮の殿内、宝物を置いた間が所々ある中で、
書院の縁側、幅二間長さ十間ばかりの所の板天井に
血がついた手の跡、足形、またはすべったかとみえる痕がある。
その色赤いのもある。黒づいているのもある。
板天井一面がこのようである。

人に伝わっているところでは、
昔関白秀次生害のとき、随従の人が腹切り刺違えなどして死んだときの
板敷の板を、後に天井板にしたものという。

(甲子夜話続編)
88 :
2016/09/20(火) 20:41:46.34 ID:b/22oOZi
元和元年、大阪夏の陣でのこと。

5月6日朝、菅沼定芳の属する本多忠政隊は、道明寺口にて大阪方の後藤又兵衛基次、薄田隼人正兼相、
井上小左衛門時利たちの部隊と戦った。

菅沼定芳の家臣である菅沼権右衛門定栄は、騎馬武者30人ばかり預り、大阪方の侍大将、
井上小左衛門時利と渡り合い、互いに組み合いとなった。
井上時利は剛強なる者であり、定栄を組み敷きまさに首を取らんとした。

この時菅沼定栄の若党が気が付き、急ぎ駆け付けたが、時利も定栄も同じ毛の物具を着けていたため
見分けがつかず、大声で聞いた

「菅沼権右衛門は上か、下か!?」

ところが両人同時に答えた

「上だ!」「下だ!」

これに若党は、何れが自分の主人なのかと狼狽えた。しかし下に居た菅沼定栄が叫んだ

「声で聞き取れ馬鹿者め!!」

この言葉で若党は気付き、すぐさま井上時利を斬りつけた。
流石剛勇の時利もこれに怯んだ所を、主従力を合わせて彼の首を取った。

(菅沼勲功記)
89 :
2016/09/21(水) 10:33:11.80 ID:8ubvevsu
後藤基次「そこはニヤニヤしながら眺めなされ」
90 :
2016/09/21(水) 18:43:13.55 ID:yeydsKu6
「この口の悪さ、殿様に違いねえ!」
91 :
2016/09/21(水) 19:10:03.72 ID:tHBPXEBD
うまいな
92 :
2016/09/21(水) 22:42:00.20 ID:vph+TqPt
スタートレックのカーク船長であったな
こんなシーン
93 :
2016/09/22(木) 14:26:37.91 ID:Dv6EZXBZ
天文22年、阿波守護である徳雲院様(細川持隆)は腹立ちの事があり、奉行人の四宮与吉兵衛という者と
談合し、

『三好実休を相撲があると知らせ呼び寄せ、討ち果たそう』

そう仰せに成った。この時、相談相手の四宮与吉兵衛が実休に返り忠をしているとは、持隆は夢にも
知らなかった。
持隆は用心もなく勝端の町の北の河端に、龍音寺という寺が在ったが、そこに遊山に出かけた所、
実休は上郡の人数二千を呼び寄せこの付近に集結させた。

これを知った持隆は肝を潰し、そこから堅昌寺という寺に移ったが、お供の者達は藪へ隠れ方々に
逃散して、最後には星相殿と蓮池清助という者の2人のみがお供をしているという有様であった。

ここで実休は持隆の無道を悪み、「たった今、お腹を召されよ」と申し付け、これにより
星相殿が介錯をして切腹された。蓮池清助という者は不肖者ではあったが、常々持隆の悪しき点を
申し上げ諫言していたため、御意に違い御扶持も枯れ枯れの状態であったにもかかわらず、
「お供申す」と立ち腹を切って果てた。この清助の最後を褒めぬ者は居なかった。

実休はこの後、返り忠をした四宮与吉兵衛知行を与えたが、1年間召し使った後に成敗した。
この時実休はこう言った
「どんな身の上であっても、表裏して主君を果たした事は、悪きことである。」
この処分を人々は褒め称え、また四宮与吉兵衛を悪まぬ者はいなかった。

(三好記)
94 :
2016/09/22(木) 20:13:44.66 ID:5ZQAlpas
>「どんな身の上であっても、表裏して主君を果たした事は、悪きことである。」

爆弾正「果たしてそうでござろうか?」
95 :
2016/09/22(木) 21:11:25.97 ID:aXC+X0IO
持隆の側室を妻にした下剋上男が何を言うか
96 :
2016/09/22(木) 21:29:35.60 ID:SBZd/A5r
今発売中の別冊宝島「戦国史を動かした武将の書簡」というものに、武将の手紙が
カラー写真で載っている。文章は知っていたが、手紙そのものをカラーで見るのは初めてのものも
多い。その中で、ちょっと悪いかもしれない話。

原 文「唯今虫けらのやうなる子ども候」
        ↓
口語訳「虫けらのような分別のない庶子がいる」

虫けら呼ばわりだが、原文の手紙を見ると、年少の子どもなので
「まだ小さくて、物事の分別がつかない虫のような子どもたち」という、気の毒に思っている
ニュアンスがある。
97 :
2016/09/22(木) 23:41:33.75 ID:aXC+X0IO
元就「虫けらのくせに立場をわきまえないから家騒動や謀叛が起きるんだよ。
98 :
2016/09/23(金) 07:35:19.39 ID:oEw7Rsfg
小早川隆景>>>>>>>>吉川元春>>>>
穂井田元清>>>>>>テルの父
99 :
2016/09/23(金) 12:29:28.42 ID:v51T/mcu
虫けらの子孫が毛利の嫡流になるとは
思っても居ない元就でした
100 :
2016/09/24(土) 00:59:13.74 ID:JPViE3/E
【山口】裏表のない「正直ヒラメ」発見 体の両面が茶褐色 萩博物館で25日まで展示 [無断転載禁止]

コレは山口だが、まーくんの「両側が表の魚」の逸話はこういう魚を使ったんだろうな。
よく見つかったもんだ。
101 :
2016/09/24(土) 05:46:27.15 ID:MebFjYs2
3人が結束すれば、3本の矢のようにと、先祖の遺書を読み上げて訓示するが、
虫けらのことは伏せとく情報操作。
102 :
人間七七四年
2016/09/24(土) 06:25:36.41 ID:O5X/52cq
>>101
広島城の二の丸にその虫けら云々ぬ手紙展示してあった気がする
103 :
人間七七四年
2016/09/24(土) 06:59:51.42 ID:O5X/52cq
一休さんと次休さん

大永四年(1524年)、大内義興が嫡男義隆らと共に2万の兵を持って尼子経久に属する安芸の諸勢力を攻めた時の事。
安芸の守護武田光和が篭る銀山城を陶道麒(興房)と包囲した義隆であったが、堅固な銀山城の前に城攻めが長引いていた。
そんなある日、義隆は諸軍に備えを解かぬ様固く申し付けると、道麒を誘い根の次休蔵主の旧跡を見に土地の古老を道案内として出掛けた。

山を越え、谷を深く下り、道も細く丸木の橋も朽ち掛けた道を行き、漸く次休蔵主庵の跡へ着くと、
百年余りの歳月を経た為今や庵室は跡も無く成り果て、境界さえ見分けがたく、深い苔に礎も埋もれ、池の水は枯れ果て(以下長いので略)… と言った有様であった。
義隆は眼に映るものごとに心を動かされ、蔵主の昔のことを聞きたく思い、道案内の老人に話を乞うた。

古老曰く、申し伝えによれば百年余り前三蔵主とは。山城紫野の純蔵主(一休)、伊勢の養源寺の虎蔵主、それに安芸の次休蔵主のこととか、いずれも世に聞こえた禅僧であった。
その一人の一休禅師はある日「安芸の次休は深山の中に入り、跡をくらまし、名を隠そうとしておる。かの所に赴き、その邪か正かを見分けよう」と、次休に会いに紫野を旅立った。
次休蔵主は現在過去未来三世通達の僧ゆえ、一休の訪問を予め感知し、侍者に向かい
「一休宗純が私を試みようとたった今、龍宝山を、出発したよ」
とおっしゃり、そののち
「今日こそ到着の日、美味い魚を取ってもてなしてやろう」
と遥か遠い川辺に出て、釣り糸を垂れていた。一休はもとよりこれを知らぬが、川辺まで来て釣り糸を垂れる次休に
「これ、おじいさん。次休蔵主の庵室を知っておいでか?」
と問うと、次休は
「あなたは純蔵主でしょう」
と答え、一休は愕然として
「あなたは神通方便でも得ておるのか?なぜ拙僧の名を知っておられるのか?」
と尋ねた。次休はこれに
「貴方は私を試みる為にここまで来たのでしょう、私が次休です。」
と、名乗り手をたずさえ庵室に入り歓談が始まった。
104 :
人間七七四年
2016/09/24(土) 07:00:01.39 ID:O5X/52cq
次休は自ら釣ったすずきの膾やじゅん菜の吸い物を進め
「あなたの旅の疲れを慰める為、わたしの神通方便をお見せしましょう」
と、皿の中の銀糸に作った膾をとって、むしゃむしゃと噛み
「この魚を再び元の魚に返してみせましょう」
と皿の上に吐き出した。」
すると、すずきはたちまち生き返って跳ね上がり、龍門三級の波を起こす程の勢いであった。
一休はこれを見て
「あなたは魚を再び生きた魚とされた(中略)拙僧はまたこの魚を仏にしてお目にかけましょう。」
と言うと、裳裾を高々と掲げて、
あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!! )
と敷物の上に糞を垂れ
「万法は一に帰す。食は尽く糞に帰す。されば糞中の虫である三世の諸仏は、この中に隠れておりますぞ。
昔の少康師は、一度南無と唱えれば、一体の仏、口より湧き出でさせ、続けて十声唱えれば、十体の仏を出したとか。
彼は口中より仏を出だす。拙僧は肛門から仏を出だす。少康師よりなお勝っていることよ」
と、手を打って大笑いした。

次休、これを見て「風顛漢め、人々をたぶらかすまいぞ」とおっしゃって、また一杯の水を口に含んで吐き出されると、炎となって空中にほとばしった。
一休は「あなたは孫博が草木をしてみな火光に変じた術を会得しておられるのか。(中略)拙僧もまた活手段を行じましょう」
と、鉢の水を飲んで、仏殿の内に向かい小便をし、「あなたは水を転じて火をなされた。拙僧はまた、山は是れ山、水は是れ水じゃによって、元の水に返したのじゃ」
とおっしゃった。
次休は「あなたは私を試みるがため、こうしてわざわざやって来られ、私はまたあなたの知恵を計るため、このような方便をお見せしました。
あなたはいまだ神通力を得ておらぬものの、自由自在の手段を用いられた。おかげさまで今日初めて高僧と言うものにお会いできたわけです。
我が禅宗、この国に伝わって年久しいが、今あなたが現れて、さだめし大いに世に興隆することでしょう」
と褒め称え給うたと申します。一休もまた「わたしもまた、生身の文殊支利菩薩にお会いできました」と、三度拝礼して、やがて暇乞いし、帰京した。(長いので以下略)


(陰徳太平記)
105 :
2016/09/24(土) 07:57:01.24 ID:XO9yYF3G
ダイナミックすぎる
106 :
2016/09/24(土) 09:13:36.90 ID:FJgE9Zqf
ノブも信忠と信雄以外の子供はガチで虫けら扱いだったけど
なぜか信孝だけは例外
107 :
人間七七四年
2016/09/24(土) 09:18:00.61 ID:IZtf/wAU
とりあえずこの後は京に帰った一休さんが、次休がナンバーワンだと周りに語ったり次休が超能力で遠くの寺の家事を消したりする話を古老がして大内義隆から褒美貰って
大内義隆が、安芸を征服した暁には此処にまた大きな伽藍を建ててやると語って、大内義隆の安芸征服は是からだ、義隆先生の次回作にご期待くださいエンド

>>105
奇人と名高い一休さんも後世に脱糞ニキにされるとは思うまい
108 :
2016/09/24(土) 10:26:50.80 ID:lCi6cimj
信長自身が庶長子差し置いて家督を継いでるから
庶子と嫡子の扱いが全然違うし
戦国では常識なんだよな

権現様が異常なだけ
109 :
2016/09/24(土) 14:06:08.96 ID:lApELJe1
烏帽子親が柴田勝家だもんな
津田信澄が養育されてたのも柴田勝家
佐久間盛政といい柴田勝政といい勝家が教育した子供は有能だ
110 :
人間七七四年
2016/09/24(土) 15:00:04.77 ID:Z00FwZP5
雑談だが
伊達政宗や立花宗茂さんが水野勝成さんの環境の中で生まれたら天下を取れたのだろうか?
逆に水野勝成さんが伊達政宗や立花宗茂さんの環境の中で生まれたら生き残れるか
興味ある。
111 :
2016/09/24(土) 15:29:56.46 ID:InraK0pT
どうでもいい
112 :
2016/09/24(土) 15:49:26.64 ID:VxWqyVUz
>>103-104
一休さんの奇人エピソード多すぎぃ!
時代がちょっとずれそうだけど劇中劇?だからいいか。
113 :
2016/09/24(土) 18:33:59.69 ID:MebFjYs2
>>102 サンフレッチェは、3本(サン)の矢という意味だそうだが、
2軍選手に向かって、虫けらのよう
と言ったらやはり怒り出すだろうか。
114 :
2016/09/24(土) 19:18:08.76 ID:VxWqyVUz
言葉の意味や使い方なんて時代で変わるんだから、今の価値観で虫けら?酷い!ってのはいかがなものか。
子供の「供」は供物、って意味だから問題があるなんて言葉狩りが最近あって、メディアではひらがな表記になったとか。

300年後には昔の人は子「供」と書いてる、野蛮!と言われるようになるのかな。
115 :
2016/09/24(土) 23:40:57.00 ID:JPViE3/E
>>110
まーくんはどうだか知らんが、宗茂ならどんな環境でもうまく適応してやって行けると思うが、天下までは無理だろ。だいたい宗茂は天下狙うようなキャラかね?
勝成は、晩年の名君キャラに成長するまでは生き残れないんじゃね?
伊達家なら小田原後あたりで秀吉に殺されるだろ。
立花家なら関ヶ原後に切腹かな。
116 :
2016/09/24(土) 23:49:36.43 ID:0CbiVLMf
>>114
数年前、嫁が役員やってる子供会の名称が、「〇〇市子ども育成会」に変更になった。
こどもはおとなの「供」ではない!との観点から、名称を「子供育成会」から「子ども育成会」に変更しました、って説明受けたが・・・。
117 :
2016/09/24(土) 23:53:39.77 ID:FJgE9Zqf
虫けらはいつの時代も普遍的に虫けらだから馬鹿
118 :
2016/09/25(日) 12:17:47.01 ID:4EaSMYkj
そもそも勝成が天下とってねーし
119 :
2016/09/25(日) 17:22:56.44 ID:WSppQdy/
徳雲院様(細川持隆)の北の方は、周防の大内殿の娘であった。
彼女は、岡本美濃守の娘の小少将殿と申す人を小女房として奉公させていた。
ところが北の方には御子がなく、持隆は小少将殿に目をかけられ、やがて若君一人(細川真之)を産んだ。

三好実休は細川持隆を切腹させた後、「主君に御腹召させたのは天道恐ろしき事であり、
この若君を置いて前々のように主君として崇めよう。」とし、そうして小少将殿を自身の
妻に据えた。やがて実休とこの小少将の間に子ができた。この子は幼名を千代松といい、
烏帽子名は彦次郎。御名乗を長治という。

(三好記)

三好実休、良かれと思って細川真之を擁立し小少将を妻にした、というお話。なお
120 :
2016/09/25(日) 19:39:11.35 ID:OjONIPR6
ワハハ奸婦め!
121 :
2016/09/25(日) 21:01:41.34 ID:pd/6K8CZ
小少将はサゲマンという説が(元親の側室は単に同名のようだけど)

「小少将」の犠牲者の一覧
細川持隆 小少将の最初の夫。細川真之を設けたが、家臣の三好義賢に殺害された。
三好義賢 細川持隆謀殺後に小少将を嫁にして三好長治と十河存保を設けるも、久米田の戦いで戦死。
篠原長房 三好義賢戦死後に弟が小少将を嫁にしたが、弟の讒言により三好長治に攻められて敗死。
三好長治 小少将と三好義賢の子。小少将と細川持隆の子で異父兄の細川真之に討たれた。
細川真之 小少将と細川持隆の子。小少将と三好義賢の子で異父弟の十河存保に討たれた。
十河存保 小少将と三好義賢の子。小少将が側室になった長宗我部元親と共に参加した戦いで戦死。
長宗我部元親 小少将を側室にした四国の英雄。その後長男が九州で戦死し後を追うように病死。
長曾我部右近太夫アンド十河存英(存保の息子) 共に大坂の陣で大坂方について死亡
122 :
2016/09/25(日) 21:41:39.15 ID:YOONVF6X
       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (・∀・∩< 嫌な奴に小少将を押し付ければ!
    (つ久秀丿 \_________
    ⊂_ ノ
      (_)
123 :
2016/09/25(日) 21:46:31.79 ID:OjONIPR6
>>121
篠原長房じゃのーて一族の自遁な
124 :
2016/09/25(日) 21:51:16.34 ID:OjONIPR6
サゲマンて言うなら通じた奴の名で十分やろ
125 :
2016/09/26(月) 09:29:22.17 ID:Ro9cT0DI
徳雲院様(細川持隆)が切腹された時、柴原と申す在所に久米殿という武士が有った。
彼は三好実休の舅であり、細川持隆の家臣であった。
佐野河内という在所の野田義介という武士も、同じく細川持隆の家臣であった。
下八幡の二木日向殿という人は、持隆の一族だった。

彼らは持隆が切腹させられたことを口惜しく思い、必ず三好実休を討ち果たし本望を遂げようと
話し合った。久米殿は三好実休の舅であったのに、主君を殺したのは曲事であると、実休への
反乱を企てたため、これは後に久米の乱と言い伝えられた。

その頃、三好実休は勝端の町に在住していた。
久米たちに与する小倉佐介という者は、ここで実休の動向を探って来たが、帰る途中、
勝端の野辺において広言を吐いた
「実休を討果すのはいと容易いことである。」

仲間が聞いた「それはどういう事か?」

「彼の周囲には年若き小姓衆20人ばかり、あとは台所の人数だけで、いざという時
役に立つ人間が一人も居ないからだ。」

ところがこの会話を、そこで放牧していた牛飼いたちが聞いていた。
彼らは親方にこれを話し、この反乱計画が発覚する。勝端の町人たちは足具足を着けて
千人ばかりが雑兵姿となり実休の屋敷の警護を申し出、同時にこの小倉佐介の広言を申し上げた。

久米の在所である柴原とこの勝端との距離は一里ほどの近距離であり、また勝端は
久米側の人々の親類縁者も多かった。
そのため実休の所に町人たちが駆け付けたとの情報はすぐに久米側に伝わった。
これを聞いて久米たちは勝端を攻めることを諦め、実休の重臣である一宮長門守(成祐)を
夜討ちすることに方針を変更した。

一宮長門はこの時下屋敷に住んでおり、この四方は大竹藪であった、
夜討ち勢は大勢であったため、たやすく門を打ち破り屋敷に侵入した。
この時、一宮長門家臣に木村備前という人がいた。彼の宿所は一宮長門の屋敷から十町ばかり離れて
いたが、この夜討ち騒ぎを素早く聞きつけ、大竹藪の中をくぐり抜け長門の寝所にまっすぐに
駆け入ると、長門を引き出し藪の中に押し入れた。

夜討ちの軍勢が追い駆けてくるのも構わず、木村備前は長門を連れて逃げた。この時木村備前は背中を
二刀切られたが、藪の中であったので何とか逃げ切った。
一宮長門の妻は三好実休の妹であったので、夜討ちの衆はこれを生け捕り柴原へと連行した。

久米の反乱が発覚して三日の間に、実休の人数が上郡および淡路より、三千人ばかり駆け付けた。
久米方の人数は八百人ほどであり、方々の実休方に対処するため黒田原に軍勢を集結させていた。
そこで実休方は勝端より三千の軍勢で中富尾まで進出したところ、久米方八百人のうち、六百人ほどが裏崩れし逃亡した。
残ったニ百人は、破れかぶれに斬りかかったが、実休方は三千の人数でこれを包囲し、彼らを一人も残らず討ち果たした。

この戦いの中で、久米方の野田内蔵介という武士は普段から七十人力と呼ばれていた。
実休の三千人の人数のうち、五百人ほどが負傷したのだが、その大半はこの野田内蔵介によって
切られたのだと伝わる。

しかしこの野田蔵介も数多の敵に疲労した所に、淡路の住人である野口肥前という人が彼に挑戦した。
野口は二十人力と言われ、淡路においては一番の相撲取りであった。
野口は内蔵介と組み合い、大腰に投げつけた。しかし地力が違い、内蔵介はあっという間に
野口を押さえつけ上乗りとなった。
この時奥野右衛門(一説に左衛門)という者が駆け付け、内蔵介の首を打ち落とそうとして、
彼と組み合っていた野口肥前の手を切り落としてしまった。こうして野口は片手となったが、
死にはしなかった。

(三好記)

三好実休支配下の阿波における、久米の乱についての記述である。
126 :
2016/09/26(月) 21:50:10.39 ID:baLYiMg9
篠原長房の弟が自遁だから、>>121>>123も合ってるよね。
一宮長門守(成祐)は後に三好実休(義賢)と小少将の息子三好長治を殺す側に回ってる。
一宮長門守(成祐)の妻である三好実休の妹はこの後どうなったか三好記に記述はありますか?
127 :
2016/09/26(月) 22:01:51.02 ID:8NuzwDHO
>>126
残念ながらサゲマンというのはエッチした男じゃないとその効果は発揮しないのだよ
だから篠原長房の死は小少将とは無関係であって自遁にとって長房の死は得なのでサゲマンじゃのーてアゲマンとなる
128 :
2016/09/26(月) 22:34:56.02 ID:baLYiMg9
>>127 そっちの話ね。失礼しました。

ところで阿波の小少将については、息子たちを仲裁しようとして細川真之の元に
行く途中、真之の家臣たちに襲われて落命した話もあるようだけれど、
これも出典が分からない。
129 :
人間七七四年
2016/09/26(月) 22:47:42.76 ID:baLYiMg9
スレチなので小声で
三年前、文科省は子ども表記を子供表記に変更した。文科省の公用文は今は子供表記。
一方で厚労省はまだ子ども表記。一般にこれが知れ渡るのはまだ先だろう。
当方は三好記の記述をさらにしりたい。一宮成祐の奥方はどう処遇されたのか。
130 :
2016/09/27(火) 20:02:53.44 ID:B9t1nf/c
三好海雲(元長)は京での合戦に切り負けて切腹された。

三好喜雲(之長)は和泉国の合戦に切り負けて、堺の町の堅法寺という寺で切腹した。
彼は切腹の際、腹わたを掴んで寺の天井に投げつけた。
その痕跡は諸国の人々が見物し、彼の死に様を褒め称えた。

だが大阪破滅の時(大阪の陣)、堺の町は焼かれ、その天井も焼失してしまった。

昔から今に至るまで、主君(阿波細川家)のために二代腹切った人は稀である。

(三好記)

三好元長は之長の孫ですが、元長の父が早逝して之長の後継者になっているので二代扱いなのですね。
131 :
2016/09/27(火) 23:46:08.12 ID:mNSOphMn
>>129
宇喜多「小声でスレを上げる129殿に茶を振舞おうぞ」

>>130
>三好元長は之長の孫ですが、元長の父が早逝して之長の後継者になっているので二代扱いなのですね。
TERU「祖父と一緒に叔父sも戦死しているとは裏山」
132 :
2016/09/28(水) 16:11:15.27 ID:7ZLbC4ak
>>131
景さま「ああん?体育館裏くるかコラ」
133 :
2016/09/28(水) 16:39:45.14 ID:QVxC1CUq
種無しのくせに(笑)
134 :
人間七七四年
2016/09/29(木) 09:58:51.10 ID:UKcAPjuH
鹿児島市の西郷隆盛銅像の裏手、鹿児島市立美術館(鹿児島城(鶴丸城)二の丸跡)の一角に「ジメサア」と呼ばれる
お化粧をした変わった石像があり、毎年十月五日前後の日にお化粧が行われるのが恒例行事となって、その様子は
地元のテレビや新聞でも毎回報道されています。
案内板には「この石像は、島津家18代家久(忠恒)の奥方持明夫人像『ジメサア』の名で親しまれています。
持明院様は16代義久の娘で亀寿といい、器量には恵まれませんでしたが、その人間性が尊敬され、人々は
『器量はすぐれずとも、心優しく幸せな家庭を築いた』夫人の人柄を慕い、毎年10月5日の命日には、この像に
おしろいや口紅をぬって、夫人にあやかるようにおまいりするならわしが残っています。」と書かれています。

この石像にはこんな話があります。(文中の家久を忠恒に変えた以外は原文ママです)

持明の方(ジメサー)
鶴丸城のあと、二の丸に市の美術館がある。庭のかたすみ、こんもりとしげった木の下に女の顔をほった
大きな石がある。まっ白な顔、黒いまゆ、口べにのついたくちびる。
そこにはいつも色とりどりの花がそなえられていて、通りすぎる女の人が、その顔をなでていくのを見かける。
さて、この石にどんな話がかくされているのであろうか。
話は、今からおよそ四百年以上のむかしにさかのぼる。
島津第十六代藩主義久のむすめは、十八代の忠恒に持明の方(ジメサー)として縁付いた。
ある朝、持明の方が鏡に向かって化粧していた時、通りかかった忠恒が、「その顔で・・・」とあざけった。
持明の方はいろいろなやんだすえにとうとう自殺してしまった。忠恒も後悔してみたが、今となってはどうにも
ならない。それで、墓を福昌寺にたててとむらった。
ところがある晩、寺のおしょうさんの夢に「ここにはいたくない。わたくしを二の丸にかえしてくれませんか」と
持明の方がでてきた。おしょうさんはおどろいたが、そのとおりにするわけにもいかないので、大きな石を
錦江湾から引き上げてきて、女の顔をきざんで二の丸にすえて供養した。
ところがまた夢で、「もう少し私の顔を美しくしてくれませんか」という。それで城の女の人たちが、おしろいなど
を毎日ぬってやったら、もう夢にはでてこなかった。
そこでこの顔をなでると、顔が美しくなり、きれいな女の子がうまれるといわれるようになった。
(「鹿児島の伝説」 昭和五十二年発行より)

いろいろとツッコミどころのある話ですが、この話の一番のツッコミどころは
「この石像は、持明院(亀寿)の石像ではない」というところです。
島津家の歴史・文化と集成館事業を語り継ぐ博物館「尚古集成館」と歴史作家の桐野作人氏が再三
違うと言ってるのですが、未だに「持明院(亀寿)の石像」として伝わっています。
尚古集成館側と桐野作人氏の説明では、あの石像は大乗院(現・鹿児島市稲荷町・清水中学校)にあった
「白地蔵」と呼ばれていた石像だそうです。
江戸後期の紀行文「鹿児島ぶり」では
「白地蔵と云う石像あり。めづらしき像なり。土俗心願あれば、地蔵のおもてに白粉をぬるなりと云う」
と書かれています。
この石像が大乗院から現在の場所に移ったのははっきりしませんが、明治以降から戦後すぐあとではないか
と推測されています。
石像と亀寿と結びつけられてしまったのは、亀寿が大乗院に本尊の千手観音をはじめ、勝軍地蔵、毘沙門天
や経典などを寄進したという由緒と関係があるのではないかといわれています。

亀寿の容姿について、尚古集成館側は美人説、鹿児島市立美術館の案内板には不美人説が取り上げられて
いますが、世間一般には不美人説が強いらしく天文館アーケードに無料配布してある「天文館史跡めぐりマップ」
には鹿児島市立美術館の案内板と同じ内容が書かれていて、アーケード内の数箇所にマップが張られています。

※美人説・不美人説について桐野作人氏は「どちらの説も確証が得られていない」とおっしゃってました。

さつま人国誌「再考・ジメサアの由来」
http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=423
135 :
2016/09/30(金) 15:02:35.59 ID:Zp91inL8
昔、阿波の御屋形様(阿波細川家)は、万事を家老衆に任せて、軍の事を少しもお構いなかった。
彼らは能、蹴鞠、囲碁、将棋、お囃子といった遊びばかりしていた。

一方、三好殿の衆は、兵法、鑓、長刀、弓といった武道ばかりで、とにかく強いことだけを求め、
文道には少しも関心を示さなかった。そして理非をとなえるような人を『よわ者』と蔑んだ。
だがそのために御家は滅びた。
(三好記)
136 :
2016/10/01(土) 08:28:56.39 ID:ILEHhOb7
本能寺の変を起こし織田信長・信忠親子を討ち取った明智日向守(光秀)は、床机に座って
洛中の人々の礼を受けると、京中の地子(家屋税)を免除する意向を示し

「織田信長は殷の紂王であった。」

そう語った。

京童たちは『彼は自分を周の武王に比しているのだ。片腹痛いことだ。』と思ったが、
地子を免除されることの嬉しさに、万歳と祝い、光秀の成功を賀した。

今に至るまで京中の屋地子が無いのは、明智日向守のおかげである。

(豊内記)
137 :
2016/10/01(土) 09:03:44.86 ID:nw5adTKJ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4860.html?sp&sp
既出
(秀頼事記=豊内記)
138 :
2016/10/01(土) 18:33:01.29 ID:hdHYlRFK
大友義鑑には3人の子があったが、惣領である義鎮(宗麟)に家督を譲ろうとしなかった。
彼の後妻が産んだ、到明子殿という末子に家督を譲ろうと考えていて、義鎮に対しては普段から
対面することもなく、到明子殿への本意は深かった。

身分の高い者でも低い者でも、継子継母の関係ほど難しいものはない。
到明子殿の母は義鎮を失わせ、どうにかして到明子殿を大友家の当主に立てたいと日夜胸を痛めており、
彼女は家老の入田丹後守親誠を頼った。丹後は心得、それからはいつもよりも義鑑に忠を尽くし、抜きん出た
奉公をして義鑑から高い信頼を得、義鑑は何事も丹後に相談するようになった。

ある時、義鑑は丹後を召して問うた
「義鎮については、私は思うところがある。到明子に代を譲るのはどうだろうか?」

丹後、畏まり
「ご質問でありますから申し上げます。ご兄弟の皆様は何れも御器用にてあられますが、中でも
到明子御曹司は世に超えた人物であるところ、人々は広く沙汰しています。大友中興の祖である
親世公の生まれ変わりではないかとすら思われます。」

などと様々に褒め上げると、義鑑は大いに機嫌を良くした。

その後、義鑑は義鎮に対し、湯治のため別府へ出かけさせた。
そして重臣である斎藤播磨守、小佐井大和、津久見美作、田口といった人々を召して言い渡した
「私は到明子に家督を譲ろうと考えている。」

この言葉に一同は驚き
「一体どういう理由で義鎮様を差し置いて、後末子の到明子殿に家督を譲られるのですか!?
御意ではありますが心得かねます!」そう、一斉に反対した。
これに義鑑は何も言い返せず、機嫌を悪くし、重臣たちはそれぞれ御前を下がった。

義鑑は
「あの者達を誅殺し心のままにせん」と、その日の暮れに斎藤、小佐井の両名を召して、大門において
誅した。
この時、津久見、田口の2人も召されたのだが、詐病をして登城しなかった。彼らは斎藤、小佐井が
殺されたことを聞くと、
「我々ももはや逃げられぬだろう。ならば」

彼らは密かに大友屋形の裏門から入って二階の間に入ると、「到明子殿に久しくご対面していない。
さぞかし成長された事だろう。少々御目見得をさせて頂きたい」警備の者達にそう言いながら奥の高間へと
強引に入ると、そこに居た到明子を一刀に斬り殺し、引き取る刀で彼の母も害した。
そして一の台にいた局たちを一人残らず切り伏せ、田口は二階の間から居間へと通り、義鑑が上段に居たのを
駆け寄って斬った。
田口はお側の衆に討ち取られたが、大友義鑑もこれで深手を負い、天文19年2月9日、遂に儚くなった。
どういう御分別だったのだろうか。実に浅ましい事である。

(大友記)
139 :
2016/10/01(土) 22:27:51.55 ID:+ELXDe/8
>>138
その後の宗麟の酷さを見ると義鑑の考えが正しかったような…。
いやそんな事があったから歪んだというべきか?
140 :
人間七七四年
2016/10/02(日) 02:27:18.87 ID:6qfdtbzd
神西元通の変心と中原善左衛門の忠死

伯耆の国、末石城の城将神西元通は元は尼子十旗の一つで第七、出雲神西城の守将であったが
毛利家の出雲侵攻の際に降服し、月山富田城の落城後は毛利家の命で毛利の目付中原善左衛門と小寺佐渡守とともに、
伯耆の末石城に籠っていた。

1569年、毛利家が北九州立花で大友家との争いを繰り広げていたころ、その隙をついて
尼子勝久を擁した山中鹿介・立原久綱らの尼子再興軍が海路より出雲へ侵攻を開始。
島根半島に上陸して忠山の砦を占拠した尼子再興軍はそこから尼子旧臣らに檄を飛ばしたところ、
同心するもの数多く、尼子再興軍は急激にその勢力を拡大していった。

そんな中、神西元通は末石城に籠り沈黙を保ったままであったがある日、山中・立原の両将から使いが訪れる。
そして扇を出すと「これに一筆頂きたい」と言う。何故か?と問う元通に使者は
「山中殿・立原殿がおっしゃるには、『尼子家に人は多いが、神西殿とは特に朋友の契り浅からず。
今は敵味方となってしまって簡単に会うことはできないが、昔のよしみは忘れられず、懐かしく思い出される。
人の思い出としては、筆跡以上のものはないという。
神西殿はなかなかの名書家であるから、何でもいいから一筆書いてもらってきてほしい。
顔を合わせていると思って筆跡を見たい』とのことです」

と、鹿介より言付かった通りに返答すると、元通は「山中・立原との昔のよしみは深く、私にとっても忘れ難いならば一筆書きましょう」
と答えると扇に「ふるかう小野の本柏」とだけ書いて使者を返した。これを見た鹿介と立原はこの歌が古今和歌集の、
『石の上ふるかう小野の本柏もとの心は忘られなくに(いその神ふるから小野の―本の心は忘られなくに)』
から来ていることを見て、元通に脈ありと見て再度使者を送ると、案の定元通は尼子再興軍に味方することを約束して使者を返した。
141 :
人間七七四年
2016/10/02(日) 02:28:20.59 ID:6qfdtbzd
神西元通はこの事を表に出さず固く秘して隠していたが、いち早くこれに気付いた者が居た。
毛利から目付として付けられ一緒に末石城へ籠っていた中原善左衛門である。
彼は吉田郡山の戦いで一矢にて尼子経久の弟である尼子久幸を討ち取るなど、歴戦の勇士であったが
また智にも優れた者であった。

中原は神西元通の変心に気付いたがそ知らぬふりをし、密かにかつ迅速に対処しようと同じ目付の小寺佐渡守を呼ぶと
「神西について何か気付いたことはないか?」と尋ねた。小寺は「何も気付いたことはない」と答えた。
中原はそれに「いや、神西はどうも逆心を抱いているように見える。しかし、何の証拠もなしに彼を討っても胡乱の極みと人から笑われるだろう。
そう思い見過ごしてきたが、このままでは神西はそろそろ事を起こし、私と貴方を討ち果たそうとするだろう。これまでは無闇に波風立てまいと貴方には
黙っていたが、もう神西の逆心は疑いなく思えたので貴方に教えたのだ。私はここで神西と刺し違えて討ち死にしても元就様の厚恩に報いようと思う。貴方はどうだ?」
と、尋ねると小寺はつくづく思案して「中原殿の覚悟、実にその通りだ。だがこの城で無駄に討たれても意味なく思う。だから命を全うし、再び元就様の役に立ちたいと思う。」
と答えた。

中原は冷笑し「あなたの言うことはもっともだ。今ここで討たれて勝久へ首を捧げられるのは実に悔しい。
しかし一隅を守る私は何の才覚・智謀なくこの城に籠った日から神西に野心あれば刺し違え、
毛利に忠を尽くし敵に囲まれるなら神西と共に自害せよと命じられたと考えている。だから気にすることはないのだ。
あなたは命を全うしして、五百八十歳まで生き永らえるとよろしい。
私は死して善道を守り、忠義の名を子孫に残そう」と言った。

小寺はやがて神西に「両足を痛めたので、牛尾の出湯に入って養生したい」と暇を請うた。
神西は「好きにするといい」と言うので、小寺は喜んで、すぐに城を出て逃げていった。
しかし芸陽には帰れず、豊後へ渡って大友金吾入道を頼り、また老後になってから本国に帰ってきたという。
(異説では軍議の為、城を出て安芸へ向かったとも言われる)

この後中原は神西と刺し違えようと思い決めていたが、証拠もなしに神西を討てば人々から
『中原自身の思慮が足りずに、さしもの忠功の神西と刺し違えたのだ』と口さがなく言われるに決まっている。
どうにかして、神西が私を討とうと目の色を変えたときにこそ、一打に斬るしかない。
あの小男一人なら、掴み殺すのも簡単だと思って今まで放っておいたが、
もし私が討たれてしまえば、私が油断したから易々と討たれたのだと、
人々はあざ笑うだろう。これも口惜しい」と思った。
それでこのことを詳細に書き記すと、「妻子に伝えよ」と、下人一人を故郷へ帰したのだった。

こうして中原は、神西の反逆の証拠があれば一刀のもとに切り捨てようと考えて、心を許さずにいた。
神西もなかなかのつわものなので、少しも態度に出さずに時が過ぎていったが、
あるとき神西は、同朋(近侍の僧体の者)の林阿弥という者と中原の囲碁対戦を所望した。
中原は「よろしいですとも」と答えて神西のところへと向かう。

神西は碁を討っているそばからのぞくように見物して、
指を折りながら「十、二十、三十、四十」と数え、
「そこに打って取れ、ここの石を拾え、投了させるな」などと言っていたが、
「そこで切れ」というのを合図に、討手にキッと目配せした。
神西が林阿弥に「切れ」と言ったのと同時に、討手の者たちが抜き打ちにそばから丁と切る。
中原は前から覚悟していたことだ。自身も屈強な太刀の達者であったので、碁箱でもって受け流し、
一尺八寸の脇差を抜いて討手の眉間を二つに切り破る。
二の太刀で碁の相手の同朋を袈裟懸けに切り捨てる。
その際に神西は中原の左手をしたたかに切った。
中原は切られながらもスッと立って打ち払い、八面に敵を受けながらしばらく戦って、
数多くを切り伏せまたは怪我を負わせて、自身もぼろぼろになって死んだ。
勇といい義といい忠といい、まさに類まれな者だと、これを聞く人は皆たいへん感心した。
神西も情けのある者なので、これまでのよしみが忘れがたいと、中原を手厚く供養したとのことだ。
(陰徳記)
142 :
人間七七四年
2016/10/02(日) 02:49:09.71 ID:6qfdtbzd
ちなみにこの中原善左衛門であるが、末石城跡とされる場所にある碑には
この逸話の2年後の1571年に吉川元春が末石城を囲んだ際、和議の使者となった
在郷の勇士と共にその目付として城に入り、和議成立を偽装した城方に寄って騙し討ちされ
退去の際に丸腰の所を使者と共に斬られたとされている。
143 :
人間七七四年
2016/10/02(日) 03:18:36.35 ID:7qJmlchd
林 阿弥「解せぬ」
144 :
2016/10/02(日) 12:14:42.18 ID:H2n6JpLG
>>139
一次資料だと案外まともなんだけどな宗麟は
145 :
2016/10/02(日) 12:33:26.78 ID:zc7ZWW+f
>>138
頼朝「兄より」
信長「すぐれた」
秀忠「弟など」
(●∀゚)「存在しねぇ!!」

(´・ω・`)「弟など存在しない…」
146 :
人間七七四年
2016/10/02(日) 12:37:06.65 ID:zszeXnAQ
>>145
隆元「ウチは弟達の方が優れてましたよ(胃をキリキリさせながら)」
147 :
人間七七四年
2016/10/02(日) 12:49:26.79 ID:hxDXM2tQ
元就「兄より優れててすみません。皆さん弟は大事にしましょうね」
148 :
人間七七四年
2016/10/02(日) 13:55:37.76 ID:zszeXnAQ
>>145
TDIE「皆々様の仰る通りでございます。兄より優れた弟などこの世に存在致しませぬ」(鎖帷子を着ながら)
149 :
2016/10/02(日) 21:12:09.36 ID:+e23W/r8
そりゃお福と密通してたからなあ
150 :
人間七七四年
2016/10/03(月) 01:38:24.33 ID:Om5w01zA
尼子再興軍、和議の使者を騙し討つ 〜美甘塚由来〜

1571年、吉川元春の軍勢6000に囲まれた山中鹿介と神西元通の籠る末石城。
僅か500程度の城方に対し三層の櫓を組むと石礫や鉄砲、矢を撃ち込み攻撃する吉川勢。
守る城方も土塁を築き必死に抵抗し、3日に渡り激戦が続いた。
その中、吉川勢は和議の使者として地元の所子と言う所に住む美甘与一右衛門(みかもよいちえもん)と言う血気盛んな勇士を送り込む。
毛利氏の依頼を受けた美甘与一右衛門は目付の中原善左衛門と共に城へ入るが、和議に刀は不要と入り口で刀を取り上げられた。
交渉は順調に進み、和議成立となり歓待の宴が開かれる。宴も終わり、2人が退出しようとしたところ城方の兵士は不意に美甘と中原に斬りかかる。
未だ刀を返されていなかった美甘は身近にあった石を手に立ち向かうが、敢え無く中原と共に討たれて死んでしまう。
数日の後宍戸隆家、口羽通良を通じて城方は降参を申し出た為吉川元春は城を受け取った後、亡くなった美甘与一右衛門の義を讃えると共にその死を悼み、碑を建て厚く葬った。
現在も末石城跡には美甘塚が残り、美甘家の人が与一右衛門が城方に立ち向かった時の石を力石として碑の近くに保存供養を続けているとの事である。

当地に残る美甘塚の案内板などより
151 :
人間七七四年
2016/10/03(月) 06:46:55.58 ID:FrR4NjML
>>150
中原「ワシは何回死ねばええんじゃ…」
152 :
2016/10/03(月) 19:18:04.90 ID:+ZXcHLbM
>>150
未だに供養が続いてるって凄いな。
153 :
2016/10/03(月) 23:42:14.17 ID:9IRF6OyF
大友義統悪逆の事及び彦山の意地

天正九年秋、義統は大友家に反目する彦山を襲撃する。かつて大友氏の監視下にあった彦山だがこの頃は秋月種実との関係を強めていた
義統は嗣子に恵まれない十四代座主舜有の後嗣に自身の弟を押し込もうとしたがこれを嫌った舜有は娘婿・秋月種長の子を後嗣にと取り決めたことで
義統の狙いを封じた。そして義統への返答として彦山は義統の使者を殺害する
これに激怒した義統は清田鎮忠と上野鎮俊を大将に、彦山を滅ぼすべく日田郡へ陣を進めた
清田上野の両将は、まず彦山に降参勧告を行ったが彦山は拒否し戦いになる
秋月さらには龍造寺の援軍を得た彦山は一歩も引かず善戦したものの
激戦の末に大講堂を占拠した大友勢は一山の宗坊悉くに火を放つと彦山は一宇も残らず炎上した
この時山伏二人は「大友七代までも怨霊とならん」と罵り腹掻っ切り火中へ飛び込んだ。
こうして一ヶ月に及んだ大友の彦山襲撃で彦山は大きく勢力を失った
しかし彦山はその後も秋月氏さらには龍造寺氏と連携して反大友軍事同盟を結成し戦い続けることになる
さらには秀吉の九州征伐時には島津氏とも連携し豊臣(&大友)勢とも戦うが最後は衆寡敵せず豊臣勢に降った

参考資料:大友記、豊筑乱記、筑前戦国史など

ちなみにこの話は

宗麟公悪逆之事
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9168.html
の別バージョン

焼討を命じたのが義統だったり焼討後も義統に屈さず秋月・龍造寺・島津と連携して戦い続けているところなどが相違点
154 :
2016/10/05(水) 04:01:44.58 ID:Ib0P9j1i
合戦は百日の内に埒の明くものである。関ヶ原は、7月中旬から9月15日に埒が
明いた。大坂は10月から1月20日までに埒が明いた。大坂後の合戦は3月から
5月7日までに済んだ。有馬(天草一揆)は、1月から2月27日までに済んだ。

――『武功雑記』
155 :
2016/10/05(水) 07:37:24.77 ID:6nfw2tfV
石山合戦
三木城籠城戦
月山富田城籠城戦




応仁の乱
156 :
人間七七四年
2016/10/05(水) 07:57:16.26 ID:5J8+ztnF
妙玖の方、吉川家臣を説得

1550年、毛利元就の命令で布川(現広島市安佐北区深川)に隠居していた吉川興経は謀反の疑いを受け天野、熊谷率いる手勢により殺害された。
この報を受けた吉川家重臣、吉川伊豆守(吉川経世?)と森脇和泉守は直ぐさま郡山の城へ駆け付け、2人は元就に涙を流し抗議し
「興経を討ち果たすのであればどうしてお知らせくださらなかったのですか。
隠居蟄居の身となったのですから、どうして反逆など企てられましょう。
こうして誅罰なさるとは、なんともお情けのないことです。
私たちも、興経に対して私怨があってこのように(興経から元春への家督相続)したわけではありません。
吉川の家のことを考えたからこそ、一旦は主従の間を乱すような振る舞いをしたのです。
確かに興経に楯突いたと同じようなものですが、本当は家のためを思い、
それに興経の不義を正すために行ったのです。
こうなったら私たちも、縁側の片端を汚して自害させていただきます」と大騒ぎした。

元就はあれこれとなだめたものの、二人はまったくおさまらない。
その騒ぎを聞きつけたのか、元就の北の方が姿を現し、
「伊豆守殿にとって興経は甥ですが、わたしにとってもまた甥です。
甥を殺されたのが無念だといって自害なさるのなら、私も女の身ではありますが自害すべきでしょう。
伊豆守殿、どうか私に免じて自害を思いとどまってください」と、
一度は怒り、一度は涙を流して説得した。
吉川伊豆守はこれにしぶしぶ自害を思いとどまったので、森脇和泉守も強行することができずに涙を抑えて自害をやめた。
(陰徳記)

ちょっとツッコミどころの有る逸話なので悪い話に持って来ました。
157 :
2016/10/05(水) 08:09:09.82 ID:w5JhOUZD
切る切る詐欺か
158 :
人間七七四年
2016/10/05(水) 08:29:12.59 ID:5J8+ztnF
>>157
違う、そこじゃない
159 :
人間七七四年
2016/10/05(水) 11:18:22.35 ID:3PMHM5EC
妙玖(みょうきゅう、明応8年(1499年) - 天文14年11月30日(1546年1月2日))は、戦国時代の女性。
毛利元就の正室。妙玖は法名で本名は不詳。父は吉川国経、母は高橋直信の娘、兄弟には吉川元経、吉川経世ら。
子に長女(高橋氏人質、夭折)、毛利隆元、五龍局、吉川元春、小早川隆景。


あっ…(察し)
160 :
2016/10/05(水) 13:20:12.96 ID:7Lcaw4B2
んー?わからんぞ
161 :
人間七七四年
2016/10/05(水) 13:24:48.02 ID:o/sCiXIJ
>>160
えぇ…
>>159の初めの辺りをよく読んで再度>>156を読めば分かる筈…
162 :
2016/10/05(水) 16:16:28.54 ID:QTk5iYVv
黄泉返りなんて日常茶飯事
163 :
2016/10/05(水) 16:45:39.11 ID:c3gMfmgy
大河で呂宋助左衛門がでてたので

堺市の大安寺本堂は元、呂宋助左衛門の屋敷であったが、
呂宋助左衛門が秀吉にフィリピンの便所壺を高く売りつけたのがバレて
呂宋助左衛門がフィリピンに逃亡した際に移築したと言われている。
呂宋助左衛門が屋敷を建てた時のこと、松永久秀を招待したところ、あまりにも豪勢な屋敷に驚いた松永久秀は
刀で柱にざっくり傷をつけてしまった。
呂宋助左衛門が「なにをする!」と怒ったところ、松永久秀は
「盈つれば欠けるもの、完璧なのはかえっていかん」と言ったとか。
この柱の傷は今でも見られるらしい。
164 :
人間七七四年
2016/10/05(水) 17:44:42.46 ID:YH2lTrzx
MTHR「ウチの嫁が不細工とか適当書いてんじゃねーYo」
165 :
2016/10/05(水) 18:56:59.20 ID:aJPKN53C
大女だったんだろ
166 :
2016/10/05(水) 19:33:13.35 ID:QTk5iYVv
>>164
お前んち、大嫌いなんだもん
167 :
2016/10/05(水) 19:40:19.74 ID:c3gMfmgy
周瑜は美人の妻を娶ったために早死にした。
一方孔明は不美人の妻を娶った。
よって孔明の方が賢かった。

というような評と同じく、むしろ元春が女色に溺れなかったことを褒めてたんじゃなかったっけ
168 :
2016/10/06(木) 00:04:46.44 ID:DPpI50nX
>>163
>「盈つれば欠けるもの、完璧なのはかえっていかん」

家光「なるほど」
藺相如「せやろか」
169 :
2016/10/06(木) 05:33:39.65 ID://aE3BIv
>>167
留守中に浮気してないだろうか?
子供は俺の子だろうか?

悩みの種が無くならないね
170 :
2016/10/06(木) 05:45:34.63 ID:sSiOXkFU
晋恵帝「嫁が不細工な上に残虐で辛いです」
171 :
2016/10/06(木) 13:36:49.56 ID:JZZmnAdY
>>163
前田慶次にも同じ逸話があったような
172 :
2016/10/06(木) 19:39:45.16 ID:HlWdKe1k
大友義鑑が津久見美作、田口らに斬られ最後の体となった事は、早馬によって別府に湯治に出かけていた
大友義鎮へと注進され、義鎮は早急に帰還した。

義鑑にその三男到明子の擁立を勧めていた入田丹後守(親誠)は身の危険を感じ、一類を語らい己の居城に
立て籠もろうとしたが、戸次伯耆守(立花道雪)、斎藤重実の手の者がこれに追撃をかけたため、
入田は入城できず、彼は肥後国阿蘇惟豊が舅であっったので、彼を頼って落ちていった。

しかし、雨の中頼む木の元にも雨が漏っていた。惟豊は入田丹後に向かってこう言った

「あなたは御屋形様の咎を蒙り、討手を下された。
大軍を引き受け一戦を遂げ討ち死にすれば、亡き後までも面目であった。
しかし甲斐のない命が助かるために私を頼って来ることは、卑怯の至である。

代々相伝の主君に盾突いた悪逆人を、婿であるからと言って助けるべきではない。」

そして袈裟懸けに入田を斬った。
その首は豊後へと送られ、獄門に晒された。

その後、程なくして大友義鎮は、大友十八代目の探題となった。
若いが仕置宜しく、豊筑肥六ヶ国の上下万民は共に、この主君を上に戴いたことを喜んだ。
行儀作法は他国に優れ、いかなる世の末までも、誰がこれを傾けようとするだろうか。
目でたかりし世の中と成ったのである。

(大友記)

入田丹後の最後についてのお話。
173 :
2016/10/06(木) 22:00:56.45 ID:qLWXhDd3
千光禅師将来の俳優并高麗町。熊川明神

 予の封邑に、筑前から浄瑠璃歌舞伎をする者が時として来てこの技をする。
これを寺中と呼ぶ。これまでいかなる故かを知らなかった。

 そういった中で印宗和尚が、行脚で博多の聖福寺に行ったときの話をしてくれた。

『かの開山千光禅師が入宋から帰朝のとき、宋国の多くの俗人が随従した。
よって聖福寺創立の時、境内にこの人を住ませた。
今はその子孫は増え広がり、皆歌舞伎を業とし、
渡世して他邦にも行ってその事をなしている。
昔は住所を八町と言われていたが、今は四町である。
なので人は寺中と称す。』

との話であった。

 また聞いた。
かの寺中と称する者は、人賤しんで、今も結婚するのはその一画に限ると。
これ思うにその党はもと異邦の人であるからだろう。

 予の城下にも高麗町と称して、一群の人が居る所がある。
これは祖先宗静公〔式部卿法印〕(松浦鎮信)が、
朝鮮の役に虜としてかの民を多く率いて帰られたときの子孫である。
よって昔は諸士の城家に勤仕する者の食事を調うことを担当していて、至賤の者であった。
この党も他と結婚をなさない。これもまた外国を卑しんだためである。
しかし歳月を経るに従って、その子孫はこれを嫌い、段々とそのところから出て、
我が民に混じり、ついに今では朝鮮の血脈が絶えた。
ただ我が邦の賤夫はその事をもって名のみ高麗町と呼ぶ。
これをもって思えば、博多の寺中はその祖先を思っている者か。阿々。

 これによって言う。
予の領邑の陶器を、世に平戸焼と呼んで名産としている。
この器は城下から十三里の辺邑に産している。
その地の陶匠の頭を今村某と言う。すこぶる富んでいる。
この祖も朝鮮の虜である。
予が先年領内を巡見したとき、その家で憩うと、家屋も狭くなく、
庭に仮山があって樹石の好景がある。
その山の中ほどに小祠はあって、鳥居を建てて額を掛けていた。
『熊川明神』と標してあった。

 予は始め疑って、熊川(クマカハ)とはいかなる神かと問うと、
某の祖先だと答えてきた。
すぐに悟り、朝鮮人の子孫であるためかと思った。
熊川(コモカイ)は朝鮮の地名なので、その地の人であったのだ。
(甲子夜話)
174 :
2016/10/06(木) 22:09:40.02 ID:6txp1WuR
熊川ではコムチョンになると思うのだが
熊江ならコムカンでコモカイにならなくもない
175 :
2016/10/06(木) 22:37:00.52 ID:1rBePjzd
入田家の後日談

親誠の嫡男・義実(宗和)は若年につき赦され永禄末から元亀の頃(天正8年(1580年)頃説もあり)に宗麟から旧領の一部である筑前国鞍手郡若宮庄350町分を安堵された
宗麟に笠木城勤番を命じられたりするなど父のこともありながら宗麟時代はそれなりに信頼された義実だが義統時代になると俄然大友家での立場は悪化する。
天正12年から14年にかけて不仲だった戸次統貞(玄珊)の讒言によって大友義統と対立し討伐を受け居城を栂牟礼城を逃れて緩木城に移していた。
そんな義実に対して島津義弘は新納忠元を通じて宗和に寝返りを進めてきた。しかし宗和は最初「武門の素意に非ず」と断っていたが結局島津への内通を決意する。
天正14年(1586)豊薩合戦の際、南部衆の志賀親度(道益)・南志賀鑑隆(道運)や一萬田紹伝らは入田宗和主導でで島津氏に内通して大友氏の敗北に一役買った。
その後豊臣軍の豊後上陸後、宗和は岡城の志賀親次さらには豊臣秀長たちの軍に追われ豊後から薩摩に撤退し以降は日向に所領を貰い島津家臣として仕え家は斉彬や久光の時代まで続く

参考:大友宗麟のすべて(新人物往来社刊)ほか
176 :
2016/10/07(金) 02:48:56.69 ID:rn89lw8F
>>175
栂牟礼城は佐伯氏の居城だから入田の居城は津賀牟礼城の間違えだろうな
177 :
人間七七四年
2016/10/07(金) 03:50:54.34 ID:L67YRt7f
陶興房、嫡子次郎興昌を殺すこと

陶尾張守入道全薑(隆房)は主君義隆卿を討ち果たしたことで、神明仏陀の神罰を恐れて当然となった。
さらに「養父の入道道麒(興房)が草葉の陰で怒っているだろう」と噂され、
隆房は先々のことが恐ろしくなった。

かつて道麒入道には次郎という一人の子がいて、器量骨柄も世に優れ、実にすばらしい若侍だった。
しかし、ややもすれば自分の才能を鼻にかけ、義隆卿を見かけると
「隋の煬帝の詩にでも出てきそうな大将だな。
この人は武士が主君と仰ぐべき大将ではない。
出家くずれか流浪の公家のようなことばかりしているではないか」と、眉をひそめて嘲笑っていた。

父の道麒入道は、「嫡子の次郎は武も文も全備しているし、
そのほかの芸能の道も、弓馬は達者、乱舞にも堪能、
詩歌・管弦に至るまで、人間がたしなむべき道では一つとして劣ったものなどない。
このような末法の世には稀有な才能だ。
しかし自身が勇ましく熟慮できるからといって、それを鼻にかけ、
主君の義隆卿を何かにつけて侮っているようだ。
これは非常にまずい。天の呵責を受けることになろう。
『春秋左氏伝』にも、『内では君主の過ちを諫め、外では君主のすばらしさを称揚するものだ』
と書いてあるというのに、次郎の振る舞いときたら、この入道の心にはまったく適わない。
きっと将来、義隆卿の政道にほんの少しでも私情が入れば、
次郎は大いに恨みを抱いて、いつか復讐しようとするかもしれない。
まったくどうしたものか」と嫡子次郎を評価しつつも行末を憂慮していた。

そんな折、越前から幸若太夫が下向してきたので義隆卿は非常に喜んでもてなし、「烏帽子折」を所望した。
太夫が広縁で手拍子を打ちながら舞うと、
聞いていた人々は貴人も賤民も皆感動にたまりかねて涙で袖を濡らした。

道麒入道は宿に帰ると次郎に「おまえはいつも舞を好んで舞っている。幸若の音曲を学んでみるか」と問うた。
次郎は「私が幸若を真似るのは、実にカラスがカラスの真似をするようなものですが、
父の命であれば、似せて舞ってみましょう」と扇を手に取り、手拍子を打って舞った。
次郎の舞は、先の幸若太夫の舞よりもさらに趣深いものだった。
父の道麒入道も、「わが子ながら、なんと器用なものだろう」と感心したが、
これでさらに主君のことをないがしろに言うようになるのではと懸念を深めた。

またそのころ、大明国から義隆卿に書簡が届いた。
義隆卿は香積寺・国清寺などの長老西堂を呼び集め、その書簡を訳させた。
その末座に陶次郎も列席していたので、父の道麒入道は自宅に帰ってから次郎を呼び寄せ、
「おまえは今日の書簡の内容をだいたい覚えているか」と問いかけた。
次郎は父に「末座で一度聞いたところで覚えられるわけがないでしょう。
しかし推量で内容を当ててみましょう」と言って墨をすり、サラサラと書き始めた。結果、一字一句の間違いもなかった。
入道が「それを読んでみなさい」と言うと、次郎は立て板に水を流すかのように読み進める。
父の入道は、「次郎は人ではないのかもしれない。菅原道真の再来なのだろうか」と、ただ呆然としていた。
178 :
人間七七四年
2016/10/07(金) 03:51:21.12 ID:L67YRt7f
その後も道麒入道は注意を払って次郎を観察していたが、次郎の器用才芸にはさらに磨きがかかり、
また義隆卿を軽んじるような考え方もやめなかった。
道麒入道は、「次郎は将来、義隆卿を侮って主従の礼を乱し、
大内家の頭痛の種になるかもしれない。
主君の御ためを思えば、わが子など取るに足らない」と考え、ひそかに次郎に毒を飲ませた。
この為に次郎は十五歳になった春のころに、哀れにも亡くなってしまった。

その後陶道麒入道は、問田紀伊守の嫡子を養子として、五郎隆房と名乗らせた。
道麒にとっては妹の子に当たるので、養嗣子にむかえたとのことだ。
道麒入道は十六歳から屋形に近侍し、最後まで他家には見向きもしなかったそうだ。
『礼記』に「人の臣下となっては外に交わることなく、二君に見えることなし」と書かれているのも、
この入道の生涯と同じことである。
道麒入道は、主君に対して二心を抱かなかったために、
可愛がって大事に育てたたった一人の子を殺し、忠節を尽くした。
これは異国にも稀なことだろう。我が国でも聞いたことすらない。

それというのに、当代の隆房は義隆卿に恨みを抱いて反逆を企て、
ついに主君を討ち果たしてしまった。
それどころか、摂政関白殿をはじめとして多くの公卿を討ち、悪逆の限りを尽くした。
そのため神の怒りに触れてたちまち天罰を蒙るばかりか、
亡父の道麒入道の怒りも深く、不孝の罪を免れないだろう。
陶の行く末は恐ろしいことになりそうだと思わない者はいなかった。

(陰徳記)
179 :
人間七七四年
2016/10/07(金) 04:22:53.06 ID:L67YRt7f
ちなみにこの陶次郎興昌の墓は陶家の居館から程近い海印寺(山口県周南市上横矢)に有り、父興房の次兄・興明の墓と並んでおり、1529年(享禄二年)25歳で亡くなったと記されている。
また、興房の兄興明は長兄武護出奔後に陶家の家督を継いだものの、その後出戻った武護に殺害され家督を奪われており、この海印寺には二代続いて陶家当主の兄の墓が並んでいる。
興房の兄の事は陶家だけでなく、大内家中の様々な内部抗争も絡んでそうで、隆房とYSTKの事と言い大大名のお家の内部事情って大変だなと思った今日この頃
180 :
人間七七四年
2016/10/07(金) 07:45:34.37 ID:L67YRt7f
義隆先輩「お前の事好きだったんだよ」
次郎「やめてくれよ…(絶望)」
義隆先輩「」

興房「…次郎、茶しかないけど良いかな?(サーッ)」

痴情のもつれだったに100義隆
181 :
2016/10/07(金) 11:51:42.07 ID:WHtokoA7
へー隆房って養子だったんだ
子孫が養子に罪を擦り付けたのかと思った
182 :
人間七七四年
2016/10/07(金) 12:21:42.78 ID:BPF3ObJe
陰徳記やからなぁ
183 :
2016/10/07(金) 19:08:46.94 ID:6k9oMf0i
天正6年(1578)3月、大友家は評定によって、日向に侵攻した島津勢に対する攻撃を決定し、支配下の国々に
その旨を伝達した。

この決定以降、大友一門や重臣の面々は日夜あちらこちらで寄り合い、会合を設け珍膳を尽くした饗宴ばかり
行い、また茶の湯の会、酒宴と暇もない有様であった。これは彼らが、大友家の武運が徐々に傾いていることを
理解していたので、それぞれ討ち死にして生前の報恩として、死を以って報いようと一途に思い定め、
その最期の名残として、このような宴を設けたのだと言われた。

こうして大友宗麟は3万5千3百の軍勢にて豊後府中から出陣した。
そして、まず戦場に向かう門出であると、豊後一宮である柞原八幡宮に「矢を一筋奉れ」と命じた。
すると足軽2,3百が打ち出て弓鉄砲を揃えて、八幡宮に射かけた。

また行軍中、道の悪しき場所では仏神の尊容を取り壊して、これを踏んで通るようにさせた。
これらは前代未聞の悪行である。

いにしえ、高師泰は石川河原に陣取り楠を攻めた時、彼の配下の悪逆無道の者共が仏塔の九輪を外して
帷子に鋳たという。

また延文四年の夏の頃、畠山入道が楠を攻めた時は、その奴たちが神社仏閣に乱入し神宝を奪ったという。
この時の狼藉はもはや制止がきかず、獅子や狛犬も打ち割られ薪にされ、仏教典は売り飛ばされ
その代金で魚鳥を購入したそうだが、これなどは師泰の悪行に百倍する稀代の罪業であると書き残されている。

しかしこの度の大友勢のやったことは、それと比べてすら千倍する。浅はかというのも愚かである。
心無い者はこのような悪行に却って勇んだが、智有る者達はこの行為を恐れ、
「今度の合戦ははかばかしく成らないだろう。」
そう囁き合ったという。

(大友記)

耳川の戦いに至る大友軍の日向出陣について
184 :
2016/10/08(土) 03:05:23.56 ID:fSd8+Dwx
道長「…」
185 :
2016/10/08(土) 10:06:15.64 ID:uu7ZPwxT
まるでISIS.....
186 :
2016/10/08(土) 19:02:49.06 ID:Z6eeHzVq
宗麟「わしキリシタンだから神社仏閣を壊してもノーカン」
187 :
2016/10/08(土) 19:52:30.77 ID:9bgS062b
高山重友も同じことしてたぞ!
188 :
人間七七四年
2016/10/09(日) 01:11:35.87 ID:IrCiT5D0
雲州侵略会議、大内家終わりの始まり

1541年正月14日、前年より吉田郡山城を攻めていた尼子晴久の率いる三万の雲州勢は長き攻防の末、毛利元就と陶隆房率いる大内方の援軍の前に撤退を余儀なくされる。
余勢を駆った毛利元就と陶隆房はそれぞれ芸州の反大内勢力である、佐東銀山城の安芸武田氏と、桜尾城の友田氏を滅ぼし芸州の勢力はほぼ大内方へ靡く事となった。
また、先の吉田郡山城合戦まで尼子方だった芸備雲石の国人13名(三吉広隆、福屋隆兼、高野山久意、三沢為清、三刀屋久祐、本庄常光、
宍道正隆、河津久家、吉川興経、山内隆通、宮若狭守、古志吉信、出羽助森)が陶隆房に
「義隆卿が自ら雲州を攻められるならば、我ら13名は味方し先陣いたします。尼子を退治した暁には備雲石の三国から身分の大小に関わらず今の所領と同じだけの所領を御加増下さい」
と内応を申し出た。
是を受け陶隆房は直ちに主君義隆にこの事を申し上げ、雲州攻めを上申。義隆は叔父の大内高広、杉、内藤、青景以下の家臣や子らを集め相談した。
隆房は他の意見を聞こうともせず、尼子攻めを主張。その主張はこの機を逃しては先の13名の国人どもに義隆様は父君義興公に智勇劣ると侮られ、再び尼子へ掌返され今後当家に味方する者は無くなるでしょう。
1日も早く雲州を攻める決を下されます様にと、大変強い物であった。
誰もが押し黙る中、相良武任が進み出て、
隆房殿の仰る事はもっともながら、幾ら13名の国人が味方しようと今我らが雲州を攻めれば先の尼子晴久が毛利の吉田郡山を攻めた二の舞となるでしょう。
先代義興公も雲州攻めを画策したものの九州の敵が筑、豊を攻めた事に妨げられ、事を為し得ませんでした。また今の尼子方の郎党には英雄豪傑数多く、軍勢も当家が殊更多い訳ではありません。
ここは石州から陥れ、一城ずつ落として兵を堅め徐々に雲州を攻略してはどうだろうか?
隆房殿が戦いを急がれ敵をたちどころに打ち破ろうとするのは戦法として危うい。
先ずこちらが負けぬ工夫をし、戦わずして勝つと常々おっしゃっておられる事こそ、隆房殿の御父興房殿もご存知のところです。
今義隆公のご智勇、先代義興公に劣っておられる筈はありませんが、老功の将と若年の将とでは、世間の対応からして全く違います。
若き義隆公のご武勇のみを頼りに、敵を打ち破る事容易く思い数カ所の敵城を越え月山富田城まで進攻の作戦を立ててもご勝利かどうか甚だ確かではありません。
それにしても隆房殿が武勇を誇り敵を侮られるのは頷けない事です。
今少し他の国人の意見も聞くべきです。
と意見を述べた。次に冷泉隆豊が
隆房殿、武任殿お二人の言い分どちらも理にかなっています。隆房殿が言われる通り敵の国人数名が同心して味方に加わりその上敵軍が吉田表で敗軍した折ですから、この破竹の勢いに乗り敵国を攻めるは道理にかなっています。
また武任殿が義興公の遠路ご進行の経験を例に出されたのもごもっともです。私からご両人の議を相兼ている謀りごとを申し上げましょう。

まず芸州へ進攻し、味方に与する国人たち、同じく備後の侍達から人質を取り堅められ、次に石州に暫く在陣して本庄、小笠原、更に雲州の三沢、三刀屋、河津などの人質も取り、
赤穴の城を攻め落として軍士を入れ、その後出雲に攻め入り降る者から人質を取り、敵するものは城を攻め、尼子の本拠を攻め急ぎする事なく、国中の城々を味方で守り堅め、謀りごとを先にして戦いを後にすれば敵は士気衰え、やがて降旗を立てるでしょう
と述べた。満座の者はこの意見に賛同し、その日の評定はこれで決着がついた。
しかしながら、隆房と武任とはこの時の議論に互いに含むところがあり、泥中に荊あるがごとく、たちまち不和となって、これがついには大内家滅亡のもととなったという事である。
189 :
人間七七四年
2016/10/09(日) 08:24:07.32 ID:Xify1bNh
相良のが陶よりまともな事言ってる気がする
190 :
2016/10/09(日) 08:39:49.17 ID:t9v3aFpB
冷泉発言は後年元就が行った尼子十旗&月山富田城攻略戦そのものだったりする
でも陶の性格からして相良や冷泉のような戦略を取るのは無理だろうな
191 :
2016/10/09(日) 11:40:43.39 ID:Oau9qfpR
>>189
ただの慎重論、臆病者あるあるです
192 :
人間七七四年
2016/10/09(日) 11:49:45.17 ID:YB5Da6Hm
>>191
お晴カス
193 :
2016/10/09(日) 12:01:13.16 ID:Awu9dQS0
加藤侯〔大洲〕の先、光泰、朝鮮に於いて石田が為に毒殺に遭う。

 六月の末、箕輪の里にある大関(増業)の隠荘を訪ねて、謝礼のことを談じたついでに、
彼の実家の祖光泰のことに及んだ。(※大関増業は加藤家からの養子)
光泰は朝鮮の役に赴かれたのかと問うと、以下の話をしてくれた。

「そのころは甲斐一国を領して二十四万石でした。
かの征伐のときは在国していましたが、太閤の名護屋在陣の労をねぎらおうとして、
国を立って肥州に到りました。
 
 その折節、鮮国に在陣していた石田の輩が、
糧食のことで太閤の命を承って直にかの国に渡っていました。
それなのに石田が輩は糧食が乏しく清正が先入していた所に行くことができないと言ってきました。
光泰は
『己が進退のことを難しいと思って先入の人を察せない。
これは勇無しとするべきだ。我が直に先陣のところに行こう。』
と言い、石田が止めても聞かなかった。大いに争論しましたがついにその場を出発されました。

 石田はすぐに彼と和睦し、明日に彼を自分の陣所に招いて光泰を饗応したそうです。
このとき石田は秘かに毒を設けたといいます。
光泰は自分の陣所に帰ると病を発し、救われないことを悟りつぶさにその状を書いて死にました。
その書は今も加藤侯に伝わっているといいます。

 石田がこのことを為したのは、
もしかしたら帰朝の後に光泰がその朝鮮での実態をあらわにするかもしれないと
いまわしんでのことでした。」

『藩翰譜』には、この事が載っていない。
予は光泰の志を憐れむ。ゆえにこの事を記録せずにはいられない。

(甲子夜話続編)
194 :
2016/10/09(日) 12:20:52.82 ID:LqOI0YIG
加藤光泰「石田めが俺の食っていた砂に毒を入れたのだ!」
195 :
2016/10/09(日) 13:10:38.91 ID:2claNxhB
加藤光泰は碧蹄館の戦いの前に前野長康と明軍と戦ってやられたり、朝鮮では散々だったな
196 :
2016/10/09(日) 14:26:28.85 ID:Oau9qfpR
>>192
臆病者久幸おつ
197 :
人間七七四年
2016/10/09(日) 15:07:23.02 ID:YB5Da6Hm
>>196
(晴賢の晴だったんだけどなぁ…まいっか)
その臆病尼子比丘尼に救われたのは誰でしたかのう?
198 :
2016/10/09(日) 21:57:38.33 ID:Oau9qfpR
臆病者あるあるですね
199 :
人間七七四年
2016/10/10(月) 07:43:12.23 ID:dtnoel3P
経久「晴久君、ちょっと話があるから雪隠裏行こうか」
200 :
2016/10/10(月) 11:04:09.18 ID:M8uKGH4G
老害おつ
201 :
2016/10/10(月) 13:56:46.31 ID:cTGsgr3g
ある時龍造寺隆信の母・慶ギン尼は隆信と衝突して隆信弟の長信の元へ飛び出したことがあった。
その時、隆信から長信に宛てた書状

「ここもとは見限られて候て罷りあられ候間。家中の儀はそのもとにて随分ふるまい申さるべく候。
同じ子にて候えども、そなたは孝行者に候間、申すことにて候。我らどもは子のうちとは申されず候。おかしく候…」

母親に「長信は孝行者だが隆信は子のうちとは言われない」とまで言われてしまったクマー
(歴史群像シリーズ『戦国九州軍記』の「配慮と決断、カエサルに似たり」より)
202 :
2016/10/11(火) 13:58:34.44 ID:cmvPSgmJ
 荘の近所にある御勘定所に、中村某なる者が住んでいる。
去冬から上加茂下加茂貴船御修営のことを役目として上京し、
この夏帰府した。兼ねて懇ろな人だったので、
ある日その宅を訪ねて京話を聞いた。
さてもさても、都といい、また旧山川といい、一感一喜珍しい面白いことどもが
湧くようであった。
そのうちのいくつかを留めた。

予は第一に問うた。

「大仏殿の石垣には、そのころの諸家から寄進された大石があり、
その献上された大名の家紋が彫られているという。
きっと予の祖先の紋もあるはずだと、京地の人や通行した人から聞くがはっきりとしない。
実際あるのか?」

「紋はもとから無い。かの石垣というのは、二間三間におよぶ自然石を、その石のまま重畳し、
石垣としたものである。紋所というのは見えない。」

大仏石垣の話のときに、予は問うた。

「文禄朝鮮攻めのときの耳塚は、先年の大地震に崩れたという。本当か?」

「そうではない。年が古いので誰も見るもの無く、草木が生い茂り、その上からそびえて見える。」

などと答えた。


 さて『閑田次筆』〔伴蒿蹊著〕というに挙げられているのは

「讃岐由佐邑の人、菊池武矩『つくしの記行』に、
筑前国、浜男という所の近くに耳塚が有る。神功皇后が三韓を打たれた時、
その国の人の切り、耳を埋められた所であるという。
これが本朝の耳塚のはじめで、この後源義家朝臣、奥州の戦に打ち勝ち、
河内国に耳塚を築き、耳納寺を建てられた。これが二度目である。
豊臣公、京大仏に耳塚を築かれたのは第三度目である。」

 このことによれば、太閤の耳塚は神功の古例に拠ったのか。
しかし神功は征伐である。豊臣氏は残忍である。
その応報は、ある人曰く、阿弥陀が峰の豊臣公の墓は、
後代に至って、頑民が悉く奪い去り、今はわずかに地底の骨棺のみ存すと。

(甲子夜話三篇)
203 :
2016/10/12(水) 04:41:40.18 ID:6gGIiIHG
豊臣氏は残忍である
???
204 :
2016/10/12(水) 07:57:24.56 ID:zRqAX6S/
秀吉は残忍じゃなきゃいけないんでしょ
205 :
2016/10/12(水) 14:14:27.40 ID:Ml1Xcr10
>>204
『耳鼻削ぎの日本史 』で清水克行先生も、「やっぱ秀吉って残忍だわ」って書いてるな
206 :
2016/10/12(水) 19:42:48.08 ID:zRqAX6S/
特別なことでもないって記述をネットでは見かけるけどそうでもないってことなのかな?
207 :
2016/10/13(木) 00:46:44.64 ID:Y0ZJU9Fw
加藤光泰〔大洲〕、嘉明〔水口〕、清正〔跡、旗本の人となる〕系統の事

括斎(大関増業)が言うに、

今の水口の加藤氏、肥後の先代の主の加藤氏、大洲侯、皆同家である。
大洲の先祖は嫡子で水口の先祖〔嘉明〕は次子。清正はその姪かであり、兄弟ではないとのことだ。
その世系を知らない人の為に記す。

(甲子夜話続編)

いつのまにか、同族になってしまった加藤s
208 :
2016/10/13(木) 07:32:05.95 ID:M+xN9isV
つっこみどころはそこなのか?
姪?だろ
209 :
2016/10/13(木) 07:41:56.20 ID:79/PQNWV
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7253.html
にもあるように、顔真卿「祭姪文稿」などでは姪は一世代下の血族を表すから間違ってない。
210 :
2016/10/13(木) 11:31:05.82 ID:M+xN9isV
ウィキでは1世代下の宗族となってたが
宗族=父系同族集団のことなのに女偏の姪がなぜ使われるのだろうか
211 :
2016/10/13(木) 19:59:18.60 ID:imbpxLIX
>>207
それを言った大関括斎とは元々空気加藤の子孫であの大田原三兄弟の長男が祖の黒羽藩を
継いだ人物だから
212 :
2016/10/14(金) 14:54:41.43 ID:UGi9nDJa
徳川家には……


春も末のある時、森可政(森可成の弟で忠政の叔父)が忠政へ生の鱸を差し上げようとしたところ
近習衆は「忠政公は奥にいらっしゃるので今お披露目するのは難しい」
と断りそのまま持っていこうとした。

可政は大いに腹を立てて
「この時分は落ち目のナマモノがあるので、忠政殿はお出でになるべきだ。
ナマモノを直接ご覧にならないのは以ての外である!先年それがしは家康公へ庭先のハシゴを差し上げたが
御列座の衆は
『あの可政は秀吉公の代には黄母衣の御大役として口を聞くような者だったが、庭先のハシゴをくれたのか』
と機嫌よく家康公の御前へ持っていってくださった。何を差し上げようとも
『公儀の場よりも奥の間にいるので披露できません』と返すような御列座の衆は徳川家にはいなかったぞ!
早く取り返してきてくだされ!」
と言ったので近習衆は驚き早々に生の鱸を忠政に披露したということだ。


――『武家聞伝記』
213 :
人間七七四年
2016/10/14(金) 18:04:55.82 ID:EfRVp88D
後藤又兵衛の陣羽織を拾ったのは

黒田長政が豊前の国人一揆で城井城を攻めた際、反撃を喰らって撤退した際に
殿軍を後藤又兵衛が務めたはずであった。
後に論功賞の際に後藤又兵衛は殿軍を務めたと主張するが
新参者である城戸乗之助が赤い陣羽織を持ち出して自分こそが殿軍であると主張した
その陣羽織は後藤又兵衛の陣羽織であった。
乗之助曰く「又兵衛殿が殿軍であれば自分が陣羽織を拾うはずがない、
陣羽織を拾った自分こそが殿軍である」と主張した。
その事により殿軍は城戸乗之助になった。
この件が原因で黒田長政と後藤又兵衛の間に軋轢が出来て
後藤又兵衛の出奔の一因となった。
その後、城戸乗之助は黒田長政と大坂に向かう途中で
備後福山付近で行方不明になった。
その後の彼の行方は不明である。
214 :
人間七七四年
2016/10/14(金) 18:33:38.06 ID:EfRVp88D
大事な事なので二度書きました
215 :
2016/10/15(土) 00:45:21.73 ID:3Myx/OD/
森武州の具足

第一巻に、森氏の先祖武蔵守の具足のことを言った。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10190.html

今年その孫美濃守〔初めは右兵衛佐。既に退隠して名を変えている。〕(森忠賛)と
逢ったときに物語した中で、この甲冑のことに及んだ。
濃州が言うには、甲冑は革具足で黒糸で威ていて、殊に粗末な物で、
なかなか大将の物とは見えなかった。
また小さい具足で、私が着てみると胸さきは空いていて、腹ばかりにある体であった。
兜は討死のとき首とともに敵に渡したので、家にはなく、今は井伊家に伝わっている。
とのことだそうだ。

前記と違うがそのまま記した。

(甲子夜話)

小さい事には変わりはありませんね
結局鬼武蔵の兜は永井家か、井伊家か、どっちの家にあったのでしょうか
216 :
人間七七四年
2016/10/16(日) 08:19:22.67 ID:IWC7trJD
元就、軍議の席次を巡って争う

天文22年(1553年)、先年の陶隆房謀反の後、大内家の当主が義隆から義長へと代わると、備後国で元々大内方だった旗返城の江田隆連が離反し、尼子方へ鞍替え。尼子晴久は数万の兵を備後に向けて発する。
これを討つため毛利元就をはじめとする安芸の国人衆の軍は旗返表へ集結。次いで大内義長の命を受けた陶尾張守入道全薑(陶隆房改め晴賢)が同年6月10日に1万の兵を率いて旗返に到着すると、大内方の諸将は旗返攻略の軍議を開くため陶の陣に集った。

いざ軍議を開こうという段になって席次を巡り争う者があった。毛利元就と平賀太郎左衛門隆宗である。

元就は元就様は、「合戦評定のときに、陶の入道の左の席は元就でなければならん。何故なら
すでに備芸の半分以上を幕下に収め、そのうえ一昨年の上洛の際には、
万松院義晴公のご推挙をもって従四位に叙せられたうえに義晴公にご相伴まで許されているのだ。
だから、安芸や備後国の中には自分に肩を並べる弓取りはいない。
誰が自分より上座に座ることができるというのか」と主張し、対して平賀太郎左衛門は

「元就の武威がどんなに盛んで、
当国の半ば過ぎを手中にしているといっても、
昔から宍戸・平賀・毛利といい続けてきたものだ。
昔から決まっている座配なのだから、正四位であろうと従四位であろうと関係ない。
陶入道の左の席には、しきたり通りこの隆宗こそが着くべきだ」と言い返した。

どちらも主張を譲らず平行線となり、陶もその様子にこのままでは敵と戦う前から味方が割れてしまうのではないかと内心ハラハラしながら見ていたものの結論は出ず、陶入道は
「私の判断ではどうにもならない。ならば神前にて決めよう」と提案すると、元就と隆宗もこれ以上話しても仕方なしと判断し、近くの八幡の神前にて占いを受けたところ
「左の座は元就」
と神託が下った。しかしそれでも一同は納得せず、15日は元就、16日は平賀と順番に左座に着席して会議を行った。

(陰徳記)

元就にしては大人気ない珍しいエピソードの様な気がする。後、平賀隆宗はこの4年くらい前に死んでるはずなんだけど陰徳記だからまぁ良いか…
217 :
人間七七四年
2016/10/16(日) 10:34:24.81 ID:IWC7trJD
>>216の事について改めて調べて見たけど従四位の叙任や相伴衆になった年もこの話より未来の出来事だな… どんだけ適当なんだよ香川さん…
218 :
2016/10/16(日) 20:47:21.16 ID:wZGJMEJ2
永正の頃、日向・伊東尹祐の家中に福永伊豆守祐炳という者があり、尹祐は彼を寵遇のあまり、
召し使っていた女を与えるほどであった。やがてこの女は一人の女児を産んだ。この女児は7,8歳の頃より
伊東家の奥で召し使われ、14,5歳に及んで垂水又六に嫁いだ。
ところが、尹祐は何を思ったか、この女を自分に遣わすよう又六に所望した。

又六は答えた
「我が妻が未だ福永の家に居るうちならば、上意に従い奉るべきでしょう。ですが今既に私の所に
嫁いで来ています。この上は御免下さるべきです。」

しかし尹祐は承知しなかったため、又六は急ぎ妻を引き連れて知行地の三宅に下った。尹祐もこれを聞くと
又六の後を追い三宅に向かおうとした。この時近習の者が急ぎ使いを立てて、重臣である落合駿河守に知らせ、
まず伊東尹祐を寺に待機してもらい、そこに暫くして落合駿河守が参った。尹祐は面目無く思ったのか、
落合の姿を見ると奥の一間に入ってしまった。その尹祐に落合は声を荒げて言った

「御祖父惣昌院殿(祐堯)が国を治められたあと、御父光照院殿(祐国)は気ままにわたらされ、
飫肥楠原の陣にて御家に困難を引き出されました。しかし飫肥の代地として庄内千町を御知行あってこそ、
御家の難も少しは緩むというのに、今また君の御気ままにては、怠慢であり然るべからざる物です!

我らは、西南には薩摩の大敵を受け、北は豊後梓峠一つを隔てて大友の強敵があります。決して
油断あるべき時節ではありません。今は先ず、国家を固められる御工夫こそ必要なのです!」

尹祐はこれを聞いて面目なく思ったのか。にわかに寺の後門よえい抜け出て、都於郡に帰城した。
落合駿河守もその後に従い、登城して御前に進み

「恐れながら先刻申し上げたことを、御承知下されありがたく存じ奉ります。」
そう涙を流して申し上げた。これを尹祐は黙然と聞いていたが、暫くして

「あの女を所望したのは私の本心ではないので。実は福永伊豆守が勧めたのだ。」

この言葉が垂水又六の一族に伝わると、彼らは評議の上、又六に勧めてその妻を離縁させた。
その後、尹祐が瀧の天神に参詣したおり、福永の邸宅に立ち寄り、この女を連れて帰った。

以ての外なる行跡である。

(日向纂記)
219 :
2016/10/16(日) 23:41:44.30 ID:KB/bRNLL
落とし胤だったか
220 :
2016/10/17(月) 10:03:00.92 ID:IziOomWy
輝元「その手があったか!」
宗麟「メモメモ」
221 :
2016/10/17(月) 16:09:05.57 ID:hV4rsN2C
>>218
よくわからん、ただの横恋慕?
222 :
2016/10/17(月) 16:19:59.53 ID:FNw7DcIn
母と娘両方とすることは畜生の所業のはず
223 :
2016/10/17(月) 21:00:40.31 ID:zpQa4NRC
>>218の続き

永正7年、伊東尹祐が家臣・垂水又六より奪った、福永伊豆守祐炳の娘が懐妊した。
尹祐は重臣である長倉若狭守祐正と垂水但馬守の両名を召して言った
「今度産まれてくる子が万一男子であれば、嫡子に定める。」
これに両人は反対した

「先年、申し上げたことがあります。天に二つの日はなく、国に二人の主はありません。
既に桐壷様(中村氏娘)が産まれた若君様に嫡男としての御祝いを上げています。
であるのに今更福永腹の若君を立てられることは良いとは思えません。」

これに尹祐は腹を立てた。この頃、長倉若狭守は綾という地の地頭であったが、尹祐の
寵臣である稲津越前守重頼がかねてよりこの職を望んでおり、稲津は尹祐の感情が悪化している
のを幸いに、二人を様々に讒言した。尹祐もこれに煽られ怒り甚だしく、長倉と垂水は
身の危険を感じ、同年九月朔日、綾城に立て籠もった。これに対し尹祐は宮原まで自身出馬し、
綾城を攻め立て、十月十七日、二人は遂に切腹して果てた(綾の乱)

この乱の最中の九月十三日、福永娘は男児を産んだ。幼名を虎乗丸。後の伊東祐充である。
尹祐はこの子を寵愛し家督を譲るつもりであったので、常々桐壺の産んだ子を悪み、殺害する
心があった。

その後、永正十四年十一月十四日、桐壷の子が尹祐の御前に出た時、尹祐は怒り出し
彼を追いかけた。まだ子供である桐壺の子は声を上げて泣き出し、庭前に走って逃げた。
近習の士である上別府某と弓削摂津介がこの子に走り寄って抱きかかえた。
尹祐は縁側に出て命じた「それを殺せ!」
弓削摂津介はこの命を奉り、彼を殺害した。この時この桐壺の子は、十四歳であったという。
(日向記では十二歳という)

情け無いことであると申さぬ者はいなかった。

(日向纂記)
224 :
2016/10/17(月) 23:58:55.58 ID:GuZsnBMu
能役者の古事

 人が伝える話も時々違うものだ。

 予が若年の頃、能役者笛吹の清甚兵衛が語ったことは以下のようなものであった。
「私どもはそもそも、奈良春日の神職の中からでました。
大夫、脇師の如きも同じです。」
と聞いていたが、この五月観世の宅に能見物に行ったとき、その弟四郎に、
『同職の今春大夫は奈良の神職か?』と問うたが、
そうではないという旨が返ってきた。
ならば『年々奈良の神事に赴くのか?』と問うたら、
「私の家の如きも以前はかの神事に同じく行っていましたが、
神祖の仰せで、『観世は行くに及ばず』、とのことが有りましたので今は赴きません。」
との答えであった。

 また大阪茶臼山の御陣所にも観世は御供していた。
そのときいつもは暇なので、こよりを多く持っており、
それを使って戦士の甲冑の毛ぎれ、あるいは損じたものにつぎ合せていたら、
人々はそれを重宝がり、こよりを観世から請い求めたという。
 予がかつて聞いたことに、道成寺の能の鐘の内には面の紐無かったので、
一時的に紙をよって面につけたことから起きたと。
この話とは異説である。しかし正しく子孫の伝なので用いるべきであろう。

 予はまたかの御陣中には何の御用を為したのかと尋ねると
「謡を度々命ぜられ、折には御囃子もあったと書き伝えております。」
との答えが返ってきた。
なので御陣中とても、今の治世に想っているものとは全く違うものだ。

 また、大夫[左衛門]の話では、
神祖の頃には、御出陣に謡うには必ず弓矢の立合と決まっていたそうだ。
[今では正三の夜に、御謡初として御前で謡うものである]
また御出船のときには船の立合を謡うもという。
この謡は今の乱曲の中に見えるが、多くの人は知らないものだ。

 かつて或る人の話に、
太閤名護屋在陣のとき、慰めに狂言をされた。折節”止動方角”の狂言をすることとなった。
神祖に太閤は「何の役をやりたいか」と問うと
神祖は御答として「某は何でもいいです。しいて言えば馬になりたい。」
と仰って馬となりなさった。
そこでは鷺仁右衛門の祖は太郎冠者として、恐れ多くも神祖に乗ったという。
今では鷺の家ではこの狂言は憚ってやらないと聞いた。
 しかし近頃今の仁右衛門がこの止動の狂言をしたので、
ある鼓の者に頼って鷺に以上の話をしても、今までそんな話は伝えていないとの返事であった。

ならばこの説は誤伝であろうか。
(甲子夜話)

諸説入り乱れる能役者逸話集
225 :
2016/10/19(水) 01:36:00.64 ID:Kwj3E/7X
東照宮(徳川家康)の御子達多き中で、紀伊頼宣君は、その御器量天才
にして、只の尋常の御性質ではあられず、

そのところを東照宮は御覧になられて御寵愛は浅からず、尾張の義直卿
と紀伊頼宣卿とは、「天下左右の固めであると思し召されるように」と、

堅く御遺言なさったことにより、江戸御旗本(徳川将軍家)・尾張・紀伊は
“御三人”と称され、三家一体の御高家であった。

――『南竜言行録』

水戸家ェ…
226 :
2016/10/19(水) 02:18:39.13 ID:M/r/pRYO
当初は水戸の立ち位置が不確かだったような
今ではそんな水戸の血筋が宗家だけど
227 :
人間七七四年
2016/10/19(水) 04:25:34.69 ID:gmsZuxDH
>>225
元々そうでしょ
悪い話でもなんでもない。
途中から将軍家除いて水戸を加えた方がいい話だか悪い話だかになるんじゃないのかな
228 :
2016/10/19(水) 15:21:25.87 ID:2lnbE035
そりゃ水戸家は紀州家の分家扱いだったって言われるぐらいの格下だしな
まったくのフィクションだと分かっていても水戸黄門でじーさんが紀州に乗りこんで偉そうにしているの見て、哀れに見えたわ
229 :
2016/10/19(水) 20:03:41.41 ID:vD6BiNk0
>>226
会津松平家が徳川宗家だけどな
230 :
2016/10/19(水) 20:04:17.78 ID:vD6BiNk0
>>226
今の徳川当主は会津松平家だけどな
231 :
2016/10/19(水) 21:00:20.81 ID:qTJ2VxIA
男系血統的には水戸徳川→高須松平→会津松平→徳川宗家という流れ
232 :
2016/10/19(水) 21:26:49.25 ID:qTJ2VxIA
尾張徳川は鍋島血統の堀田が継ぎ
紀伊徳川は断絶の危機
水戸徳川は現在も男系血統が続き、宗家も含め各連枝にも水戸血統が多い

どうしてこうなった
233 :
2016/10/19(水) 22:39:27.14 ID:eiQrfX7O
>>232
だいたい烈公斉昭のせい

この人も公私に渡ってDQN四天王に次ぐアレさ…
234 :
2016/10/21(金) 13:49:21.24 ID:2urGPJb5
すみません、質問させてください

『鬼』の風化
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4354.html

こちらの逸話の一次ソースをお教え願えませんでしょうか?

地元の歴史を調べていて、こちらのまとめブログに行き着いたのですが、
とても面白い話で、特に「農民が勝手に供養塚の場所を動かしてしまった」という下りに興味を惹かれました
ここの部分の原文ソースにあたってみたいのですが、もしご存知の方がいらっしゃいましたら、
ご教授いただければ幸いに存じます。よろしくお願いします。
235 :
2016/10/21(金) 15:20:48.20 ID:EdsGRopz
『長久手合戦記』が出典だと思う
236 :
2016/10/21(金) 15:52:44.92 ID:vvaNobsX
ありがとうございます。助かりました
早速調べてみます
237 :
人間七七四年
2016/10/21(金) 23:20:13.71 ID:wTftajrD
大内勢、味方を討って手柄を得る
>>216続き
こうしたところに、陶の入道の老母が危篤だという知らせが舞い込んできたので、
陶入道は取るものもとりあえず山口へと戻っていってしまった。
代わりとして、義長から内藤下野守興盛、陶からは江良丹後守(房栄)に六千余騎を差し添えて、
備後へと軍勢が送られてきた。

江田の端城の祝(高杉)の城を切り崩すため、元就父子三人を大将として、
宍戸・平賀(広相)・熊谷・天野・三須・香川・遠藤・入江・山田・飯田など六千余騎が、
七月二十三日に、一気に攻め破ろうと、鬨の声を上げて攻め上がった。
城の尾首は吉川衆、左は吉田衆、右は平賀・宍戸(隆家)・熊谷・天野などが一勢ずつ攻め口に進み、毛利勢は勇将粟屋弥七郎就が戦死したものの、
その活躍に吉川勢と仏像の様な金ピカの鎧に身を包んだ平賀の奮闘もあって城主の祝甲斐守と祝治部大輔を吉川勢が討ち取り、城兵750のうち600までが安芸の国人衆に首を取られた。

内藤・江良は備後の国人に手勢を加えた一万余騎で、
尼子勢への押さえとして送られてきていたというのに、
祝の城へ馳せ向かわなかったので何一つ手柄を立てることができなかった。
それが山口に報告されるとまずいと思ったのか、
味方の三吉の者たちをそ知らぬ顔で取り囲み、「敵だ」といって討ち取ると、
山口へは「尼子勢を討ち取った」と注進した。

こうして元就と内藤・江良の勢合わせて一万六千余騎は、
伊山に陣を構え、同年の十一月まで対陣していた。
江田は堪りかねて、同十三日に旗返の城を空け、山内へと退却していった。
旗返の城には、すぐに江良丹後守が入った。

尼子晴久は江田が城を去ったので仕方なく山内を引き払い、出雲へと兵を引き上げていった。
元就も吉田へと帰陣した。
内藤興盛も吉田へ寄るとしばらく逗留し、同十二月初旬に山口へと下っていった。

しかし、この時元就の意向に反して旗返の城に江良丹後守が入ったことは陶に対する元就の反感を高め、後の厳島合戦の遠因となったのである。
(陰徳記)
238 :
人間七七四年
2016/10/22(土) 10:59:08.35 ID:4DeVsb5M
粟屋弥七郎(就俊)
239 :
2016/10/25(火) 05:15:08.44 ID:dsNNs2EC
?嶋原の賊矢文


薩州の支、佐土原侯〔島津筑後守〕の臣の某が持ち伝えている、
寛永中の耶蘇一揆のときに、原の城中から寄せ手に射遺した矢文として、
伝写したものを見た。
本書は今なおかの臣の家にあるという。
その文は憎むべきものだ。
これがまさに彼らが賊徒であるゆえんである。


「矢文


『一、当城之土民、宗門ノ為メニ尸ヲ山ニ捨て、名ヲ後代ニ留メント欲ス。
之ニ加ルニ忝モ上使板倉内膳正ヲ討チ奉リ、生前死後之本望、之ニ過グベカラズ候。
冀クハ近日一戦遂、万死ヲ顧ズ、尽ク相果ン。
且又余慢有ルニ依テ、狂歌ヲ綴リ軍中ニ放ツ者乎。一笑セヨ。』


一戦功成テ古城ヲ鎖ス、 三軍ガ死ヲ望テ責レドモ成シ難シ、
九州ノ大勢十余万、   一冬立チ尽シテ花ノリヲ待ツ。


島原や有馬の城を責かねて 心づくしに見ゆる上使衆


肥後守いかに心は細川や なかながし日をあかし暮らして


物数寄は越中流とききければ 敵にあふてはならぬ物数寄


有吉や頼むかひなき先手にて 敵をばうたで味方をぞうつ


信濃路や敵に心をかけ橋の かいがい敷もあぐるせい楼


立花や袖の香ふれし昔より 猶かふばしき武士の道


有馬山すそのの桜咲みだれ 軍は華を散す古城


寛永十五年寅三月日」


(甲子夜話)
240 :
人間七七四年
2016/10/25(火) 07:22:34.73 ID:Bd8kq3tu
声優でスネ夫役の肝付さんて、島津と争った肝付氏の末裔らしいな。
241 :
2016/10/25(火) 08:01:57.85 ID:+2Ja90m6
肝付とか聞いたこと無い名字だよな
在日かこいつ
242 :
2016/10/25(火) 08:49:44.07 ID:CVOZtn5h
小松帯刀くらいは聞いたことがあるだろ
その出身>肝付
243 :
2016/10/25(火) 09:18:59.28 ID:xjKmbkse
戦国板で肝付を聞いたことがないとか勘弁してくれよ
244 :
2016/10/25(火) 09:21:46.33 ID:9xpVU5sN
あからさまな釣りに引っかかるのはNG
245 :
2016/10/25(火) 20:11:50.09 ID:BRHBqmwz
かなり昔に戦国時代の末裔の有名人の話題で盛り上がったことがあったよな
スネ夫の中の人もその時名前出てた
246 :
2016/10/25(火) 21:53:12.75 ID:MG+WC0Bk
ノブヤボで見た感じだと肝付氏の通字は兼ぽくみえる
247 :
2016/10/25(火) 23:24:37.87 ID:NAJp8WhF
初代から兼を使ってるんじゃなかったっけ?
伴なのか大伴なのかの決着ってついてるの?
248 :
2016/10/26(水) 02:31:41.89 ID:kweATJqC
東国で1人の浪人が“地ずりの晴眼”という太刀を覚え、「これに勝てる者はおるまい」
と思い、伊藤一刀斎に会って、

「この地ずりの晴眼の止め様でもありましたら、御相伝くだされ」と、望んだ。一刀斎は
「なるほど、伝えよう」と請け合いながらも、それを伝えずにまた他国へ行こうとした。

浪人は心に、「一刀斎でもこの太刀を止めることができないからだ」と思って、彼の
途次に出向かい、「日頃望んだ地ずりの晴眼の止め様を御伝授されないとは、遺恨
である。只今、御相伝くだされるべし!」と、言うままに、

刀を抜いてかの地ずりの晴眼で、するすると一刀斎に仕掛けた。その時、一刀斎が
抜き打ちに切ったと見えると、かの浪人は2つになって倒れ伏した。

世間はこれを、「地ずりの晴眼の止め様を伝授したのに、そのまま息絶えてしまって
残念である。これを“真金江の土産(冥土の土産)”とでも言うべきだろう」と評し合った。

一刀斎一代の行跡には、このような事なども多かったという。

――『撃剣叢談』
249 :
2016/10/26(水) 07:46:51.73 ID:/8rCg6Gs
ホネカワつながりで、盗賊連れて応仁の乱の際に暴れまわったあげく、最期は女装して逃げ出そうとしたところを殺されてしまった
足軽大将、骨皮道賢ネタを書こうとしたら既出だった。
スネ夫というよりジャイアンに近いか
250 :
2016/10/26(水) 17:11:00.91 ID:zAjQwwv/
無能扱いされてる関東管領、上杉憲政の河越合戦後の書状
討ち死にした赤堀上野介の娘に対して「男児がいないため、女児であるお前に家督を継ぐことを許す」
とわざわざ仮名で書くという気遣いを見せているが、その文面

「あかほりかうつけのかみむすめ のり政
かたへ
返々みやうたい(名代)の事、まかせおき候、
こんとかわこえにおゐて、をやかうつけのこみうちしに、ちうしんのいたりニ候、
しからはおふなこの事に候とも、みやうたいしきの事、あいはかるへく候、
ここもととりしつめ、ちうしやうもあてをこなふへく候、あなかしく

四月廿七日 のり政
あかほりかうつけのむすめのかたへ」

上野守(かうつけのかみ)、と書いてるけど上野って親王任国では
251 :
2016/10/26(水) 17:12:13.65 ID:zAjQwwv/
文中ちょっと訂正
をやかうつけのこみうちしに

をやかうつけのかみうちしに
252 :
2016/10/26(水) 17:32:18.28 ID:zAjQwwv/
ttp://www.city.saitama.jp.cache.yimg.jp/004/005/006/001/017/012/002/p000183_d/img/001.jpg

画像があった。
かうつけの、の下が「かみ」になってるか、読める方がいれば読んでほしい
253 :
2016/10/26(水) 20:35:53.07 ID:biprH1Xg
赤堀か、うつけの神娘に見えた
254 :
2016/10/27(木) 02:00:58.95 ID:TnWOS/cS
(大坂夏の陣の時、)玉造で源君(徳川家康)は、杖をおつきになり、
諸大名に御言葉をかけなさって、のさのさと御通りになられた。

台徳院様(徳川秀忠)は御駕から御出になられ、御腰をかがめなさり、
諸大名へ御挨拶なされて、御通りになられた。

この事について、台徳院様が敵方からの矢玉を御避けになっていた
ように取り沙汰し仕ったとのことである。

――『武功雑記』
255 :
2016/10/27(木) 20:39:37.87 ID:lY6dUZwu
昔、阿波国勝端の町に青屋太郎右衛門という者が居た。彼は米持ちであり、持明院の旦那になるほどであった。

その頃、勝端の南にたたつ修理という侍が在った。彼は青屋太郎右衛門の娘に米百石の持参金を付けると
いうのを息子の嫁にとったが、息子は間もなく死んでしまった。この事で、「たたつ修理は米百石で子を売った」
と言われ、物笑いに成った。

三好長治の小姓に山井図書という者があったが、彼は大酒飲みで一日に酒を一斗(約18リットル)も二斗も
飲んでも、痛くも痒くもないという人物であり、その飲みっぷりから三好長治の御意を一段と良くし、
長治は彼とともに昼夜酒盛りを行い、酔っ払って正体のない有様であった。

その頃、米持ちである青屋太郎右衛門に肩衣を着せた(侍身分にした)が、この事について人々は、
「酒の故だ」とは言わなかった。
「青屋に肩衣を着せるような真似をする人物だから、ああなのだ。」と申しふらした。

(三好記)
256 :
2016/10/28(金) 22:25:21.46 ID:hT+bzspg
黒田勘解由次官孝高は、黒田職隆の嫡子である。母は明石氏、天文15年孝高を播州姫路に産んだ。
この時雪が降って、その家を覆った、これは英雄の生まれる奇瑞であった。また家門繁栄の
前兆でもあったのだろう。

孝高は天性聡明、鋭敏にして才知たくましく、武芸も人に優れていた、彼ほど勇猛、英武な事も、
また世に少なかった。古の和漢の良将といえども、彼を越えることはないだろう。
まさしく天が下した英材であり、本朝においてこの右に立てる人は殆ど居ないと言える。

秀吉が播州に初めて来た時から、これを助け、遂に天下を平らげたのも、ひとえに孝高の功である。
黒田孝高を知る人は、孝高はよく秀吉を助け、天下を平らげたと思っている。
黒田孝高を知らない人は、秀吉が孝高を取り立てたと思っている。
例えれば、漢の張良が高祖を助け、明の劉基が太祖を補佐した事に似ているが、その功は
それらを越えているのだ。

(黒田家譜)

これが黒田家譜の、黒田如水公式設定である。
257 :
2016/10/28(金) 22:50:02.34 ID:a0vwWu8v
黒田家譜だししゃーない
258 :
2016/10/28(金) 23:03:20.81 ID:JnJrWcR6
作者はキリシタンなんだろうな
259 :
2016/10/28(金) 23:15:53.53 ID:0wqTwghO
貝原益軒はキリシタンだったのかφ(..)メモメモ
260 :
2016/10/29(土) 00:31:26.90 ID:qpXB4M5+
中国の王朝開祖のテンプレートみたい
261 :
2016/10/29(土) 00:42:43.87 ID:lvkvkyyI
?我が先、朝鮮在陣の笑談

 雨の中聴く者は外に一人もいないまま、宗耕〔軍講者〕としばらくの間話をしていた中で
朝鮮攻めのことに及んだ。
 耕がその話を言い出した。
「御家にはさぞかしかの国の御獲物があるのでしょう。」
そこで予は言った。


「なるほど、いろいろな所にその時の物もあるでしょうが、
どうにも私の家には一品といえる物が無いといえます。
しかし法印(鎮信)がその役に用いた兜は伝わっているが、
甚だしく粗末な物でなかなか大将が着るべき物ではない。」


予の話を聞いて耕は以下の話をした。


「ごもっともだと承ります。
黒田家でかの役に〔長政であろう〕着られたという御具足を見ましたが、
胴着にしても、俗間に鳶や仕事師が裸に着ている腹懸というもののようで、
前後に革を合わせて首の所に襷にように何か黒く粗末な塗りをし、
破れた所には何か革でふせをして綴りつけていました。
しかし、父公の具足として御子の右衛門佐(忠之)の時に、
その内を金梨子地で塗られて、表は往時のままにされていました。」


 予は思うに、内を新しくしたのは惜しいことである。
それを聞いて、法印公の御兜は昔の時のままなので、
当時の有様を思い知ることができる。


(甲子夜話三篇)


当時はまだ実用品だったと思われるので、
忠之が後に文化財改悪といわれるようなことをしたのも致し方ないようにも思える
262 :
2016/10/29(土) 20:13:58.54 ID:D/qq4jRl
天正5年(1577)、日向国伊東三位入道(義祐)は、薩摩の島津義久に打ち負け国を追われ、
豊後の大友宗麟を頼った、宗麟はこれを受け入れ、重臣を呼び出し、命じた
「伊東入道のため日向に出陣する。直ぐに国々へ陣触れを出すように。」

これを聞いた重臣の一人、斎藤重実は即座に申し上げた
「御出陣なされるという事は御尤もに思います。ですが、一旦下がって愚案を巡らして見るに、
これまで毛利陸奥守(元就)が度々我らに軍勢を差し寄越しましたが、遂に一度も利を得られず、
これについて子息(原文ママ)の右馬頭輝元は骨髄に思い入り、当家の盛衰に常に注目しています。

そのような中で島津義久と取り合いが起こり、御合戦で他に対処できない状況になれば、輝元が
豊前筑前に対し手を出すこと、疑いありません。そもそもこの両国は一度元就に内通した前例が
あるのです。輝元が旗を出せば、前々と同じようにするでしょう。

龍造寺隆信に関しても、彼は手の裏を簡単に返す、表裏者なのですから、我らが輝元、義久と
戦う状況になれば、彼も手を出してくること疑いありません。隆信一人でも、3万余りの軍勢を
有しているのですから、簡単に崩すことは出来ません。

それといいこれといい、今度の御合戦、大友家が直接関与すべき事ではありません。
ともかく、先ずは時をお待ちに成るべきです。」

そう出陣に反対したが、宗麟は承知無く、「急ぎ国々に触れを出し、各々支度をさせるように。」と
命じたため、斎藤も畏まり、御前を罷り立った。
その後、大友家老中である吉弘鎮信の元へ立ち寄り、終日日向出陣の事について相談し、様々に物語
した中で、吉弘鎮信はこう言った

「誠に、私ごときでは申しにくい事では有るが、今度の御弓箭は御大事な事だと考えます。
近年、大友家の御仕置は一つとして良き事がなく、御領分の六ヶ国の諸人は疲弊しています。それなのに、
何の好で一命を捨てて戦かおうとするでしょうか。

宗麟公は田原紹忍という大佞人を尊敬し、国家の仕置を彼に仰せ付けたため、御加恩は諸人を越え、
己が威勢のみを楽しみ、宗麟公に誤りがあっても、御異見など申し上げては御意に背き身のために
成らないことを痛み、とにかく御意をさえ取り請けていれば我が身長久であると心得、上にへつらい
下を掠め、あまつさえ宗麟公をたぶらかし、切支丹の敵であると、国々の大社伽藍を焼き払い、
或いは打ち崩し、咎なき出家、社人を殺されたこと、昔も悪行の例は多いと言えども、このような事は
終に承った事がありません。

今度の御陣は、仏神を破却された天罰に寄っても、お負けになってしまうでしょう。もし立花道雪が
旗本に居れば、そのように悪しきことばかりはないのでしょうが、現在毛利の押さえのために、境である
筑前に遣わされています。この事についても、宗麟公の御内意を知らない人は、当然の人事であると
考えているようです。ですが武勇に関して、道雪に劣らぬ人は、斎藤鎮実を始めとして、他の者を
遣わしても不足はありません、あれは道雪が近くにいることを、宗麟公が嫌がったため遣わしたのです。

吉岡宗観、臼杵越中が生きている間はお仕置きも良かったのに、両人が死んだ後は田原紹忍に仕置を仰せ付け、
国家は無道に成り、当家滅却の時期到来かと考えています。

島津中務(豊久)が籠もる高城を攻めている間は、諸軍は戦うふりもするでしょうが、城中難儀に及べば、
義久の大軍によって後詰めがあることでしょう。その時、当家六ヶ国の諸軍の旗色は心もとないものです。
あなた方や私は、ただ身の恥を悲しみ討ち死にするより他ないでしょう。」

これを聞いて斎藤は
「仰せの通り、今度の出陣は、義統公を始めとして当然相談のあるべき内容ですから、様々に申し上げたのだが
ご承知無く、誠にご運の末であるのかも知れない。こんな事を言えば、島津に怖気づいているように思われるかも
しれないが、弓矢の道において島津に負けるとは夢々思わない。さりながら宗麟公が天理に背いて居る。
その咎から逃れることが出来るだろうか。
その家が滅ぶべき前兆として、様々な事が乱れるものなのだな。」
そう、涙を流して悔やんだという。

(大友記)

大友宗麟の日向出陣に対しての、大友家重臣たちの反応である。
263 :
2016/10/30(日) 01:47:03.42 ID:jR8hTmlP
また先年、(武田信玄は)嫡男の武田太郎義信をも生害しなさった。

その理由は、義信が父を討って家督を取ろうという陰謀をしたところ、
これが信玄の耳に入り、さえぎって義信を牢者とし、しまいに義信は
毒物により相果てなさった。

さては、父を追い出し子を殺して、甥の氏真の国を奪い取ったので、
大悪行を為したと思ったのだろうか、何者の仕業なのか次のような
落書があった。

「子を殺し 親に添てそ 追出す かかる心を 武田とや云」

――『当代記』
264 :
2016/10/30(日) 02:33:47.44 ID:+J0gnCcp
猛だってこと?
265 :
2016/10/30(日) 23:52:44.11 ID:ky4QU8i1
慶長5年、真田安房守(昌幸)は下野国犬伏という所から引き返し、信州へと向かった。
その途中の上野国は徳川家の領分であったため、人数を連ねて通ることは出来ず、昌幸は
真田左衛門佐(信繁)、桑原若狭、佐藤軍兵衛の四騎にて上野国赤山の麓へかかり、夜を日に継いで
沼田へと到達した、

安房守は沼田へ行き、左衛門佐では沼田の町に火をかけ焼く恐れがあると、木村土佐という家老を
沼田に遣わし、安房守は沼田に参着した。

沼田は伊豆守(信之)の領地であるが、普代の所であるから、百姓たちは急ぎ城へ参り、
「大殿が突然こちらにお出でになられた!」と伝えた。
伊豆守内儀(小松姫)はこれを聴くと

「伊豆守は家康公の御供をして東に向かった。家康公は今頃下野におられるはずだ。であるのに
安房守殿が帰ってくるのは不審である。」

そう考え、留守居たちに「大手の門に寄らせてはならない!」と命じ、門を固めているところへ、
桑原若狭が表れ、「安房守様をこちらにお連れしたい」といろいろ申し上げたが、内儀は
「城口にも近づけてはならない!」と拒絶し、安房守は仕方なく、沼田の町にある正覚寺という
浄土宗の寺に立ち寄ると、そこに石庵という半俗の者が参って「伊豆守様はどうなさったのでしょうか?」
と尋ねた。これに左衛門佐が

「伊豆守殿は浮木に乗って風を待っているのだ。」

と言い放ち、石庵は、これは話にならないと座を退いた。

安房守一行は暫く休息を取ると沼田を通過する事にしたが、沼田の町は伊豆守の行方がわからぬと
大騒ぎに成っていた。この様子に左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」と安房守に
申したが、安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」と叱りつけ、その後は昼夜の境無く
上田へと急いだ。

この伊豆守内儀とは、本多中務(忠勝)の娘である。

(慶長年中卜斎記)

有名な逸話ですが、この慶長年中卜斎記だと真田信繁は何故か、
沼田に火をかけたくてしょうがなかったようですね。
266 :
2016/10/31(月) 04:31:00.45 ID:n0UEobMf
 宝台院前通の、常慶町教覚寺の話である。


権現様へ常慶と申す仏工が常に御懇意を蒙りいつも御前へ召されていた。
彼には御自像を彫らせ、その寺へ御安置もしたりした。
居間もその御像があるという。


 常慶は碁を嗜んでおり権現様は時々御相手されていた。
あるとき常慶がある提案をした。


「私が勝ちましたら、御頭を叩いてもよいですか」


「そのほうが負けたらどうするのか」


「私が負けましたら、再び御前に仕えません。」


結局勝負することとなったが、常慶が負けてしまった。
よって行方知らずとなった。
これからおいおい御尋があったがついに居場所が分からなくなった。


と寺では言い伝わっている。
(甲子夜話)
267 :
2016/10/31(月) 07:56:12.11 ID:0R+9GM9r
仕えているのが嫌になったんだな
268 :
2016/10/31(月) 23:09:10.75 ID:PVC4EiTg
>左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」
>安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」

草刈昌幸と堺幸村で見たかったなこのやりとり
269 :
2016/11/01(火) 17:53:18.23 ID:FXCUFiSz
慶長5年8月10日、会津・上杉征伐の途中、江戸にあった徳川家康はこの日、非常に機嫌がよく、
午の刻(正午ころ)に「鶴を料理しよう」と、鍋を持ってきてそれを火にかけ鶴鍋を作った。
前には本多中務(忠勝)、某、全阿弥の3人が呼ばれ馳走され、特に中務は暖炉裏の家康の
すぐ近くに座っていた。

この時、どこから到着したのか、いかにも細かく書かれた書状が家康に渡された。
家康はこれを読んで、誰へともなく呟いた、「伏見城が、落城した。」

そして西の方を見て、はらはらと泣き始めた。
本多中務はこれを見て、御前を走り出て、次の間に逃げた。
全阿弥も逃げ、某も逃げた。

その後家康は、「中務はいるか?」と思って探した所、殿中からそのまま宿舎の方まで退出したと
いうことであった。

(慶長年中卜斎記)

家康が鶴鍋を前に泣き出したら何だか知らんが忠勝はじめみんな逃げた、というお話
270 :
2016/11/01(火) 18:06:12.45 ID:rD+ufxCs
一体どんなめんどくさい泣き方するんだろ
271 :
2016/11/01(火) 20:00:44.57 ID:Iubn3vBM
忠勝が走って逃げるほどヤバい状況になったのか
272 :
2016/11/01(火) 22:42:42.41 ID:80crETN7
感情が昂って脱糞だろうな
273 :
2016/11/01(火) 23:21:48.40 ID:CJYMPgVy
そらもう、とりい乱しちゃうんですよ
274 :
2016/11/01(火) 23:28:30.91 ID:SYhha0a6
「卜斎記」といえば、
会津攻めの前、伏見城の千畳敷で家康が笑ってた話を思い出す
275 :
2016/11/02(水) 15:16:03.06 ID:Ih9U6azj
>>269
なんで逃げるんだよw気を遣ってさがったにしても逃げるって表記が面白い
276 :
2016/11/02(水) 15:27:11.53 ID:XeQ0r+Kz
>>273
評価する
277 :
2016/11/02(水) 20:54:16.38 ID:/RmjyhkS
>>273
やりおるのう
お味噌進呈いたす
278 :
2016/11/05(土) 01:14:15.22 ID:ueBpyrnR
氏家内膳宅趾

 領邑平戸城の西北一里余、神埼という山の北、海に向かった所の人里を離れた地に"あぼ"という名がある。ここには"どうこく"という所がある。
思うに人名で〔今文字が詳しくなく、ただその唱に依るしかない〕、今はその廃宅の跡がある。
宅の辺りには石垣がなお存在する。その渓間は小竹が生い茂り、人が窺う隙がない。
 さて近頃聞いた話では、この地は氏家内膳正(行広)が関が原の戦に利なくなった後に
西国へ下ったときにこの所に潜伏し名を変えて住んでいたという。
しかし大坂陣起こったときにこの地を去ってしまい、その跡がなくってしまったそうだ。
きっと大坂に赴き与したのだろう。この後廃宅となったと。

 案ずるに、『武事紀戦略考』に、
「九月十五日の暁、長束大蔵大輔正家、関ヶ原を落ちて大嶋にいると聞いて、
道阿弥が手勢三百ばかりで大嶋に押し寄せ、大いに戦った。
長束は敗軍して逐電した。〔大嶋は長嶋かた二十余町南北。〕
十六日、山岡はまた桑名に押し寄せた。氏家内膳正行広は和を乞うて城を渡した。
〔桑名は長嶋から二十四、五町南〕
それから山岡は、また神戸に赴いた。」
との記述がある。同書によると氏家常陸介入道卜全〔濃州大垣城主〕は、美濃斎藤家三人衆の一人であるそうだ。後に信長に従って、度々の戦功があったとか。
(『石卵余史』巻十には、
「桑名の城主氏家内膳正兄弟は、彼方此方に忍び、
後に御侘びすると口では言っても、内心は御憎み深く、
内膳正は池田輝政に、志摩守行継は福島正則に御預けられたが、
後に慶長十九年大坂陣の時内膳正も籠城した。その時は萩野信濃守と号した。」
と書かれている。)


『武功雑記』には、
元亀三年、信玄、遠江へ出張の条に、
「信長公から権現様へ加勢として、一番手平手中書(汎秀?)、二番手佐久間右衛門尉(信盛)
三番手大垣の氏家常陸入道卜全。」
と記述してある。卜全は思うに行広の父であろう。
(甲子夜話)

わざわざ平戸くんだりまで潜伏する氏家さん
279 :
2016/11/08(火) 06:43:10.14 ID:haaJnWgE
月次の連歌会があった。
宗長のおられる席の末座から弟子である人が句を詠んだ。
決まりに触れたこともなく、書記が記録している様子をみて
『さては今の句はよく出来たのだな』と思い、
気をよくして宗長に対して手をつき、

「どう聞こえましたか」

と問うと

「中々よく聞こえた」

と言われた。
しばらくたった後又一句詠んだ。
その句も記録されたので、ちと思いあがってまた手をついて

「どう聞こえましたか」

と言うと宗長は

「聞こえた。そこからここまでよ〜く聞こえた」

と返された。
(醒睡笑)
280 :
2016/11/08(火) 09:49:47.06 ID:4jJkcgOV
つまり「凡人」判定だったと?
281 :
2016/11/08(火) 20:32:26.56 ID:ZmqVOuEJ
天正15年、伊東祐兵は豊臣秀吉より飫肥を拝領したが、島津家の将である上原長門守(尚近)は飫肥城から
退去せず、引き渡そうとする気色もなかった。

伊東家はその年の8月初めより川崎又右衛門尉を大将、川崎宮内左衛門尉を副えて郷原水城に陣を取り、
上原を説得したが、彼はこれに従おうとせず、あまつさえ8月10日には軍勢を出して、郷原において
苅田を行った。

伊東勢もこれに打って出て、飫肥城勢を広木田まで追い詰め、大勢を討ち取って引き上げた。しかし味方にも、
桜木藤七兵衛尉、海老原清左衛門尉の両名が討ち死にした。

この事は豊臣秀吉に報告され、秀吉は早速、土井九右衛門尉を上使として飫肥に差し下した。
土井九右衛門尉は豊臣家の朱印を持って、同年12月13日、飫肥に到着した。
彼は上使であったので一の城戸を騎乗のまま乗り通り、二の城戸まで乗り通ろうとした所で、
上原の門卒たちが「乗打無礼なり!」と腹を立て、九右衛門尉を始めとしてその一行のうち13人を
惨殺した。その時は伊東家からも、平原河内守、松浦甚助が案内者として同行していたが、平原は
殺され、松浦は生け捕りにされ、のちに解放された。

上原長門守は門卒たちの濫妨を聞いて驚愕した
「上使を殺した罪は逃れがたい!お前たちは私の首を斬ったのと同じであるぞ!」
そう悔やんだが及ばず、程なくこの事件は秀吉に聞こえた。

秀吉は激怒し、即座に上原長門守を召喚した。
上原は、とても逃れられないと思ったか、嫡子城之介を名代として大阪に上らせたが、上使を殺した罪により、
この嫡子が斬罪となった。
飫肥城は天正16年閏5月3日、伊東家に引き渡された。

(日向纂記)

島津家の上原尚近、よりによって秀吉の上使を無礼討ちにしたというお話。
282 :
2016/11/08(火) 23:42:29.86 ID:RvUCPlAS
息子を斬らせて助かるなんて…
283 :
2016/11/09(水) 04:27:01.27 ID:LHaGcvNP
???「子供なんていくらでも産めばいいのよ」
284 :
2016/11/09(水) 04:55:48.51 ID:oIThLz4f
何そのカテリーナ・スフォルツァ
285 :
2016/11/10(木) 11:25:31.29 ID:K23paop2
芸州寂静寺デイウス画像の事

 寛政己酉(1789年)、予は東勤のとき、安芸の怒田本郷駅に宿泊した。
この所に寂静という親鸞宗の寺がある。
予の医者がここに宿泊したときに、その住職が語った話である。

 寛永の肥前天草一揆騒乱のときにあたり、ある僧がどこからとなくこの所に来て説法講談した。
聴者の群集は日ごと多くなった。
ある時にその僧はついに耶蘇の法をすすめ、信じる者が多くなったので、
領主からかの僧を捕らえ、東武へ連れて行ったそうだ。

 かの僧が置いていったデヰウスの画像が今も本郷禅宗の寺にあるという。
この事を語った僧も見たそうだ。
その像は阿弥陀のようで威霊があったと。
奇聞である。

 天草に凶徒蜂起のとき、安芸にこのような事があったとは
世人に知らないことである。
(甲子夜話)

デウス像見たいなあ
286 :
2016/11/10(木) 23:19:34.25 ID:K23paop2
摂津国高槻の城主である和田という侍。
信長公の御前で出世し出世頭となった。


信長のきてはやぶるる京小袖     わたがさしでてみられざりけり

信長から貰ったため着過ぎて破れてしまった京小袖 
綿が出てきて(和田が出しゃばって)見られないものになってしまった
                                  
(醒睡笑)
287 :
2016/11/11(金) 02:18:29.80 ID:1jlJkqVM
今日は鮭の日なので、鮭様関連の話を一つ

※原文準拠

最上駿河父之遺跡を受て後

駿河守家親(最上家親)父の遺跡を受て後 日々に花車を好み 双六鞠俳諧に日を送り 殿宅に金銀を鏤むを 諸人諌めける
昔時源頼朝公政道正敷諸士に情深かりしが共 御子右衛門督頼家政道宜しからず
終に弟の実朝に殺れ玉ひ 実朝は頼家の子悪禅師公暁に討れ 頼朝父子三代治世纔四十余年にして亡びぬ
是頼朝平家を亡さんと多くの人の命を断し故 其積悪子孫に報ふて断絶せり
去れば義光も頼朝の如く政道正敷 万民に情深く 寺社を敬ひ其領を寄付し 古今に稀なる大将と云へ共
以謀略多くの領主を打亡 栄花身に余ると云へ共 其積悪子孫に報ふて 源五郎(最上家信=最上義俊)殿御代に至て没落せり
彼頼朝父子の古へに不異
家親御行跡宜しからざる由 三浦上総助御諌言申ければ 御腹立有て終に切腹被仰付けり
延沢能登守(遠江守延沢光昌の誤り)楯岡甲斐守(楯岡光直)御一門顔にして御異見無れば 最上家の家の可亡時節至来と見へたり
去れば聖人禍福将に至らんとし善必先知之 不善必先之を知と云り
孔子も国家将に興らんとし必禎祥有 国家将に亡んとし必妖□(けつ=草冠に辟)有と 云り

「信辮手記」等
288 :
人間七七四年
2016/11/12(土) 12:45:58.55 ID:ase/33+1
さて、どんな悪い話になるのかw

http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=422388

【お知らせ】歴史秘話ヒストリア「最上義光と義姫(仮)」

歴史秘話ヒストリア「最上義光と義姫(仮)」

NHK総合テレビジョン

放送予定日 平成28年11月18日(金)20:00〜20:43
※北海道→11/26(土)10:05〜10:48
※福島県→11/27(日)13:05〜13:48
※高知県→未定


「戦国一のワル?最上兄妹の素顔」

戦国一「邪悪」と言われた山形の武将・最上義光と妹・義姫。
しかし新たな史料からその素顔が明らかに。
大河ドラマ「真田丸」と同じく家族・故郷を大切に生きた武将の物語。

NHKオンライン「歴史秘話ヒストリア」より
2016/11/10 10:00 (C) 最上義光歴史館
289 :
2016/11/13(日) 00:58:06.85 ID:ixMh2+he
イスラム人種差別→撤回
オバマ批判→会ったら丁寧

大統領選までの言動が大人の対応に変わっとるトランプって
斎藤道三に会いに行ったときの織田信長みたいだよな
290 :
2016/11/13(日) 23:27:31.06 ID:2jXX2utE
支持者は納得してないだろw
291 :
2016/11/14(月) 00:55:44.29 ID:5M7DLXjN
?東寺観智院密教御朱印の事


 東寺の観智院に、真言密教の疏が百冊入っている箪笥が五百あった。
神祖の命があり
「密教なので門外不出にするべし。
ただし高野はその本なので、ここには送るべし。」
との御書付が今も有るという。
またこの経疏により永伝の料として別に五百石の御朱印を下されたという。
これは普門律師(円通)の語ったことである。

 どうして神祖の御事は何もかもこのように広大なのかと敬感される。
しかし律師が言うに
神祖の命もこのようであったが人情は釈徒も同じことで、
東寺はついに高野に送らず今に及んでいるとのことであった。
(甲子夜話)


東寺と高野山の仲がちょっと悪い話
292 :
2016/11/14(月) 20:19:39.54 ID:C207vzPJ
高麗の役の時、太閤秀吉は肥前名護屋に御座し。加藤清正は高麗へと派遣された。
この頃、肥後と薩摩の国境に佐布という城があった。清正はそこに、加藤与左衛門という者を
置いていたが、この時は与左衛門も清正に従い高麗へと赴いた。

その後に、薩摩の地より一揆が起こって、この佐布城を乗っ取った。
一揆の大将は梅北宮内左衛門(国兼)、東郷甚右衛門という者達であった(梅北一揆)

しかし佐布城には留守居として、井上弥一郎、酒井善左衛門という者が残されていた。
彼らは謀って一揆の大将を討ち取り、城を取り返した。これは天下無双の功名であった。
この一揆が起こったゆえに、秀吉の高麗行きも中止に成った。当時それほどの大事件だったのである。

井上、酒井には殊の外の褒美、感状が下された。
井上弥一郎は肥後にあって知行千石。肥後加藤家改易のあとは、青山大蔵の元で隠居分となり、
その子に三百石が与えられた。最近になって死に、今は孫の代になっているという。

実は太閤秀吉は井上、酒井の功を感じ入り、さらに高い知行を与えようとしたのだが、
これは石田三成が遮って止めたという事である。

(老人雑話)
293 :
2016/11/14(月) 22:28:59.24 ID:+JFwenuX
全方向に敵を作るスタイルの三成www
294 :
2016/11/15(火) 10:02:08.52 ID:BlZItxjU
うわあぁ
295 :
2016/11/15(火) 11:02:07.77 ID:VCJjAYaY
元々加藤を敵に回してるんだからその手下くらいなんでもないんだろ
296 :
2016/11/15(火) 11:46:41.33 ID:746nQs1x
この程度で天下の大事だったら九州で一揆起こし放題だな
三成はたいしたことねーよと言ってこれ以上の内乱をおさめたのさ
297 :
2016/11/15(火) 11:52:10.79 ID:VCJjAYaY
乾煎り中の秀吉名護屋在陣のときに九州で大規模な叛乱あったら大事だと思うが…
298 :
2016/11/15(火) 14:30:49.92 ID:zN7Iv9r2
戦国時代の武将って結構妖怪と遭遇するよな。
政宗座敷童子、家康肉人とか
299 :
2016/11/15(火) 16:08:51.54 ID:8GREXPLx
肥後の北側を清正が、南側を行長が統治してたって認識だったんだけど
薩摩に近い佐布は清正が統治してたの?
300 :
2016/11/15(火) 16:37:19.62 ID:746nQs1x
>>297
その一揆が契機となって大規模な物へと発展することはあっても二人で鎮圧できた一揆なんて大したことないよ
そんなんで褒美与えてたら急所を敵に知らせるようなものです
301 :
2016/11/15(火) 23:04:18.80 ID:02+9kijt
甲州伝目つぶし之法?活薬


 会談で、小幡勘兵衛景憲かた伝わる目つぶしの法として聞いた。

『蛍火 山蔭のたにし 青とかげ ムカデ 馬の目〔馬の目をほりとったもの〕
各等分にして卵の中皮?に入れる』

 これは大いに験がある。投げて胸や四肢に当たればそのところはたちまちしびれて、
手は揺らすことができず、胸は気が塞がって身を動かせない。
また鼻口に当ればすぐに絶倒するという。

聞いた話だが、これも甲州の伝で基本信玄から出たものだという。
信玄は毒矢を用いたことはこれと似ている。
またこれに遭った者のための活薬がある。

『塩 ひき茶』

この二物をといてその当った所に塗れば、すぐにその毒気が散って動揺が生じる。
また絶倒したら湯を加えて服させたら回復するという。
(甲子夜話)


信玄がなぜ塩を断たれたら困るのかが分かりますね〜
302 :
2016/11/16(水) 08:38:58.73 ID:GV3HsWUU
気持ち悪いものを投げて当たったら塩と茶を塗れとか
小学生かっ
303 :
2016/11/16(水) 11:16:58.83 ID:LWmC7QHM
        ::::::::::::::::∧口∧   そうやってなんでも
        ::::::::: ( ::;;;;;;;;:)      信玄の発明にしてりゃいいさ…
          _..  /⌒:::;;;;;ヽ
-― ―'ー'-''―-''/ / ::;;;;;;;;:| |―'''ー'-''――'`'
 ,,  '''' .  ''''' と./ゝ_;_;_ノヽつ   、、, ''"        
    ,,, ''  ,,,    ::;;;;;;;;;::: ,,  '''''  ,,,,  
304 :
2016/11/16(水) 16:34:37.11 ID:WRGo2PvK
いい話の方で軍記物の話が出てましたが、やっちゃった感について一例を。

1609年の薩摩の琉球攻略についての軍記物を「薩琉軍記」と総称して研究が進められていますが、
そのうち、目黒将史「架蔵『島津琉球合戦記』解題と翻刻」から。(PDFで閲覧できます)
某板某スレで火葬戦記と評されていましたけれども、これは酷いw

琉球は基本的に異国・異世界扱いで、三国志演義の南蛮討伐と世界観が同じようなものですね。
実情はともかく、日本でイメージされていた講談での中国世界そのまま。

島津勢の総数が10万5873、これがまた一々武将名と軍役を挙げてディテールに妙にこだわってる。
対する琉球は高さ34丈の城門など、4里四方の王都に3万騎の軍勢で守備し、もちろんその他にも
相当数の軍勢です。

戦の展開はもうどうでもいいようなもんだけど、戦後の論功行賞で、薩軍が討ち取った首級が2万9307、
損害が1843とか。

数のインフレも異世界だとあんま難しいこと考えないでいいのかなあ。

立教大学学術リポジトリ  目黒将史 架蔵『島津琉球合戦記』解題と翻刻
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6639&item_no=1&page_id=13&block_id=49
305 :
2016/11/16(水) 16:36:05.72 ID:WRGo2PvK
実際の薩摩の琉球攻略の研究では、沖縄の研究者によって最近いろいろと本になったり、歴史雑誌に載せられたりとありましたが、
実のところ史料の扱いに疑義が呈されていたりしますんで難しいものですね。
306 :
2016/11/16(水) 18:04:58.30 ID:1rlij8XH
>>304
ちょうど今、沖縄に住んでるので興味深いです。
薩摩藩の琉球侵攻についての入門書的なものご存知でしたら、ご教授いただけませんか?
307 :
2016/11/16(水) 19:20:28.25 ID:cznpWbrV
いまの沖縄の人の研究話はそれこそフロイスと同じで話し半分で聞く程度でしかないんじゃ
308 :
2016/11/16(水) 20:17:46.41 ID:LDUIBqx2
>>306
とりあえずこれが一番いいと思う

琉球王国と戦国大名 島津侵入までの半世紀
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b214961.html
309 :
2016/11/16(水) 20:19:47.78 ID:Iqooltxr
>>306
まず読むならばこれでしょうか。

上里隆史『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』

著者の出世作で、島津の琉球侵攻が注目される嚆矢ともなりました。
ところが、戦時の当事者の書いた一次史料だけではなく、後になって政治的思惑や顕彰目的で書かれた文書まで
無批判で取り入れているんじゃないかとの批判が出てきました。

琉球王国〜その真実の歴史
http://blog.livedoor.jp/neoairwolf/
それを検証したのがこちらのサイトですが、管理人はかなり基地外入った人(本人が自称してるから構わんでしょう)
ですけれども、その論考は確かな説得力があるので評価を得ています。
上記の本を読んでから、サイトに目を通して見ればいいと思います。

それに補足して、>>308も目を通しておけばいいんじゃないでしょうか
310 :
2016/11/16(水) 23:35:16.70 ID:7/SL5c8d
島津の琉球侵攻って
琉球王朝が元亀年間に奄美に侵攻した逆襲じゃないの?
311 :
2016/11/17(木) 07:51:37.39 ID:GDJQT7/A
>>310
そりゃ反応遅すぎだろ
312 :
人間七七四年
2016/11/18(金) 00:02:23.28 ID:gKlDuncp
天吹(テンプク)という薩摩で伝承された縦笛があり、薩摩の武士の間で大いに愛され、吹かれていた。
名称の由来は、大祓いの祝詞「天の八重雲吹き放つことの如く」からきているとも言われている。
一番盛んだったのは、戦国の頃といわれ、戦国ちょっといい話・悪い話まとめ にも
島津の退き口と北原掃部 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5053.html
天吹についての話が載っております。今回は細部が少し違うバージョンを紹介します。

関ヶ原の合戦に島津方として参加した武士に北原嘉門助をいう者がいた。
島津の退き口の際に、家に代々伝わる天吹を陣中に置いてきた事に気付き、
「このまま置いていっては先祖に申し訳がたたぬ」と彼は天吹を取りに戻りますが、
東軍の兵に捕らえられてしまいます。
「何故、戻ってきたのか?」と問われ「笛を取りに戻ってきた」と答えると
「薩摩にもお主のような軟弱な者がおるのか」などといわれ、首をはねられることと
なってしまいましたが、
「この笛を取りに戻ってこのようなことになったのだ、せめて最後に一曲吹かせて欲しい」と言い
天吹を吹くと、その音色と北原嘉門助の堂々とした態度に東軍の者たちは感嘆し、
首を刎ねる事もあるまいとの意見が出てきました。
このことを知った徳川家康の側近の山口直友は「このような者を死なせるには惜しい、薩摩に戻して
やってもいいのでは」と考え、家康に進言しその結果、北原嘉門助は薩摩に戻ることが出来、
彼の命を救った天吹は「助命器」と銘打たれて大切に保管されたという。

・・・これで話が終われば好かったのだが、薩摩に戻った北原嘉門助は
「自分は首を刎ねられるはずだったから」と切腹して果ててしまいました。
一方「助命器」の方は江戸末期までは大切に保管されていましたが、明治になり北原家に
嫁いで来た若奥さんが、ごみと間違え燃やしてしまうという悲しいことになっていました。

※鹿児島市の城山にある西郷隆盛像と忠犬ハチ公像(初代)を手がけた安藤照氏の母方の実家が
北原家になります。(忠犬ハチ公像(2代目)を手がけたのは息子の安藤士氏)

(「明治維新150周年まであと2年!薩摩アフタヌーンティーパーティ」というイベント内で
あった「薩摩の楽器「天吹」700年で知る島津の歴史シンポジウム」での話より)
313 :
2016/11/18(金) 01:20:52.31 ID:43f1UwnJ
島津の琉球侵攻と関係ないけど小説の琉球処分は面白かった
著者が琉球政府、沖縄県庁の経済や歴史編集役人を経て沖縄県立博物館長だったので
太政官政府より琉球寄りかもしれないが冒頭は寺田屋事件生麦事件に関係した
奈良原繁が琉球へ赴いたことも書かれており面白かった
もっとも幕末の奈良原繁のことは触れず官吏としてしか書かれているに過ぎないが
314 :
2016/11/18(金) 09:14:27.63 ID:JKeteUbK
>>312
なんというまさにちょっと悪い話
やっぱお宝というものはものものしい器に収めとかないと駄目ってことね
315 :
2016/11/18(金) 17:02:34.45 ID:865MJPbR
>>312
せっかく拾った命を捨てた過ちを燃やして浄化されたのだ
316 :
2016/11/18(金) 18:22:17.68 ID:iAUdVKIa
皆様、情報提供いただきありがとうございました。
ご紹介いただいた書籍やウェブサイトに目を通していきたいと思います。
317 :
2016/11/18(金) 19:46:27.75 ID:7E1FHg/r
宇喜多殿というのは、元来備前の武士であった、当時は浦上という者が備前美作領国の主人であり、
宇喜多直家は浦上の家臣であった。しかしこの直家は悪性の人物で、国郡を持つ人と縁者などに成り、
後に殺して奪い取ることを度々した。浦上も殺して、遂には備前美作の主となった。

八郎殿(秀家)はこの宇喜多直家の子である。太閤秀吉と親密な関係に成ったのは、秀吉が備中高松の
城を攻めていた時、明智反逆の事が知らされたが、引き取りたいと思っても自由にならない状況であった。

この時、八郎殿が秀吉に一味して力を合わせた事で、秀吉は高松の城主に腹を斬らせ、その上で
巻き返して上京出来たのである。

この忠功により両者の関係は良く、秀吉は彼を聟に取った。しかし秀吉に娘はなかったので、
前田筑前守(利家)の息女を養子にして、八郎殿を聟に取った。

但しこの時分、八郎殿はまだ10歳ばかりであった。直家も当時まだ生きていたと言うが、瘡毒のため
人前に出ることも出来ず、八郎殿を国主分としていた。
そしてその下には、五万石、三万石といった大きな所領を有する家老たちがあり、彼らが談合して
高松の時も秀吉に味方する方針を決定したのだという。

八郎殿は太閤秀吉の聟と成り、また官位も上がり、宇喜多中納言殿と呼ばれた。
しかし治部少輔乱(関ヶ原の役)に至り、彼は治部方であったため、東照宮(家康)の勝利にて
この乱が終結すると、八丈島へと流された。そして今もまだ生きていると聞いている。

これは老人(江村専斎)が癸卯の年(1663)、九十九歳の時に語られた話である。

(老人雑話)

宇喜多秀家は1655年に亡くなっているので、その部分は正確ではないのですが、
当時の江戸でも「宇喜多中納言ってまだ生きてるらしいよ」「すげー」みたいな話題のネタに
なっていたのでしょうね。
318 :
2016/11/18(金) 21:03:28.64 ID:865MJPbR
>>317
どこのアーサー王だw
319 :
2016/11/18(金) 21:06:53.08 ID:Limq/1QQ
さっきまでやっていたヒストリアが「戦国一のワル」の回だった
このタイトルで松永や宇喜多じゃなく、最上義光回だったけど
目新しいネタはなかったな
320 :
2016/11/18(金) 21:58:59.29 ID:gql9sLLB
>>317
泳いで参った!の伝説もあったんだろうか
321 :
2016/11/18(金) 23:33:46.68 ID:Ad/x7wny
2ch発祥ネタじゃねえか
322 :
2016/11/19(土) 00:10:42.32 ID:QQzb0Sra
(慶長19年12月、大坂冬の陣の時、)14日卯辰刻より、また雨。晩から
風は激しく、寒さは甚だしかった。

藤堂和泉守(高虎)を敵も味方も憎んだのであろうか。色々な悪口をある時
は言い掛け、ある時は矢文を射ていた。件の矢文は他の陣に来たとしても、
藤堂の陣へとこれを送ったという。

(藤堂和泉守を敵味方惡之歟、色々の惡口を或時呼、或時矢文を射ける、
件矢文餘陣に来とも、藤堂陣に送之と云々)

――『当代記』
323 :
2016/11/19(土) 04:38:09.49 ID:EgHEZ3Hh
裏切りものだからかな?
324 :
2016/11/19(土) 17:54:19.84 ID:Qu1Fqqy3
>件の矢文は他の陣に来たとしても、藤堂の陣へとこれを送ったという。

ちょw
325 :
2016/11/19(土) 18:22:16.97 ID:yU1LQAy1
>>322
冬の陣の時で藤堂家の付近の陣だと伊達家と松平忠直かな
326 :
2016/11/20(日) 00:16:12.28 ID:u73Z9G9W
城地革変甲冑論


 林子(述斎)曰く、
城地はその時代により移り行くものなので、作り替えねばならぬ物であるという。
山城などは水地と違い地勢もかわらないが、その時の敵のある所で用不用がある。
例えば、照祖(家康)が三遠におわしました時は、
金谷駅の上にある諏訪原(牧野原とも言う)の城は真の要害であった。
これは甲州の押さえの為であった。
甲州が亡んだ後はこの城は用が無くなったので廃城となった。
世人はこのような訳も知らず、深い考えもなく、
「あの所の古城跡は天険の地なのに、なぜ廃したのか?」などと言い出すのは笑ってしまいそうだ。

 また慶長中、伏見の城を淀に移されたのは、その頃淀川の水道が今と違い、
城からの川の水位は低く、水車で城内へ水を汲み入れていた。
百余年を経て川床が高くなり、水車は景色ばかりとなって実用すること無くなり、
出水ごとに、淀城はいつも氾濫の患を被らないことはなかった。
これは河道の変化によるもので、城築の時の地勢によるものではない。

 古今の変化に通じなくて、城の利不利などを評する人が往々にしている。嘆くべきことだ。
その他に海を要害にした城だったが、今は海があせていつのまにか田となったものもある。
また、城門の前の間地も、後に間近くに家を建て列ねているものも多い。
これらは事に臨むときに身を滅ぼす元ととして成る程便利であろう、と林子は言われた。
西方への旅行の時、諸国の城地を目撃して意中に心得がたいことが多かったのだろう。

 そもそも城のみでなく、着具なども同じことである。
先祖の具足と貴び所蔵するのはいい。
それを自分も着るものだと思う輩がまた多い。
そもそも人に大小肥痩があるので、今に当たって自分が用いる乳縄(※胴の乳の辺りの寸尺)
で製作しなかったものは用に立たないものだ。

 私は若いときは痩せて、中年から肥えた。年少の時の乳縄は今とはかなり違う。
一人のものでさえこのようなのだ。
これらは分かりきっていることなのに心にも付かず、着具を作り変えることも知らないまま、
いたずらに月日を過ぎる武家は実に太平の余沢に豊かに過ごしているといえよう。
(甲子夜話)


こういう「当時と地形が全然違うだろ」って突っ込みが頭の中にあるから
あんまり古城めぐりには乗り気ではないんですよね
327 :
2016/11/20(日) 09:56:03.54 ID:sN07tgQU
郷里で再会した同窓生の嫁をみて、伴侶とした理由を聞くようなものですねw
328 :
2016/11/20(日) 14:25:06.85 ID:FttclQe/
>>326
クラウドファンディング「そんな貴殿にVR、当時の地形も再現致しますぞ」
329 :
2016/11/21(月) 02:57:40.45 ID:BF3y+tQK
この夏(慶長13年)、麦は豊年だった。ただし、関東の麦は凶年だった。

奥州南部に金があるということで、金掘りたちが、その山に佐渡国から下って来た。
初めは際限無く金が出たのだが、そのうちに出なくなった。

再び金堀りたちは松前に下った。松前の主(松前慶広)は、かの地は兵糧が乏しい
ため、それ以来「飢饉の兆しである」として、「(金掘りは)許容できない」としたという。

――『当代記』
330 :
2016/11/22(火) 02:53:22.29 ID:eiEjYzgS
この春(慶長13年)、小人島の者であるとして、京都にて
鼠戸を結び(見世物小屋)、代金を取って人に見せていた。

たとえば日本人であれば、5,6歳の童ほどの身長だった。

――『当代記』
331 :
2016/11/22(火) 04:09:59.97 ID:3KIFCoH1
近親相姦してたらおかしなのが生まれるよね
天皇家が最たるものだし
332 :
人間七七四年
2016/11/23(水) 08:51:29.00 ID:RkWuuHXG
隆元と元春(1) 槌山攻めにて隆元激怒の事


天文20年(1551年)、陶隆房が大内義隆に謀反し大寧寺の変が勃発。安芸の国では陶の依頼を受けた毛利元就が義隆派の平賀隆保が籠る頭崎城を落とし、更に隆保が逃げ込んだ菅田氏の槌山城を息子の隆元と吉川元春率いる4000の軍に攻めさせた。
隆元は抜け駆け禁止令を出し、これを破る者は例え抜群の戦功を上げても厳罰に処すと固く命じた。
隆元麾下の吉田勢はこれを守り抜け駆けをする者は居なかったのだが、元春率いる新庄勢の若者達はこっそり抜け出すと敵城の切岸を登り矢戦を始めた。
敵も応じて矢を散々に射かけ、新庄勢は怪我人が続出して寄手はたちまち劣勢となる。
隆元は坂新五左衛門を元春の元へ遣わし、
「お前の兵が抜け駆け禁止令を破って戦を始めている。まったくどうしようもない。
残らず捕らえて首を刎ねよ」と殊の外に激怒した。
元春は新庄勢に「早く引き上げるように」と何度も下知したが、
新庄勢は敵と真っ向から取り結んでいるので、引き返しようがなかった。
333 :
人間七七四年
2016/11/23(水) 08:55:15.20 ID:RkWuuHXG
この時、元春は陶から贈られた近江黒と言う馬に跨り矢戦を見物していたが、戦気に当てられたか、近江黒が逸るので二宮杢助(俊実)に近江黒の口を抑えさせていた。
元春は二宮杢助に「お前行って味方を引き上げさせて来い」と命じ、二宮は「かしこまりました」と、鑓を持った小者一人連れ駆け出して行くと、途中60ほどの兵と率いた味方の安国紀伊守とすれ違った。安国は
「これは二宮殿。我らも一競り合いしたく思って駆けつけましたが、
敵が猛勢で合戦を待ち望んで待ち受けておりますので、この少人数で不利な戦を仕掛け、
敵に利するよりはと、引き退いておりました。
二宮殿も小勢のようですな。早々にお引き取りください」と言った。
二宮はこれを聞いて、
「吉川の手の者は、敵が大勢であっても引き返すことはありません。
好機を見計らって一合戦してきます」
と言い捨てて味方のもとに駆けつけていった。
二宮は味方を引き上げさせることなど念頭にはなく、逆に
「皆よく狙って鑓の者の脇を射抜け。一合戦してやろう」と味方を勇気付けて、
後に続く勢を今か今かと待ち受けた。
すると藪の中から粟屋弥七郎がつっと走り出てきて、
「来たな杢助。私も先ほどから一競り合いしようと味方が続いてくるのを待っていたのだ。
よく来てくれた。嬉しいぞ。
さあ、勇気を出して心を合わせ、一合戦しよう」と言う。
二宮も「それがいい」と、真っ先に立って攻め上った。
そこへ抜け駆け禁止令を守っていた吉田勢から楢崎市允・波多野源兵衛尉・尾崎新五兵衛尉・赤川源左衛門・桂善左衛門・福原左京などがこっそりと駆けつけてきて、後に続いた。
忽ち乱戦となり、二宮・粟屋ら抜け駆け毛利勢は奮闘の末に傷付きながらも城方の菅田三郎左衛門を討死させる功を上げる。


なお、この矢戦では槌山城は落ちず、隆元の怒りは止まなかった。
334 :
2016/11/23(水) 10:20:45.99 ID:l4Jdq11w
お兄ちゃんの面子丸潰れ
335 :
2016/11/23(水) 10:38:14.04 ID:TQklu1C2
抜け駆けはギャンブルだからね〜成否が士気にかかわるのよ
336 :
2016/11/23(水) 14:33:01.39 ID:h9ZIC5Bw
受け流せればいいけど隆元のストレスが凄そうだ
337 :
人間七七四年
2016/11/23(水) 15:17:04.05 ID:88DTlVBL
>>336
先にバラしておくと、この抜け駆け禁止令違反者の処分で意外なところから追い打ちが来る
338 :
2016/11/23(水) 15:51:33.76 ID:crbvyM3Z
てか、大内攻めじゃん
お兄ちゃんのストレスはそれだけでヤバイだろ
339 :
2016/11/23(水) 15:56:49.00 ID:4exxIwvo
ボスの鶴の一声でフィニッシュ
340 :
人間七七四年
2016/11/23(水) 19:41:46.65 ID:88DTlVBL
>>338
ひょっとすると、隆元は無理攻めせずに降伏させて助命する気だったのかもね
入れ違いだけど平賀隆保はYSTK様の寵童仲間だし
341 :
2016/11/23(水) 22:10:29.64 ID:gNTnZHYo
またホモか…
342 :
人間七七四年
2016/11/23(水) 22:26:26.85 ID:88DTlVBL
>>341
そりゃあもう、中国北九州界隈で義隆の元に人質でいた上に名前に隆の字貰ってる辺りの武将は大体…
343 :
2016/11/23(水) 23:09:07.43 ID:gNTnZHYo
大崎義隆 蘆名盛隆 「俺たちはセーフだな!」
344 :
2016/11/23(水) 23:46:02.15 ID:fRWdHM4A
そりゃそうだろとしか
345 :
人間七七四年
2016/11/24(木) 14:09:02.66 ID:BJS/7tYa
隆元と元春(2) 抜け駆け禁止令違反者の処分の事

>>332-333の軍令違反者による合戦は毛利方に大勢の手負いを出したものの、二宮・粟屋らの奮戦により敵方も城主、菅田一族の者が討死するなど両軍とも進退極まり兵を収めた。
普段ならば隆元や元春が士卒の功を称し、負傷した者の元を訪れ涙ながらに傷を撫でてくれるのであるが、今回は固く定めた軍法を破ったが為、労いの使者すら送られてこなかった。
一方、元春は隆元の元へ宮庄次郎三郎元正を使者として遣わし、この度の軍令違反者についてこう述べさせた。
「今回、我が手の者どもが軍法を破り、一戦を遂げました。
これにより味方は九十六人も手負いが出て、
そのうちの綿貫兵庫助と申す者が討ち死にしました。
このくだらない合戦を仕掛け、味方に多数の負傷者を出したのは、
粟屋・二宮の責任が大きいので、即刻首を刎ねなければなりません。
しかし、一歩引いて愚案を巡らせるに今回は陶と一味して初の戦となります。陶にその証を立てる為にも一戦交えるのが良かったのではないでしょうか?
そのうえ、元就公のご出馬がなく、隆元公と元春の二人が出てきています。
若い隆元公に私のような者がお供して、大将を名乗って打って出ていますので、
一戦しないのもいかがかと思います。
ですから今回は、どうかお許し願えないでしょうか」と再三申し入れた。
しかし隆元は
「そのように聞くと、確かにそのとおりだと心を緩めたくもなる。
だが固く制定した軍法に背いたのだから、これからの諸卒への見せしめのためにも、許すことはできない」と返答した。
これもまた道理なので、元春もどうにもできず、その後は何も言わなかった。

また、隆元と元春は武永四郎兵衛尉を父元就の元へ遣わしこの日の戦を報告させた。
元就は武永と対面すると、「詳しく様子を報告してくれ」と言い、武永は粟屋・二宮の鑓働きの様子やそのほかの諸卒の働きを細々と語った。
元就はすっかり上機嫌になって「お前たちはその戦場には行かなかったのか」と尋ねると、
武永は「私も及ばずながらそこに駆けつけ、鑓の者の脇で弓を使って補佐していましたが、
軍法を破る行為でしたので、隆元様・元春様のご機嫌を損ねてしまいました」と答えた。
元就様は愉快そうに笑うと、「軍法を破ったことは不義の至りだが今回は陶に一味してから初めての出陣だ。
陶との同盟の証拠として一合戦しなければならないところだ。
その若者たちは、よくそこに気がついて一戦してくれた。
粟屋の怪我は深いのか。二宮はどうだ」などと詳しく尋ね聞き、
武永にも盃を与えて褒美を取らせた。
元春への返事にも「今回は陶に一味した証拠に、それらしい合戦をしなければならかなった。
そこに御手の衆が比類なき働きをしてくれたのは、
今に始まったことではないとはいえ神妙の至りである。
戦功の軽重をただし、勧賞を行ってやりなさい」と送った。
これで、昨日合戦をしでかした者たちも胸を撫で下ろしたということだ。

この時、総大将の隆元が何を思ったかは誰も知らない。
346 :
2016/11/24(木) 14:14:06.21 ID:8D69oZrn
自殺したくもなるね
347 :
2016/11/24(木) 14:52:23.92 ID:sw+eGJaZ
>>345
元春と元就の言い分が全く同じとか、お兄ちゃんの立つ瀬がねえw
348 :
2016/11/25(金) 03:24:07.43 ID:TdsZYUS0
(慶長13年12月)三河国足助山家代官・三宅辰介親子3人を生害なさった。

知行の年貢の使い込みがあったことにより、さる夏中から押し込めなさった
のだが、いまこのようなことになった。

嫡男は近年、大御所(徳川家康)の小姓をした近習であった。美男であり、
とりわけ心を選んで神妙な者であった。上下の輩とも、彼を惜しんだ。

――『当代記』
349 :
2016/11/25(金) 08:13:50.14 ID:MC95tTf0
寵童どもの争い
350 :
2016/11/25(金) 20:57:09.54 ID:r/GIlCri
山形市 最上義光歴史館
大崎夫人の五輪塔
http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=423154

平成26年7月、神奈川県川崎市にお住まいの女性から一通の封書が届きました。

封書には巨大な五輪塔と地輪に刻まれた銘文の写真、そしてそれに係る様々な資料が同封されていました。

巨大な五輪塔の写真は山形県寒河江市の正覚寺にあるもので、最上義光の正室大崎夫人の供養墓という
伝承が広まっているものでした。

寒河江市史をはじめ、近年発刊された最上義光に係るさまざまな書籍にも、最上義光の正室大崎夫人の墓所が
寒河江市の正覚寺であるように紹介されています。

封書を出された方のお話では、ご先祖さまが慶安四年に「光誉明月」という女性の三十三回忌の供養のために
建立したものであるのに、いつのまにか大崎夫人の供養墓として語られ、大変迷惑している。ぜひ相談に乗って
もらいたいというものでした。

大崎夫人に関しては様々な伝承がありますが、いまのところ確かな記録がありません。菩提寺も墓所もわかりません。
もしかすると京都にあるのかもしれません。

大崎夫人の菩提寺=正覚寺…いつの時代にこのような伝承が生まれたのでしょう!?
351 :
2016/11/26(土) 00:03:56.94 ID:XVutE/OC
小倉侯数具足の由来

 当年(天保五年、1834年)二月の火災で、両国橋向こうの小倉侯の別荘で具足のいくつかが焚亡した。
この具足というのは、往年の福島氏が改易されたときかの家の物が散逸していたのを、
小倉侯の収めていたものだという。
よってその具足はみな福島の家紋があったという。

 福島は豊太閤の初めから神祖御成業のときまで、
剛勇武功の人で皆知るところである。
その遺物がこのように亡んだのは、誠に痛感に堪える。


(甲子夜話三篇)


なぜ小笠原さんが正則のものを?
352 :
人間七七四年
2016/11/26(土) 03:07:48.21 ID:lmCyCJQF
水野勝成さんや松平忠輝さんはどうしてこんなに長生きが出来たのだろうか?
あの一族の血を引いているのに謎だ
353 :
人間七七四年
2016/11/26(土) 12:05:14.08 ID:+pJkeQp5
引いてないんじゃないか?家康もな
354 :
2016/11/26(土) 14:24:06.47 ID:pplEoFOh
部落民は総じて長寿です。
355 :
2016/11/28(月) 08:45:22.81 ID:TtoGbpWs
文禄3年(1594)、豊臣秀吉は山城国伏見の指月に城の建設を進め、日を追うごとに石垣や天守が
造られていった。
すると秀吉は、伊勢から駿河までの城主は、聚楽の豊臣秀次に遣わし、その他の東国北国西国の大名たちは、
皆伏見に移った。このため家造りは夥しいものであった。

(慶長年中卜斎記)

指月伏見城建設の時点で、秀次は東海道だけの存在になっていたのですね。
356 :
2016/11/28(月) 21:25:08.51 ID:TtoGbpWs
豊臣秀吉が伏見指月の城に天守や御殿を夥しく建設した理由は、当時朝鮮よりの遣いが来るため
異国への外聞故であった。

朝鮮より明軍の遊撃将軍(沈惟敬)が来るとの情報が聞こえると、秀吉は彼に馬揃えを見物させよと
仰せ出し、このため諸大名は多勢の準備が必要となり、これら人数を置く場所を請い、それらは
草津、石山、大津、坂本などに置かれた。

徳川家康の用意した人数は五千。これらは鞍馬、八瀬、木船、嵯峨、西ノ岳その他の場所に分散して
置き、それらから一備づつ押し出し伏見へ乗り入れる計画であった。

秀吉は、遊撃将軍がこの馬揃えを見物する場所は大仏山門と定められた。そして馬には鎧を掛け、
馬面、馬上には大小の金の熨斗を着け、騎馬の者達も全員甲冑姿になるようにと命じた。
そして遊撃も来日し、馬揃えは閏7月18日と決定。諸大名には近日までに待機場所へ行くようにと
命令があった。

そのような中、閏7月12日夜半、大地震が起こった。

この時、大仏は黄金に鍍金してあったが、揺れに寄って破損した。
伏見天守も上の二重が崩落した。
御殿の棟木は飛び、破風の作り物の狐格子は落ちて中まで丸見えとなった。
諸大名屋敷の御成門も損壊し、大手の二階門も揺れ崩れ、一庵法印という番衆も死んだ。
徳川家康の屋敷の2階建ての長屋も崩れ、加賀爪隼人も死んだ。
伏見中で家長屋が潰れ、死者は数知れないほどであったが、歴々で死んだのは一庵と加賀爪の
二人だけだった。

地震によって御殿、天守、諸大名の屋敷などは崩損し、この事に豊臣秀吉は以ての外に立腹した。
伏見に入っていた遊撃将軍も、夜中に伏見を退去したという。仔細の有るべきことだが
どういう理由かは知らない。

(慶長年中卜斎記)
357 :
2016/11/29(火) 18:57:27.86 ID:69pTnGMp
>>356
中国では政治が乱れると災害が起きると言われてるが、まさにw
358 :
2016/11/29(火) 19:23:34.64 ID:OIDdaizr
連歌その心自然に顕るる事

 古い物語であろうか、または人の作り話であろうか、それは分からないが、
信長、秀吉と、恐れながら神君が御参会の時、
四月だというのにまだほととぎすの鳴き声を聞かないとのお話が出たので、

信長は 鳴ずんば殺して仕まへ時鳥 とあり
秀吉は 鳴ずとも鳴せて聞ふ時鳥  とあり
      なかぬから鳴時聞ふ時鳥  と詠まれたのは神君であったという。

 これらからその御徳によって感化される程に温順であられたり、
また残忍であったり度量が広かったりすることが自然とわかり、本性を顕している。 
 紹巴もその席にいて、

    鳴かぬなら鳴ぬのもよし郭公

と吟じたという。

(耳袋)


歴代の発句

 夜話のときある人が話したことである。
人が仮託して出た者であるが、その人の情実がよくあてはまっている。

郭公を贈ってきた人がいた。しかし鳴かなかったので、

なかぬなら殺してしまえ時鳥 織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤
なかぬなら鳴まで待よ郭公 大権現様

このあとに二首が添えてある。
これは憚る所あるうえに、もとより仮託のことであるので作家は記していない。

なかぬなら鳥屋へやれよほととぎす
なかぬなら貰て置けよほととぎす

(甲子夜話)


有名な三句に続きがあるとは知らなかった
甲子夜話の匿名の二句は、戦国三傑と対比して
当時の大名の拝金さを揶揄したものか、不甲斐なさを嘆いたものか…
359 :
2016/11/29(火) 19:24:59.91 ID:S9zniyzk
鳴かぬなら それでいいじゃん ほととぎす 織田信成

織田信成のセンスは里村紹巴並であったか
360 :
2016/11/29(火) 19:48:34.95 ID:vDRc1Ucg
本田正信正純親子の逸話を読んでて思ってたんだけど、最近何かにつけて”具体的ny?”って返答する人が増えたように思うんだよね。
リアルだと会社の人とか家族ですら言ってくるし2chですらそうスレする人達がいる。色々ハッキリさせるのはいいけど疲れ世の中になってきたよね。
361 :
2016/11/29(火) 22:57:47.33 ID:0pORNuAA
興味ある話だからじゃないか?どうでもいいのは右から左だし
362 :
2016/11/30(水) 09:20:13.85 ID:ctmdEvuO
>>361
世間話くらいの事にまで”具体的ny”
と確証を求めてくる人達が居るんだよね。
興味があるって云うより討論術か何かだと思ってるフシがある。会社の人も俺の簡単な推論程度にまで”具体的ny”って聞いてくるからシンドいよ。信用出来ないなら無視しろよと言いたい。
ネットの時代だから確認は、まだ簡単な方だが昔は一々”具体的ny”なんて聞いてくる奴がいたらさぞかし忌避されただろうね。
363 :
2016/11/30(水) 09:46:10.75 ID:Buw+pmGC
ホトトギスがいつのまにかカッコウに...。
364 :
2016/11/30(水) 10:22:43.71 ID:2lrcE/C4
>>362
自分で調べることを忘れた奴らなんだろう。どうでもいいことなら適当な情報与えておけって。
365 :
2016/11/30(水) 10:40:18.46 ID:unEa3OAl
366 :
2016/11/30(水) 10:44:40.18 ID:3XLWPfr6
鳴け聞こう我が領分のホトトギス 加藤清正
なんてのもあったな
367 :
2016/11/30(水) 10:53:52.03 ID:RfqGlZIR
>>365
信玄の鏃
368 :
2016/11/30(水) 11:34:17.01 ID:x3WwMIBf
>>362
逸話を紹介できても意味が分かってないから説明に困るんでしょw
お前が上司じゃなくて本当に良かったよ。相談しても頼りにならないみたいだしなw
369 :
2016/11/30(水) 14:19:54.78 ID:tdjKy2vi
>>368
正純乙
370 :
2016/11/30(水) 14:48:46.68 ID:dEO+eURb
>>365
日本の鏃の真ん中の画像、上から4番目〜7番目のような
返しのある鏃を腸繰(わたくり)型と呼ぶ。
抜くときにハラワタが引っかかってえぐれるから。
371 :
2016/11/30(水) 22:18:33.80 ID:unEa3OAl
>>370
なにそれ恐ろしい
形ってただの飾りではなくて意味があるのか
372 :
2016/11/30(水) 22:41:32.80 ID:RfqGlZIR
信玄はさらに鏃を弛くして抜くときに体内に残るようにしていたと言われてる
373 :
人間七七四年
2016/11/30(水) 23:06:42.86 ID:JUi9u7yG
>>369
無能乙
374 :
2016/11/30(水) 23:15:10.70 ID:uiJMe/8Y
武田の緩めた鏃って、そんなもの使っちゃいけないと咎めた神君称揚の逸話だと思われていたのが、
武田の古戦場後から本当に鏃が体に残った遺体が発見されて、どうも武田はガチでああいう事やってたらしいって
今はなっているな
375 :
2016/11/30(水) 23:32:49.95 ID:2Pwp47rE
武田を称揚する話はないのか
信廉あたりの逸話で
376 :
2016/12/01(木) 04:29:29.58 ID:tN7pLp6l
信長は9月11日(元亀2年)、勢多の山岡玉林斎(景猶)の所に
止宿しなさった。

「明日、叡山を攻め崩すべし」との旨を言うので、佐久間右衛門
(信盛)並びに、夕庵入道(武井夕庵)が達て諫言に及んだ。

信長は曰く、「去年、汝らをもって懇意の言葉を尽くしたが、承諾
の無い以上は、力及ばず」と、理を尽くして言うため、

彼らの考えは及ばず、各々は未明に出発致した。

――『当代記』
377 :
2016/12/01(木) 22:59:04.45 ID:IyntWyyL
>>375
>武田を称揚する話はないのか
>信廉あたりの逸話で

これがホントの逍遙軒?
378 :
2016/12/02(金) 02:41:54.64 ID:eDwPX00e
この頃(慶長15年5月)、京都の町人で米屋の“りうせい”という者は、

大御所(徳川家康)のご命令によって、ノビスバン(メキシコ)に渡海し、
売買を思うがままにして帰国した。

猩々の皮を多く持って来たが、金銀は聞き及んでいたほどではなかった。
とはいえ、他の国や他の島よりは多かった。

しかし、「かさねての日本人の渡海は無用」との旨を、ノビスバンの者は、
かたく日本人へ示した。

――『当代記』
379 :
2016/12/02(金) 19:13:10.64 ID:vLLxwyfB
歌舞伎の「盛綱陣屋」という作品のあらすじ読んだら(歌舞伎なので登場人物の名前を含め、本来は鎌倉時代が舞台)

大坂の陣で真田信之の息子が真田大助を生け捕ったため、信之が大助を家康に見せると家康は大喜び。
そこへ後藤又兵衛が乗り込んできて「大助はまだ子供なのだから返せ!」と言ってきたため
信之は又兵衛をとりあえず家康のところに送る。
思案した信之は、このまま大助がこちらにいたのでは弟信繁の戦闘意欲がそがれる、いっそ切腹させようということに。
信之は信之・信繁の母親の山手殿を呼んできて、大助に切腹をすすめさせるが大助は泣いて切腹を嫌がる。
そこへ大坂城から信繁の妻が息子を思って兵に変装して駆けつけるが、その光景を見てあせる。
そうこうしているうちに信繁戦死の報告。家康は信繁の首を持ってきて信之に首実検をさせる。
心中悲嘆に暮れる信之だったが、首桶のなかの首はなんと偽首。
しかし次の瞬間、大助が「ととさまのところに行く!」と切腹。
実は後藤又兵衛も幸村の母親も、大助がちゃんと計略どおりに切腹するかの監視役だった。
信之も大助の心中を察し、家康に「まさしく弟・信繁の首です」と報告。家康もすっかり騙される。

信繁ってこんな計略を使う武将だと思われていたのか・・・
380 :
2016/12/02(金) 19:21:35.57 ID:vLLxwyfB
訂正
実は後藤又兵衛も幸村の母親も

実は後藤又兵衛も信繁の妻も
381 :
2016/12/03(土) 01:54:55.08 ID:6W60OM/7
同月13日(慶長19年9月)、囚人の原主水正(胤信)が駿府へ来着した。

天主教の宗門に傾倒し、その災いを恐れて去々年に逐電、東国に隠れて
いたのを、(徳川家康の)御下知によって捜索して搦め捕ったものである。

すなわち町司の彦坂九兵衛(光正)にお命じになり、主水正の額に火印を
当てて両手の指を切り、「この者を挙用する輩は曲事である」との旨の
胸札を掲げさせて、追却しなさった。

ところが、岡越前守貞綱が主水正を介抱したとの旨がお耳に入り、
御糾明になったところ、倅の平内が良友の好みにより、

領地に抱え置いたのだが、越前守は存じていないとの旨を陳謝したので、
同19日に平内は改易なされ、貞綱は無事であった。

また、駿府の耕雲寺に主水正が寄宿したのを訴え出た者がおり、住僧を
放逐なさった。

――『関難間記』
382 :
人間七七四年
2016/12/04(日) 07:02:14.27 ID:sRqYOh7K
槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子

>>345の続き
毛利隆元率いる吉田勢と吉川元春率いる新庄勢は仕寄をつけ井楼を組み上げ間断なく城を攻め立てた。
城中はたまりかねて、平賀新四郎隆保・大林和泉守が切腹することで
諸卒の命に替わりたいと申し入れてきたので、それを許可した。
平賀はいよいよ自害するときになって、介錯の者に向かい、
「私が合図するまで打つな。もし合図よりも前に打ったならば、悪霊になって憑り殺してやるぞ。そのときになって私を恨むでない」
と介錯の者に言った。
隆保は刀を抜いて西へ向かい、八識田中に阿字の一刀を下し、
「生死又截、涅槃又截」と唱えて腹を十文字に掻き切ると、臓物をつかんで手繰り出し、何度も切り刻んで捨てたけれども、まったく弱る様子がない。
新四郎は槌山城主の菅田たちに向かって、
「腹を掻き破ったらもう死ぬしかない。どうすれば私は死なないでいられるだろう。
硯と料紙をくれ。最後に歌を詠もう」と言い、
すぐに硯と料紙が整えられた。

隆保は硯を引き寄せ筆を浸して、歌を一首詠んだそうだ。
筆の勢いや墨の乗り方は、平常のときとまったく変わらなかったという。
「昔の物語でならこのようなことを聞いたことがあるが、
今目の前でこのような勇士を目にするとは」と、人々は皆舌を巻いた。
その後、新四郎は「さあ、首を打て」と言ったので、介錯の者は首を打ち落とし、隆保は漸く果てた。
大林はこれを見届けた後、腹を一文字に掻き切り介錯を受け隆保に続いた。
槌山開城の後、尾和秀義ら大内義隆から派遣されていた者らは皆帰され、これを受け志和の米山城に籠る天野隆綱は元就に従い大内義長に属する事となった。
383 :
2016/12/05(月) 02:37:06.96 ID:7mzLMEnB
この頃(慶長13年9月)、駿府にて毎夜、人を切ること甚だしかった。

金が掛けられ、申し出るようにとの旨が下知されたけれども、未だに
その沙汰もなかった。

また、日々喧嘩があって、互いに死傷に及んだ。

――『当代記』
384 :
2016/12/06(火) 16:38:17.05 ID:wFpqOVTa
ある時、伊達稙宗は飯尾尾張という武士を、相馬家への使者として遣わした。
この飯尾というのは伊達家において武勇の名があり、燐郡に隠れ無き者であった。

しかし相馬に到着すると、当主の相馬盛胤は病に伏しており、このため飯尾は、盛胤の嫡子であり
稙宗の娘婿である相馬顕胤の御前に召された。

この時、顕胤は味噌を調える下屋にいたため、その場所にて飯尾と対面した。
相馬家の家臣たちがあえて飯尾をこの場所に通したのは、こう考えたためだった

『飯尾は伊達にて武勇の名を得たること、燐郡にまで隠れ無き名誉の者である。
であれば彼は、相馬の大将は未だ幼いが早くも弓箭の心懸けがあり、味噌等にまで御心を
付けておられる、と感心するであろう。合戦を心がけるには、味噌は第一の物だからであり、
丁度ここに居られたのは幸いである。』

そうして対面は無事終わり、飯尾は伊達に帰ると、稙宗にこう報告した

「殿は姫様をお捨てになられましたぞ!今度婿殿を見てまいりましたが、自身で味噌の奉行を
していました。あのような体では、相馬の大将としていかがかと思います。」

そう尽く悪口をして、顕胤を貶めたのである。

(茶話記異?改選集)
385 :
2016/12/06(火) 16:42:39.41 ID:bJFgmhKY
>>384
ワロタw
386 :
2016/12/06(火) 22:13:59.13 ID:LSKo+3bE
>>384
まあ味噌のところで面会させたら普通そうなるわなw
387 :
2016/12/07(水) 00:52:02.81 ID:GpgXSUb1
副業:味噌屋の大将とか弱そうだもんな
388 :
2016/12/07(水) 02:08:34.37 ID:YRvVvTmk
顕胤の体格を見て、自分が顕胤に及ばないのを悟ったとき、貶める他ないと決めたんだろうね
389 :
2016/12/07(水) 04:17:46.73 ID:al9iUwlI
政宗「お味噌は大事なんやぞ」
390 :
2016/12/07(水) 17:04:18.71 ID:T1fueiDr
家康「せやな」
391 :
2016/12/08(木) 08:50:13.30 ID:1Y7hC+6p
相馬義胤13歳の時、小高城において能を催した。これは伊達稙宗が居城である丸森より
小高を訪問したので、その歓迎の為である。
稙宗はこの趣向に殊の外喜び、そのあまり即座にこう提案した

「私には秘蔵の娘がある。義胤殿をその婿にしたい。」

父親の相馬盛胤はこれを承諾し、その年、永禄2年にこの姫を迎え取った。この時姫は15歳であったという。

ところで、伊達稙宗の長女は、相馬顕胤の妻であり、すなわち盛胤の母であった。
その妹が義胤と結婚するということは、盛胤にとってこの嫁は叔母である。
昔はそういった義別が無い世の中だったという。

この本文には永禄2年で義胤13歳とあるが、正確にはこの年では12歳である。
但しこの嫁取りは永禄3年だったのではないか。

(茶話記異説改選集)
392 :
2016/12/08(木) 22:25:27.26 ID:J91C5wri
江戸御城は、道灌のみに非ず。高虎縄張の事併道灌風流、桜楓の事

 ある人が語るには、
江戸の御城は、初めは太田道灌が興したというので今は何事も道灌に帰しているようだが、
道灌が築いたのは今の西の丸で、御本丸は藤堂高虎と諮られて御新築されたという。
よって『駿府政事録』には、"新城"とあるのだそうだ。

 また道灌も流石は風流人であって、
今の桜田という辺りには多く桜を、今の紅葉山という地には楓樹を植えて、
春秋の詠を専らとしていたという。
今増上寺の門前に流れている小川を桜川と呼ぶのも、その源泉は桜田から出ているので、
その年からこう言っているのだという。

 この事を林老(述斎)が聞くと
「桜楓のことは同意しない。桜田はもとから村の名で桜を植えたからではない。
御城外の桜田から今の桜田町まで行程はかなりある。
その年にどうして一年間で花木を植えることができようか。
また紅葉山は駿府に有った名を移されたものである。」
と話された。

(甲子夜話続編)

松浦静山の頃には、かなりの誤伝が広まっているのだと思われます
393 :
人間七七四年
2016/12/09(金) 17:31:50.90 ID:GsXykw4v
塩冶興久の化け物退治

尼子経久の三男で塩冶氏に養子入りした塩冶宮内太輔興久は不孝・不義の人ではあったが、心栄えは大変勇敢で、
戦えば勝ち、攻めれば落ちないことはなかった。その勇猛さを示すエピソードにこの様な話がある。
月山富田城の甲の丸には桜の間、柳の間という部屋があり、そこは狩野小法眼による柳桜の絵で埋め尽くされていた。
鬼神もその絵に深く魅せられたようで、その部屋はいつしか魔物の出る部屋となった。
何百人もの人が、そこで化け物にたぶらかされ、あるいは気違いになりまたは行方知れずとなってしまい、次第にそこに近づく者はいなくなった。
興久はこの話を聞くと、
「なに、そんなことがあるものか。見る人間が怯えるからこそ、見えるはずのないものが見えたり視界を遮るような気がするのだろう。
一翳眼に在れば空華乱墜す(そうかもしれないと思ってしまえば、眼の中の翳りのように妄想が次から次へとわいてくる)と言うではないか。
吹毛剣について珊瑚枝上の月光を愛でるような心持ちであれば、化け物などどうして現れることがあろうか。
吹毛剣は怜悧な霊光を放って外道天魔といえども手出しができないのではなかったか。私がその変化の者をこらしめてやろう。きっと古狐か古狸が化けているのだろうよ」
と、たった一人でその部屋に向かった。

上座に胡坐をかいてあかあかと明かりを灯して待ち受けたが、宵のうちはとりたてておかしなことも起こらず、
ようやく午前三時くらい(丑三つ時)になって、風がそよそよと吹いた。風は気持ちの悪い冷たさで、しきりに胸騒ぎがするので興久が「これは不思議なことだ」と思っていると、
庭に散り積もった木の葉をハラハラと踏みしだく足音がした。垂木の上にドスンと上がった音がしたと思うと、すぐに妻戸がキリキリと押し開かれる。
「さあ、例の古狸めが、人をたぶらかしに来おったな。ほかの者はどうあれ、この興久は化かされないぞ」
と、外のほうをじっと睨みつけていると、歳は八十を越すかと思われる老婆が二人の童子を伴い姿を現した。
老婆は曲がりくねった茨が雪に埋まっているかのような頭髪を上のほうで結ってカッと乱し、
目は一つだけ鏡を額にかけたようにあって、太陽や月よりもなお明るく光っていた。
鼻は長く垂れ、歯は黄色く上下に長く生え違い、ことさらに両脇の牙は鋭く、剣樹のようであった。
唇は血の池のような赤であり、口は左右の耳まで裂けて、息をするたびにすさまじい煙が風にほとばしる。
両腕に猪のような毛がびっしりと生え、爪は鷹のように長く曲がっている。
破れた衣を着て、大きな竹の杖をつき、十一、二歳くらいの童子二人に手を引かれて、
興久に近寄ってくるのだ。

「ああ苦しい。老いて衰えることほどつらいものはない。これでも十六歳になるまでは、華のかんばせと評判で、
楊貴妃の眉よりも西大后の紅顔よりも美しかったというのに。朝には鏡に向かい眉を書いて容貌を磨き、暮には鳳のかんざしを取って
蝉翼(蝉の羽のように美しく曲げ整えた髪)に仕上げて優美な容色に整えたものじゃ。
いつのころからか老いが日々重なってゆき、容貌が衰え体がだるくなっていくばかりでなく、
孤独で貧しい身の上じゃ。肌を隠す衣もなく、朝晩食べるものにも事欠く有様で、
砂を噛んで水をあおるほかに、飢えを紛らわす方法もありはしない。ああ苦しい。めまいがする。胸も苦しいぞえ」と、
しわがれ声を震わせて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と老婆が呟く声が聞こえた。

さしものつわもの興久も、身の毛もよだつほど恐ろしく感じたが、少しも騒がずにいた。
この老婆は興久をキッと見て、「おやおや、こんなところに殿御がいらっしゃる」と、かしずいた。
「さてさて、お若い御大将、ようこそここにいらっしゃいました。ここにはこの老婆が折りにつけて参っておりますので、人は皆、
『老いさらばえた老女の顔の醜いことよ、聞き苦しい言葉つきよ』などと言って、私を怒らせたものです。
それだけでなく、このごろは一人としてこの座敷に近づきません。この老婆も、年老いて心細くなってまいりましたので、いっそう人恋しく、
昔話の一つも誰かに語って聞かせたいと思っておりました。よくここにいらっしゃいましたなぁ。昔の迦葉仏のときのことまでよく知っている老婆でございますよ。朝まで昔語りをして差し上げましょう」と
老女が言っても、興久は返事もせず、大きく開いた目でじっと老女を睨みつけていた。
394 :
人間七七四年
2016/12/09(金) 17:47:35.87 ID:GsXykw4v
老女は「この殿御もこの老婆の面相が醜いと思っているのじゃろう。声をかけても返事すら返さぬとは。おまえたち、行ってあの方の御足を揉んで差し上げなさい」と、傍らにいた童子に命じた。
一人の童子が「かしこまりました」と老女のそばを離れ、興久の足元に座った。
興久はこの童子を斬ろうと思ったが、「待てよ、どんな化生の者といっても、
私の力なら、殴るだけでも眩暈がすることだろう」と思いとどまり、
拳を堅く握って童子の頭をしたたかに打った。
すると童子は老女の元に走り帰って、「ばばさま、あの方が殴ってきました」と泣きつく。
老女はもう一方の童子に「ならばおまえが行ってまいれ」と命じ、この童子も興久に近寄ってくる。
興久は少しも怯えていないところを見せてやろうと思ったのか、「童よ、ここに来い」と声をかけた。
ソロソロと寄ってくる童子を引き寄せ、膝の上に抱きかかえると、大きな石のように重い。
たまらず童子の頭を続けざまに二度打って、乱暴につかむと「えいやっ」と放り投げた。

老女はこれを見て「こんなにいたいけな子供たちに、なんと思いやりのないことをするのですか。お恨みいたしますぞえ」と怒ってつかみかかってくる。
「これはかの有名な三途の川の脱衣婆か、安達が原の黒塚に棲むという鬼が現れたのに違いない。そうでなければ山姥というものだろう」と、興久は魂が抜けそうなほど仰天した。
真っ黒な手を伸ばして頭をつかもうと飛び掛ってくるところを、それでも少しも声を上げずに、腰に挿していた初桜という刀を抜いて、
眉間と思しきところを、二度続けて斬りつける。
「アッー!」という声がしたと思うと、辺りが雷のように光って、老女と童子たちは虚空へと姿を消した。

「どんな妖狐や古狸の類であろうと、あれだけ思う存分斬りつけてやれば、
そう遠くには逃げられまい。早く夜が明けぬものか」と興久が待っていると、
東の空が白々と明るくなってきた。
早速若党たちを招集して、「昨夜、妖怪変化を斬ったぞ。跡をつけてみろ」と命じるが、
目印など何もないので、若党たちもどこを探していいかわからない。
興久が言うには、縁の下に入ったように思うとのことだったので、
縁の下にもぐってみると、大きな穴が見つかった。
そこでその穴を広げ、三間(5.4メートル)ほど掘り進むと、
底から高さ九尺(2.7m)くらいの五輪塔と、二つの三尺(90cm)程度の五輪塔が掘り出された。
その三尺の五輪の頭には血がついている。
これは、興久が拳で殴った際に、指の皮が破れて出た血が付いたものだろう。
また、九尺の五輪には頭に刀傷が二つあった。
395 :
人間七七四年
2016/12/09(金) 17:47:50.04 ID:GsXykw4v
塩冶は言う。

「その昔、唐の国に王伯通という人があった。屋敷を一軒建てたが、そこに泊まった人は必ず死んだという。
伯通はしかたなく門戸を閉ざして誰も泊まらせないようにしていた。
嵆康という人がやってきて、どうしてもそこに泊まらせてくれというので屋敷の中に入れたところ、
嵆康は夜になってもずっと琴を掻き鳴らしていて、
真夜中(午後十一時ごろ)になると嵆康の前に八人の鬼が現れたそうな。
嵆康は最初こそ怯えて乾元亨利貞(法呪のようなもの)を唱えていたが、数度唱えた後で鬼に問いかけた。
『王伯通がこの屋敷を建て、人が泊まることがあると必ずその人は死んでしまうという。おまえたちが殺したのか』

すると鬼は、『まさか、私が人を殺すなんて、とんでもない。
我らは舜(中国神話に登場する賢帝)の時代に、楽をつかさどる官吏だった。
兄弟が八人いて、伶倫という者だ。
舜は、邪な佞臣の注進を受けて、我ら兄弟を無実の罪で殺してここに埋めたのだ。
王伯通が我らの塚の上に屋敷を建てたので、重くてかなわない。
だから、人が来て泊まってゆくのを見ると、その人にこのことを伝えようとしたのだが、
人は皆我らを見て肝を潰して死んでしまう。殺そうと思って殺したわけではないのだ。

先生にお願いしたいのは、伯通にこのことを伝えて我らの骸骨を掘り起こし、
よそに葬りなおしてほしい。そうすれば、半年後に伯通は本国の太守となるだろう。
先生には、広陵の一曲を教えて進ぜよう。訴えを聞いてくれたお礼だ』と言った。
嵆康は大変喜んで、持っていた琴を鬼に与えた。鬼が一度弾いただけで嵆康はすっかり覚えてしまったという。

さて、夜が深まり、心配になった伯通が屋敷に様子を見に行くと、
嵆康が掻き鳴らしている美しい琴の音を聞いて、どうしたことかと嵆康に尋ねた。
嵆康から先ほど起こったことを詳細に聞き出すと、伯通は翌日すぐに人夫を手配して地中を掘らせる。
果たして、ついに骸骨を見つけた。
別に棺を作らせて、清浄な場所に葬ったそうだ。
後晋の文帝が即位すると、伯通は鬼の予言の通りに太守となり、嵆康は中散大夫に昇進したとな。

私が思うに、この骸骨も伶倫と同じようにこの家に押し潰されて、苦しくなって姿を現したのだろう。
よそに移して手厚く葬れば、私も末は一国の守護ともなろうよ」
興久はそう決めて、通安寺の墓所に埋葬した。
その五輪塔の下に埋められていた者は、生前の宿業が深く四生六道に迷うだろうと、
如形の供養までしてやったという。

(陰徳記より)

長文スマソ
396 :
人間七七四年
2016/12/09(金) 18:36:01.08 ID:GsXykw4v
追記
本堂平四郎、東雅夫著・怪談と名刀/1の富田城怪異の間、初桜 光忠の話として、同じ話が載っています。
そちらによると柳桜の絵の作者は狩野小(古?)法眼ではなく、雪舟ともただの貧僧とも
また、興久が退治する以前の妖怪の為した祟りが生々しく描かれています。
397 :
2016/12/09(金) 19:00:50.99 ID:4pniS/q8
>>393-396
そのまま日本昔話で放送してもおかしくないクォリティ
398 :
2016/12/09(金) 22:52:45.81 ID:8ZfVzv1H
>>392
昔から道灌すげーと思われていたんだな
399 :
人間七七四年
2016/12/09(金) 23:07:39.78 ID:rmBYu3Ob
>>393-395
結局このババアと童の正体は何だ?
城の人柱にしちゃあ、迦葉仏のときまでよく知っているって言うし、神代の人間か国津神の類かよ
400 :
2016/12/10(土) 00:02:16.10 ID:mqM9v91Y
道灌「この城どうかんならねえか?」
家康「家、やすいなら買おう」
と庶民には思われてた説
401 :
人間七七四年
2016/12/10(土) 00:18:49.26 ID:6eJna+f9
>>400
        シャカ
      [二] シャカ
  ロ=== (´・ω・)
  (::) ( >on o θ
日[二二] と_){三}


        ス...
      [二]
  ロ=== (´・ω・)(
  (::) ( >oy>o )
日[二二] と_)_){三}
402 :
2016/12/10(土) 10:55:42.83 ID:BHAJeKED
世紀末荒野だった戦国の関東平野で
歌詠みまくって風流も競い合ってたってのがまた不思議
403 :
2016/12/10(土) 11:27:41.74 ID:EzzOhga2
西太后て清末以外にもいたのか
404 :
人間七七四年
2016/12/10(土) 12:20:56.46 ID:gEo18Caq
>>403
西王母の事ちゃうか
405 :
2016/12/10(土) 12:53:25.64 ID:EzzOhga2
時代的におかしいから東と西でいろいろいるのかとおもいきや
西王母のこととは思わなかった
406 :
2016/12/10(土) 19:47:48.65 ID:J3N68zoo
北条家も風流なイメージ持ってる
407 :
2016/12/11(日) 12:19:38.64 ID:wrFBh8rX
斎藤道三と織田信秀が合戦したとき、
千秋季光という武将が討ち死にした

季光は平景清が所持していたという「あざ丸」なる刀を差していたが、
後に陰山一景の手に渡った

その後、この刀を持って出陣した一景は、
牛屋山大日寺の寺内に陣を構え床机に腰を掛けていたところ、
敵方の城内から矢が飛んできて、
その矢が一景の左眼に深く突き刺さったという

一景はすぐさまこれを引き抜いたが、
また鋭い矢がまた飛んできて、今度は右眼を射潰されてしまった

この後、あざ丸は丹羽長秀の所持するところとなったが、
間もなく丹羽長秀は眼病を煩ってしまった

そのため、『あざ丸を所持すれば必ず目を煩う』という風聞が流布し、
丹羽長秀は周囲の勧めもあって、
この刀を熱田神宮に進納したところ間もなく眼病は回復へ向かったという

実はこの刀の最初の持ち主である平景清は、
源平合戦において『悪七兵衛』と呼ばれた男であったが、
源平合戦に敗北した後は怨みのあまりに
自ら両目を繰り抜いて盲になってしまったのだという

この痣丸は今も熱田神宮に奉納されているという
408 :
2016/12/11(日) 12:28:15.11 ID:HWGYWPFm
千秋家って熱田神宮の宮司だな
神主武将
409 :
2016/12/11(日) 15:29:21.03 ID:L8TjvmB6
千秋さんの痣丸に因る死は以前出たと思ってたけどまだだったか
ついでに千秋家は桶狭間の前哨戦で佐々と一緒に突撃かまして全滅してるね
410 :
2016/12/12(月) 18:46:41.12 ID:vfphFEwK
今年の漢字をやってた清水の観音様のところに百日参りすれば
悪七兵衛景清の奉納した両眼をもらって眼を治すことができたのに
411 :
2016/12/15(木) 02:05:42.36 ID:Da97V1+q
相馬家の分家、相馬堀内氏の当主・左衛門には娘が一人だけで、嗣子無く、このため
娘に、相馬一族である藤田齊庵の弟、掛田兵庫という人物を迎え、堀内家を継がせようとした。
ところがこの娘が兵庫を嫌ったため、兵庫は堀内家から去り、その後柏寄村に居住して生涯を終えた。

兵庫が去った後、次に中津川家の二男、大膳亮を娘の婿として迎えたのだが、彼もまた嫌われたため、
仙道へと帰った。

ある夜、男二人が顔を隠し、誰ともわからぬようにして堀内の屋敷に忍び入った。
時間は宵の口で、召し使われている女房たちは自分の仕事をしており、堀内の娘は屏風の陰から
何とも無く外を見ていた。

するとそこに、先の男のうち一人が不意に走りより、この娘を一太刀切って逃げた。
召し使う女房の中には、この事態を見て一人、この暴漢に飛びかかり組み留めようとしたが、
男たちは二人で右や左に蹴り転ばした。女の事とて力なく、彼女はそこから逃げた。

この二人の男たちが誰だったのか、後までわからなかった。
娘は耳の下から頬にかけて傷が残ったという。
彼女は後に、二本松安房守義秀の嫡子、右馬頭国秀の妻となった。
しかしこの国秀は、叔父の義国に討たれた。
この時妊娠していた彼女は、相馬に帰って出産をしたという。

(奧相茶話記)

誰が彼女を襲撃したんですかねえ。
412 :
2016/12/15(木) 02:41:51.33 ID:Sv/EWd5r
犯人はヤス
413 :
人間七七四年
2016/12/15(木) 05:59:58.19 ID:pzCQt+x1
加藤清正と人柱1 横手五郎と修験者

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-52.html
で既出になるかも知れないけど

その昔、横手五郎と言う15人の人を一度に抱え上げる程の大力の男が居た。ある時、加藤清正公の行列が道を塞いだ牛の為に立往生して居たところに通りかかった五郎は牛を持ち上げどかして行列を通してやりました。

その後、熊本城を築いている最中、五郎の大力を見込んだ清正公は五郎に石垣を築かせたり井戸掘りの仕事を任せ、五郎はその大力を活かして他の誰より早くそれらの仕事をこなしました。

しかし、ある日清正公に五郎はかつて清正公が討った天草の木山弾正の息子であると耳打ちした者が居ました。
それを聞いた清正公は五郎は父親の仇討ちに来たのか、それにあの大力は石垣や抜け穴など城の秘密も知っとるしいつか城を乗っ取られるかも知れん。
と、疑いを抱き五郎を殺す事にしました。

そしてある日、五郎が井戸を掘っている所を狙って上から大石を落とさせ五郎を殺そうとしますが、それを知らない五郎は大石を何度も井戸から投げ返します。

しかし、何度も投げ込まれる石に五郎も遂に自分が殺されようとして居る事に気付き、覚悟を決めて大声で叫びました。

ワシを殺すなら石じゃダメじゃ、砂利ば投げ込め!

そして五郎は井戸に生き埋めにされて死んでしまったそうだ。

その後、城の基礎が出来上がりその後の工事の無事を祈る為に修験者が京より呼ばれ、祈祷をしたのだが、修験者は五郎が生き埋めにされた井戸の秘密を見抜き、
「この地には二つの呪いがかかっております。井戸に生き埋めにされた人足とその父親の呪いが」
と言いました。怒った清正公は
「ならばお前が人柱となり、呪いを解いてみせよ」
と、その場で修験者を手打ちにしました。しかし、修験者は今際の際に
「私を人柱にしても呪いは解けません。加藤様の家は呪いのせいで絶えてしまうでしょう。」
と言い残して亡くなったそうです。

熊本城内にはこの大力の横手五郎が運んだとされる五郎の首掛け石が宇土櫓の側に今も残っており、
また玄海町には太閤秀吉が名護屋城築城の頃に築城奉行だった清正公に従い築城に従事し、当地では無双(みそ)五郎と呼ばれた大力の若者が投げ落とした船繋ぎ石と言われる直径6mの巨石が有浦川に残っています。
414 :
人間七七四年
2016/12/15(木) 06:22:27.82 ID:pzCQt+x1
ちなみにこの修験者に関しては別に、京から呼んだ龍蔵院と言う山伏であり、築城の際に清正公が地鎮祭を行わせ教示を受けたが、
城の完成祝いの宴で城の縄張りの事をうっかり喋ってしまい、清正公の命を受けた家臣に帰途殺害されたと言い、熊本市北区にある山伏塚はその墓(処刑場とも)であると言われ、熊本の心霊スポットでもある。
415 :
人間七七四年
2016/12/15(木) 07:13:08.77 ID:pzCQt+x1
加藤清正と人柱2

加藤清正公は肥後に入国した翌年から菊池川河口に広がる遠浅と島に目をつけ干拓事業に取りかかりました。
この干拓で最も困難だったのが「石塘」の築堤工事であった。
横島−久島山間(400m)は底が深く潮の流れが速くこの瀬戸に渦巻き、遠い昔から「丹倍ヶ淵」の名で舟人等を恐れさせた場所でした。

この築堤には大勢の人員と多くの石材、木竹、土むしろ、更に墓石に至るまで大量の資材を用いましたがことごとく流されました。
もはや堤の完成の為には人力だけでは覚束ない、古例にならって人柱を立てたらとの提案があり人選をして人柱を立てる事になりました。
その人柱になる人物の条件として、

「横布を当てて袴をつくろっている者」

が選ばれる事となり、その条件を満たす者がただ一人だけ見つかり、慶長十年(一六〇五)十一月二十五日、いよいよ潮止めを迎えると、その人は村人たちの見守る中、水中に立ちました。
横島山の頂上では大勢の僧侶たちがその冥福と工事の成功を祈って法華経を読経し、その人は土石の下に姿を消しました。
これにより難工事も見事に成功し石塘が完成しました。この石塘築堤工事により古来海上の一孤島であった横島が玉名の陸地と接続詞広大な新地が完成し、
最初の鍬入れの天正十七年一月から石塘築堤17年の歳月をかけ小田牟田新地干拓が終わりました。
 横島の伝説によると人柱に立ったのは大園村の庄屋伝作であったとされており、別に「藤公遺業記」によると中富手永(郷)千田村(鹿本郡)の者人柱に沈むとなっています。
また、鹿本郡植木町のとあるお宅には先祖が横島で人柱に立ったと言い伝えられています。
いずれが事実かはハッキリしないものの、人柱の歴史は事実であり石塘の人柱が立ったところには
「鎮魂慰霊」と刻んだ小さい祠が建てられ、現在では「人柱之碑」が建てられています。

これらの事から当地には昔から「横布を使うと人柱に立たされる」という言い伝えがあるそうです。
また、一番大掛かりだった石塘の築堤工事に基づき読経した経本を埋めたところを経塚と言い、この築堤工事に当たり多くの犠牲者と人柱に立った人の霊を祀ったのが大園にある本田大明神であり、
深夜にこの場所の近くを通ると、小石が転がってきたり・・カチカチと音が鳴ったりするなどの、怪奇現象の報告例が後をたたないという。
416 :
人間七七四年
2016/12/15(木) 13:04:34.58 ID:qYLg94CZ
>>415追記
同じ熊本県の南部に位置する相良氏が藩主を務めた人吉藩で17世紀後半に現在の熊本県球磨郡多良木町に造られた百太郎溝にて人柱となった、百太郎と言う者も庄屋の夢に出た水神の御告げで
はかまに横縞のツギを当てた男を堰をつくる時の人柱にすればよい。
と言う神託に寄って人柱として選ばれたと言う。
417 :
人間七七四年
2016/12/15(木) 14:43:37.25 ID:VnJLJLbL
>>414
http://www.chugainippoh.co.jp/rensai/jijitenbyou/20161021-001.html

震災復興の祈願とは言え、殺された坊さんの行った法要や祈りを再現しようと言うのはちょっと理解に苦しむ…
418 :
2016/12/15(木) 19:42:38.77 ID:ynzlC0ov
なんか来年の大河がもめてるそうだから、井伊直虎関連本から抜き出してみた

大石泰史「井伊氏サバイバル五○○年」
p146〜(正徳元年(1711年)に井伊家の始祖の誕生した井戸の帰属を巡って正楽寺と井伊氏の菩提寺である龍潭寺が争った際、
龍潭寺の住職であった祖山が井伊氏と龍潭寺のつながりを証明しようと「井伊家伝記」を書くにあたって)

(中略)ここからは想像の域を出ないが、次郎法師登場の背景を探ってみよう。
祖山は龍潭寺で、位牌・過去帳等から「次郎」が中世井伊氏の家督も使用した仮名・通称であることを認識した。
そのため永禄八年の寄進状を書いた「次郎法師」は当主に近い人物と考えた。
しかし、中興開山である直盛は同三年に、後嗣直親も同五年に死没している。彼らよりも没年が遅い人物を探す必要がある。
そうしたとき、龍潭寺内に残されている位牌等に、天正十年に亡くなった人物がいた。
法名は「妙雲院殿月船祐円大姉」だが、没年は直盛・直親以降の人物であることは間違いない。
「大姉」とあるので女性である。しかし、その位牌等以外に確認できないのであるならば、次郎法師は妙雲院殿だった。祖山はこう考えたのではないだろうか。

その傍証となるかもしれないが、祖山は次郎法師=直盛息女=妙雲院殿と認識はしているものの、
次郎法師=直虎、もしくは直盛息女=直虎、という表現はまったくしていない。
つまり、女性であることは認識していても、男性名である「直虎」を名乗ったとはどこにも記載がないのだ。
このことから、直虎が次郎法師もしくは直盛息女と指摘したのは、後世の研究者たちであったとすることができる。
419 :
2016/12/15(木) 19:47:32.44 ID:ynzlC0ov
小和田哲男「井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史」
p101〜
『寛政重修諸家譜』は「女子 直親に婚を約すといへども、直満害せられ、直親信濃国にはしり、
数年にしてかへらざりしかば、尼となり、次郎法師と号す」と簡単な記述で終わっている。
(中略)『寛政重修諸家譜』の記述だけだと、尼となったのに尼の名でよばず、なぜ「次郎法師」という名前なのかの説明がなく、わからない。
そのあたり、「井伊家伝記」を書いた祖山も注目したものと思われる。一つの解釈を披露している。(中略)
亀之丞が信濃に落ちていってしまったため、彼女は菩提の心深く、南渓和尚の弟子になって、剃髪し、出家してしまった。
両親は嘆き、「一度は亀之丞と夫婦にと思っていたのに、このようになってしまって」と、
尼の名はつけさせたくないと南渓に申し出た。
一方、彼女のほうは、「出家したのだから、是非、尼の名をつけてほしい」と、親子の意見が分かれてしまった。
そこで南渓和尚が考えたのが次郎法師という名前であった。
備中次郎という名は井伊家惣領の名である。次郎法師は女ではあるが、井伊家惣領に生まれたので、
相続の名をかねて次郎法師はふさわしい。南渓和尚がつけた名である。
この次郎法師は、井伊直親が誅殺されたあと、直政が幼年だったため、井伊家の家督となり、地頭職をつとめた。
(中略)
(父親の直盛の出生年から考えて判断力のあった年齢であるとするのは難しい、という野田浩子氏の説を紹介した後)
娘も自分の意志で行動できる年齢だったと見ている。(中略)ただ、野田氏の指摘のように、「彼女の私的な
感情により出家が認められるはずがない」というのはその通りで、あとでふれるが、亀之丞がもどってきたとき、
還俗すれば結婚が可能だったはずなのに還俗しなかったこととあわせ、このあたり謎が多いことはたしかである。
420 :
2016/12/15(木) 19:52:19.56 ID:ynzlC0ov
ニュースでは次郎法師は直盛の娘で、次郎直虎は別人、という主張が紹介されてたけど
単に龍潭寺に箔をつけるために祖山が次郎法師=直盛娘として南渓、次郎法師命名の話をでっち上げただけで
1812年に完成したの『寛政重修諸家譜』もその次郎法師=直盛娘説に乗っかっただけだったりして
421 :
2016/12/15(木) 19:55:32.03 ID:Da97V1+q
あのニュース、「発見」されたって『守安公書記』が新発見でも何でもない史料の上に、しかも編纂されたのが享保20年(1735)で、
享保15年成立の『井伊家伝記』より新しいものだからなあ。
『守安公書記』の史料評価もきちんとできてないみたいだし、あのニュースは正直勇み足過ぎる
422 :
2016/12/15(木) 23:51:47.04 ID:CukiuDjr
423 :
人間七七四年
2016/12/16(金) 06:13:05.59 ID:cGxjSaEe
松江城のギリギリ井戸

堀尾吉晴が松江城を築かせている最中、表鬼門に位置する石垣だけは何度石を積んでも崩れてしまい、工事が終わらなかった。
吉晴がその場所を掘り返させ徹底的に調べた所、そこから一つの頭蓋骨とそれを貫く錆びた槍の穂先が見つかった。
吉晴はすぐさま神主を招いて二夜三日に渡る大祈祷を行って頭蓋骨を供養した所、以後障りなく石垣造りが進んだと言う。
また、頭蓋骨を掘り当てた場所からは澄んだ水がこんこんと湧き出し井戸となり、この時掘った形が頭のつむじの形に似ていた為、当地の方言でつむじを意味するギリギリからギリギリ井戸と呼ばれる事になった。
424 :
人間七七四年
2016/12/16(金) 07:00:23.69 ID:cGxjSaEe
松江大橋の人柱

松江城築城にまつわるもう一つの人柱伝説。
関ヶ原の功で雲州に入った堀尾吉晴は月山富田城に入ったものの、城下町形成の為平地にある亀田山の末次城(現松江城)へ本拠地を移城する事を決意。
月山富田城を解体して資材を運ぶには大橋川を通らねばならなかったが、当時はカラカラ橋と呼ばれる竹造りの小さな橋しか無かったので、木造の大きな橋を架ける事になった。
が、洪水や事故などの為工事は難航し、例によって人柱を立てる事に。
人選はこの翌日、一番に橋を渡る者でマチの無い袴をはいた男(横縞の継ぎをした袴という説も)を人柱にすることと決め、その日の朝に運悪くその姿で橋を渡ったのが、足軽の源助だった。
源助は捕まり橋脚の下に埋められ、その甲斐あってか橋は完成、その後、大橋の中央の橋脚を「源助柱」と呼ぶようになったという。
また異聞もあり、人柱を立てる事が決まり人選について皆が悩んでいた際、源助と言う足軽が
「明日、下駄を履いて橋を一番に渡る者を人柱としよう」
と提案。翌日、その姿で真っ先に橋を渡ったのがこの源助当人で、彼は誰もがなりたがらない人柱の役を自ら引き受けたとも言われる。
425 :
人間七七四年
2016/12/16(金) 07:11:56.86 ID:cGxjSaEe
ちなみに、このマチの無い袴と言うのは
「まち」がない袴を「行灯袴」と呼びおもに下級武士や足軽が用いたもので、現在は女子が用いる袴はすべて行灯袴であることから「女袴」ともよばれる。
http://i.imgur.com/OzaHeU6.jpg
http://i.imgur.com/6aUvzxK.jpg

万一偉いさんが通っても人柱にならない様に配慮したってはっきりわかんだね
426 :
2016/12/16(金) 11:31:37.47 ID:C91lbPBf
現代では色々な武将が女体化してるから
井伊直虎の性別なんてどっちでもいい・・・って石田三成が言ってた
427 :
2016/12/16(金) 13:11:17.64 ID:VCcNHMdd
武将名でイメージ検索するとひどい事になるのが最近は普通になってるな。あと刀も
428 :
2016/12/16(金) 13:40:32.34 ID:3OMI3D+q
つか女でも法師てよばれるんだな
429 :
2016/12/16(金) 16:49:21.36 ID:CiQBUj3m
>>425
>万一偉いさんが通っても人柱にならない様に配慮した
リアルで恐いわ
430 :
2016/12/16(金) 21:09:51.60 ID:E3VsNxRe
とりあえずだが、井伊達夫氏は甲冑業界では名の知れた山師であることを指摘しておこう
井伊とは言っても、井伊家(越後与板藩主家)とは近年養子縁組したひとだしね

まあ個人攻撃ととられるかもしれないが、いわくつきの人だってことさ
431 :
2016/12/16(金) 22:41:19.20 ID:NI228Pl1
ところでその話の流れで、付箋がどうこうとネット上で一部の話題になってるの

例えば国宝「上杉家文書」の場合なんか、ボールペンの書き込みが残ってたりする
昔の地元の郷土史家の先生たちの仕業なんだけれど
今の修復技術で消すことも可能だが、後世の戒めとして残してあるそうな


ふと思い出した
432 :
人間七七四年
2016/12/17(土) 13:08:32.96 ID:edoflzSk
吉川広家(中村一忠)と人柱 人柱久米と河童の怪

1591年に太閤秀吉の命で叔父、末次元康の代わりに出雲伯耆隠岐の支配を任された吉川広家は、城下町を作るのに不便な月山富田城に代わる本拠地として米子の飯山城に目を付けた。
隣接する湊山に天守閣を建てる計画を立て、米子城の築城が始まり二の丸三の丸の建造は順調だったものの、天守閣の石垣を組もうとすると、その度豪雨に見舞われ石垣は崩れてしまい工事は進まなかった。

この事態に人夫達から人柱を立てねば祟りが続いて工事はままならないと声が上がり、吉川広家は普請奉行の祖式九右衛門らと相談して人柱を立てて地鎮を行う事にした。

そして、町で開かれていた盆踊りの場から久米という名前の美しい娘を無理やり、または口車に乗せ連れ去り人柱にしてしまった。
この後、吉川広家は関ヶ原の敗戦で岩国へ転封となり後に入った中村一忠の代に米子城は完成したものの、天守の石垣付近では人柱にされた久米の幽霊が度々現れ人々を恐れさせたと言う。
また、米子の人々は人柱にされた久米を偲んで米子城の事を久米城と呼ぶとともに、盆踊りを開くと人攫いが現れ人柱にされてしまうと噂し、近世まで米子では盆踊りが開かれる事がなくなった。

久米が人柱として埋められてから暫くして、米子の町では夜に厠へ入ると毛むくじゃらの腕が現れ尻を撫でられると言う事件が多発した。
そこで一人の力自慢の侍が退治してやろうと夜に厠へ入るとやはり毛むくじゃらの手がにゅっと出て来て侍の尻を撫で回す。
侍は手を掴むと一刀の元にその腕を切り落とし、家に持ち帰った。
すると、河童が侍の前に姿を現しもう悪戯しないから腕を返してくれと頼むので、腕を返すと河童はそのお礼として侍にどんな傷も治すと言う薬を渡して米子を去り、日野町の黒坂へ移りそこで悪戯をする様になったと言う。

米子の人々はこの河童を久米の生まれ変わりではないかと噂したそうな。
433 :
人間七七四年
2016/12/17(土) 13:45:45.24 ID:gUr9WE8G
美少女に生まれたけど人柱にされて河童に生まれ変わっておっさんのケツ撫で回す人生とかどんな罰ゲームだよ
434 :
2016/12/17(土) 13:50:28.31 ID:FgX/RKrK
人柱にされた美少女は実は痴女で、イケメン侍の尻を撫で回していたと思おう。
435 :
人間七七四年
2016/12/17(土) 14:12:34.44 ID:edoflzSk
http://i.imgur.com/YcHQjVX.jpg
黄桜河童なら…
436 :
2016/12/17(土) 16:56:51.14 ID:LFsLigeo
>>432
話が混じりすぎてカオスw
437 :
人間七七四年
2016/12/17(土) 18:19:31.85 ID:afG/R5Jc
笄の井戸

岡山の柾木城(正木)は天正年間に宇喜多直家の兵2000に囲まれ落城寸前であった。

城主正木大膳正康の妻、玉尾の方は落城の前日
「私達が居ては満足な戦が出来ないでしょう。先に行って待っております」
と言うと、姫君初瀬を抱いて馬で柾木山を駆け降り、城の東南に位置する井戸へ二人で身を投げ命を絶った。
その後井戸へ身を投げた二人を供養した所、笄が浮かんで来た為この井戸を笄の井戸と呼ぶ様になったと言い、今も当地にて毎年供養が続けられている。

ちなみに正木大膳正康の入城は1589年だったと言う話もあり、城を攻めたのも宇喜多秀家だったり何故か姫路城主の本多忠政だったりする場合もある少し腑に落ちない逸話である。
438 :
2016/12/17(土) 22:39:57.96 ID:PNeVf9DM
>>430
酷い山師だったのは事実だが、その古文書自体は捏造ってわけでもないだろう。検証と解釈は別として。
目立ちたがりなのは間違いない。
439 :
人間七七四年
2016/12/17(土) 23:16:22.05 ID:afG/R5Jc
笄の井戸動画
https://youtu.be/xbsub8Klwx8
440 :
2016/12/17(土) 23:40:02.02 ID:FQR9CdkD
>>432
松江城のコノシロの話と似てるね
河童の前までだけど
441 :
2016/12/18(日) 06:19:17.29 ID:ljNawsFS
 尼子義久は伯耆国をも手に入れて大身であったが、その気がすわらない人なので物事にとらわれやすかった。
毛利元就が口寄せの市子と申す者に金銀をとらせて、
「尼子の家は先祖の祟り、外からの恨みもあるので久しくは無いだろう。」等と色々誠らしい事を作って凶を告げさせた。
すると、尼子は気にかけて甚だくじけてしまい、その弱みを突かれて遂に亡んでしまった。

 物事の道理をよく考え、迷ってはならない。
巫女山伏に神が乗りうつられるという事は合点のいかぬ事である。
合点のいかぬ事に悩まされるのもなお合点がいかない。
とにかく手前に無理がなければ外よりよこしまな事があろうことはない。
道理を尽くしても悪事となって邪な事が来ても、天命であるとして是非はないと思え。
 自分の弱みを突かれ気が虚けていたら、たぶらかされる事は必定である。

(武士としては)

尼子氏の先祖の祟り、外からの祟り…
思い当たりがありすぎる…
442 :
人間七七四年
2016/12/18(日) 07:30:24.35 ID:Ze9a2Qhj
>>440
隣の安来市にある月山富田城にも人柱の話があって、松江城、米子城と共に城の修築が上手く行かずに盆踊りから人柱となる人を拐って埋める所までは共通なんよ。
また米子城にもこの城は我の物〜とのたまう妖女が現れ退治された話があって、そちらの正体は人柱ではなく別のモノだったりします。

>>423のギリギリ井戸と松江城の人柱にも異聞があり、井戸の場所から見つかった頭蓋骨を弔うのに堀尾吉晴の知り合いの修験者が呼ばれて供養した。
が、修験者はまだこの供養だけでは地鎮は終わらず城造りの災いは済まぬ。私の子を仕官ないし、面倒を見てくれるなら私が人柱となりましょう。と、修験者が進んで人柱となった話も有ります。

尼子経久と人柱 米原太鼓

尼子経久が山陰の覇者となった頃、月山富田城の修築を始めたものの事故や災難が続き工事が難航した。困った尼子経久が巫女に相談すると

「月の紋が染め抜かれた着物を着た娘を人柱にしたら工事は成功する。」

と神託が降り、盆踊りの場から月の紋が入った着物を着た娘を連れ去り修築場所で人柱にした所、以後の工事が無事終わった。
この人柱の儀式の時、娘の霊を慰める為に太鼓を叩きながら儀式が行われたのだが、娘を人柱にした日が近づくと山頂から城へ太鼓の音が聞こえて来るようになり、人々はこれを米原太鼓と呼んだ。
米原太鼓には米子市にも伝説があり、水に苦労した市内の弓ヶ浜へ水路を引く際、米原まで来た所で工事が難航。
当地の盆太鼓が上手な青年が人柱になり、青年は太鼓を打ち鳴らしながら人柱となった。
また、盆太鼓が上手な娘が居たがある年、仕事の後に盆踊りを教えてくたくたになって帰った所、翌朝起きる事が出来なかった。
意地悪な継母が焼き火箸で娘を撃ち殺してしまい、これらの事件の後盆が近づくと地面から悲しげな太鼓の音が聞こえる様になり、米子の人々はこれを米原太鼓と呼んだと言う。
(書籍:本当は怖い日本の城と米子の伝承より)
これにて人ばしRushは一旦おしまい
443 :
人間七七四年
2016/12/18(日) 07:42:42.76 ID:Ze9a2Qhj
>>442
×盆太鼓が上手な娘
○盆踊りが上手な娘
444 :
2016/12/18(日) 07:53:42.56 ID:0J/EbjXH
人ばしrush
445 :
人間七七四年
2016/12/18(日) 07:59:45.06 ID:Ze9a2Qhj
>>444
ここ毎日人柱の逸話上げてたもんだからつい…
446 :
人間七七四年
2016/12/18(日) 08:28:12.44 ID:sfFYV6q2
盆太鼓が上手なむす… 娘…
http://i.imgur.com/6SrpY29.jpg
447 :
人間七七四年
2016/12/20(火) 23:24:58.34 ID:hzpAUNNI
薩隅の戦国食べ物? ねったぼ

ねったぼは蒸した唐芋(サツマイモ)と餅、砂糖などで作る餅で、ぼったぼったと練ってつくことから
その名がついたといわれる、鹿児島県や宮崎県の都城地方などで食べられている郷土料理です。
(砂糖の入ったきな粉をまぶして食べます。餡子が入っている場合もあります)
地域により、からいもんねったぼ、からいものねったぼ、からいもねったぼ、ねったんぼ、ねったくり、
からいも餅、ねりくりとも呼ばれます。

サツマイモの食べ物の話だと、スレ違いではと思われるかもしれませんが、
徳田大兵衛(侏儒どん)のことを書いている文で気になるものがありましたので・・・

「大兵衛殿は五十歳余りの時、都之城なる北郷殿宅にて年かさの餅を喰はせられ、咽喉に引き懸かり、
即ち相果てられし人にて候由」(薩藩舊傳集)

侏儒どんが現在の宮崎県都城市の北郷殿の屋敷で出された「年かさの餅」を咽喉につまらせて
なくなったとありますが、鹿児島で「年かさの餅」(鹿児島弁では「とっかさ」)とは
正月の餅を搗くとき、最後の一くぼ(餅米一臼分)に、煮たさつまいもを入れて搗きあげたもので、
ねったぼと同じものなのです。昔と今とでは違うのではと思われるかもしれませんが、
侏儒どんの話がまとめられている「日当山侏儒戯言」にも、
「年かさの餅とは薩摩独特の唐芋と餅とを搗きまぜたものだという説もあり」と書かれています。
(侏儒どんがなくなったのが、寛永十一年正月十六日(1634年2月13日))

前に鹿児島大学の焼酎学の先生から、
1611年に琉球征伐の後始末に残っていた薩摩の兵が薩摩芋を土産に持ち帰った。
1615年には琉球から種子島家に薩摩芋が送られた。
と聞いたことがあるので、栽培は出来てなくても手に入れることは出来たようなので、
貴重なものとして、正月用の祝いの餅にまぜこんだのかもしれません。

「日当山侏儒戯言」では、
「侏儒が正月北郷殿へ行って餅か出た時、ナニ此の位のなら唯一口で喰はれるとか何とか言って
喰ったところが、ソレが咽喉に閊へて遂に命を落としたのではあるまいか、若し予の想像通りとすれば、
彼は遂に滑稽の為に死んだのである」と書いてあって切ない。
448 :
人間七七四年
2016/12/21(水) 06:47:03.33 ID:Ex3Uxlra
>>447
餅は古来よりの殺人食ってはっきりわかんだね
449 :
2016/12/22(木) 00:23:23.28 ID:qpvz8I6l
同月(慶長20年5月)、真田左衛門佐幸村〈又云ふ信為〉の妻女が紀州
伊都郡に忍んでいたのを、浅野但馬守(長晟)の家人が召し捕って来た。

闕所(没収)の黄金57枚、並びに秀頼から真田に与えられた来国俊の
脇差を添えて進上した。件の2品は即座に但馬守へ下しなさったという。

――『関難間記』
450 :
人間七七四年
2016/12/23(金) 19:45:13.14 ID:uDiWfu+v
中村家廃絶の話 〜正室、於さめの方側室の子を嗣子と認めず〜

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9105.html

にも少し書いてある話になるが、

中村一忠は11歳で家督を継ぎ、伯父で執政家老の横田内膳が政務を取り仕切っていた。独裁的であったようだが、米子城を完成し、新たに城下町をつくり、現在の米子の基礎固めを行っている。
重臣の安井清一郎や、茶道の師である天野宗把など、内膳のやりかたに不満のある者たちが、一忠にそろそろ政務をご自分の手に、とそそのかした。
これにのった一忠は、慶長八年(一六〇三)十一月十四日に、一忠と於さめ姫との許婚の儀が米子城で盛大に行われたあとで内膳にいきなり斬りつけた。
しかし、一忠は仕損じてしまい、次の間に控えていた家臣がようやく斬り伏せ殺害した。
直後、横田内膳の息子や柳生但馬守宗矩の兄、五郎右衛門らによる米子騒動が起き、隣国出雲月山富田城城主、
堀尾吉晴の助けもあって事態は一忠側の勝利で収集したものの幕府は、安井、天野の両人に切腹を命じた。
また江戸へ呼び出された一忠はさまざまに弁明したものの、品川宿で謹慎を命じられた後許されている。
一忠の叔父中村一栄(かずよし)は、家臣の梅里伯清の娘を一忠の側室にと推挙し慶長九年(一六〇四)、梅里の娘は十四歳で米子城へお国御前として上がる。
正室於さめ姫は江戸屋敷に常住した為お国御前は正室に次ぐ格があった。

一忠には京にも京屋敷があり、これは豊臣時代からの屋敷で一忠の生まれ育った所であった。

京屋敷の家老矢野正倫(まさとも)も京の側室を推挙した。庄屋の娘であったが、美人で物腰やわらかな、明るい娘であったようだ。

余談だが家康は大名たちの側室の人数について、大名は八人という目安をもうけている。一忠も江戸、京、米子と、上屋敷、下屋敷に八人くらいの側室はいたのかもしれない。

元服の際一忠は、松平の称号を許され、将軍秀忠の諱名を賜り、忠一と名乗りを改めた。

於さめ姫には、姫つきの女中があまた随ってきたが、それとは別に忠一付きの側女中が二人、どこからか配置されてきた。この二人はこまめに忠一の身の回りの世話をした。周囲の者に明かすことのできない、重要な任務を帯びて中村家に乗り込んできていた。

側女中の二人がきてより、忠一の体調はしだいに悪くなり、疲労感が色濃くなっていった。

江戸屋敷にいる於さめ姫は、忠一が江戸にあっても、別棟の御主殿にいて、昼間は忠一と会うことはなかったが、輝姫という女の子を産んでいる。ついで、京の側室も出産し、こちらは男子で小武と名づけられた。

慶長十四年(一六〇九)五月、江戸、京、とまわって米子へ帰国した忠一は、だれの目にもわかるほど衰弱していた。

旅の道中に例の側女中もつき従い、十二分に忠一の面倒をみたが、お国御前の側室が側女中をあやしんで、見張り役を派遣したが、確証は得られなかった。

川狩りに行くと気分もよく元気が出るような気がして、忠一は最後の川狩りに出かけた。だがほどなく帰ってきた忠一は、すぐ寝所に入った。近習がかけつけた時、忠一はすでに死んでいた。いまだ二十歳の若い藩主の死去であった。

忠一の顔には薄く斑点が浮き、それを消すためにか、側女中は顔や身体中をなでさすっていた。これをとがめられた側女中は逃げ出して再びその姿を見た者はいなかった。

この後藩主の亡くなった米子城に幕府の裁定が下り、中村家は子なき故断絶と決まった。

京の側室には、男子の小武がありながら、また米子の御国御前も当時忠一の子を妊娠していたのにである。
これは正室である於さめ姫が「おおかた、どこからか連れてきた子であろう。けしからぬことだ」
と、柳眉をさかだてた鶴の一声の為であり、この為十八万石の米子中村家は、お取り潰しになってしまった。
中村忠一の死後、妊娠していた米子の御国御前も隠棲して男子を産んだがこれらの子らのその後に関しては九州方面の大名の家臣となったり、京都で出家したり、
また中村一氏の正室は池田信輝の子で あった事から池田家と親籍となり、鳥取池田家に迎えられたと言う。
正室、於さめの方に関してはこの四年後の慶長十八年(1613年)に毛利秀元の継室(浄明院)として嫁いだとされる。

(因伯戦国時代の女性たち、鳥取県史より)
451 :
人間七七四年
2016/12/23(金) 19:58:11.05 ID:uDiWfu+v
>>450
追記として、米子騒動の横田内膳は既出の話にある通り藩主を蔑ろにした奸臣と言う風に中村記などの中村家側の資料に書かれているが、
実録が伝える村詮専横を忠臣が藩主とともに絶つという筋からは、到底こういう処分にはなるはずがない。幕府では実録が伝えるのとは、まったく違う見方をしていたのだった。
「徳川実紀」では、忠一(一忠ではない)15歳、その行いは凶暴であり、横田内膳(村詮)が何度も諌めたが、これに怒った忠一が宴にことよせて自ら殺害、
更に居城飯山に立て籠もった一党を隣国堀尾の軍勢を得て鎮圧した、と記すという。
新井白石の「藩翰譜」もほぼ同様であるといい、この騒動を聞いた家康は、幼弱な藩主一忠を諌めるべき家臣が、その責を果たさずに迎合し、騒動を引き起こしたことを厳しく咎め、安井らに腹を切らせたとされている。
452 :
2016/12/23(金) 20:56:32.91 ID:iLzbCdiU
自分が任命した補佐役の村詮を殺されたから家康は怒ったんでしょ?
453 :
2016/12/23(金) 21:06:02.20 ID:TmvAbk2q
よくあることとはいえまるっきり話が違うw
454 :
人間七七四年
2016/12/23(金) 21:14:22.59 ID:uDiWfu+v
>>452
それも有るし、養女とは言え娘の婚礼の宴を利用して功臣の排斥行ったらそりゃあもう味噌様だって怒りが有頂天でしょうよ
455 :
人間七七四年
2016/12/24(土) 00:09:06.06 ID:vAaOz2Je
池田輝政の死因

      ある日、姫路城の池田輝政に
       手紙が届きますた・・・
          _____
         / ヽ____//
         /   /   /
        /   /   /
        /   /   /
       / 刑 /   /
       / 部 /   /
      /   /   /
       ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

         | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
         |                    |
         |   前略 池田輝政 様   |
       /    ̄ ̄ ̄ ̄     /____
       / 呪いを掛けました /ヽ__//
.     /        殺すぞ   /   /    /
.     / 死にたくなかったら/   /    /
    / 大八天神を祀れ___   ./   /    /
   /        刑部   /  ./    /
 /             /   /    /
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/   /    /


スルーした池田輝政は徐々に体調がおかしくなり、慌てて言う通りにしましたが時すでにお寿司。そのまま悶死したそうな。めでたしめでたし。
      r ‐、
      | ○ |         r‐‐、     
     _,;ト - イ、      ∧l☆│∧  良い子の諸君!
   (⌒`    ⌒ヽ   /,、,,ト.-イ/,、 l  困った時の神頼み!
    |ヽ  ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒) 
   │ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /| とよく言うが、
   │  〉    |│  |`ー^ー― r' | 困った時に神頼みしても
   │ /───| |  |/ |  l  ト、 |  手遅れな場合もあるから気をつけるんだぞ!
   |  irー-、 ー ,} |    /     i      
   | /   `X´ ヽ    /   入  | 普段から神様祭事慶弔行事は大事にするんだぞ!


本当は怖い日本の城より
456 :
人間七七四年
2016/12/24(土) 00:35:11.91 ID:vAaOz2Je
>姫路城の怪異と輝政の死・天守の五層目に、夜な夜な怪しい灯火がともされたり、真夜中に突然大きな太鼓の音とともに悪鬼が現れて人々をとり殺したり、
あるいは夜半に大勢の女子供の泣きわめく声が突如として、湧き起こったりした。さらに若い女中がさらわれたり、白昼傘をさしたまま侍が空中に吊り上げられるなど、
不気味な事件が昼夜の別なく城内のあちこちでありました。
ついに怪異は、輝政本人をも襲いました。輝政の枕元に現れた美しい上臈が、近日中に病気になるだろうと予言した。天守閣が完成した直後の慶長十四年には、実際に奇妙な書状が届けられた。
『播磨主大天神東禅坊・都の主千松』なる人物から輝政・督姫・輝政の母に宛てた文で、『此九月にもな、物にくるいつるおな、きつねよなとかつてん(合点)しつるかな、
これもとうとみのくに(遠江国)の天神そや、すなわちくわん(願)あかりてな、三りんほうが、はやはやよりんほうになりたるそや伝々』
と言う様な呪いの言葉が、書き連ねられていた。その要旨は、『遠江の四りん坊なる天神(天狗)が三りん坊なる天神を誘って姫路城の鬼門から侵入し、輝政らの命を奪おうとしている』
この呪いから逃れる為には、城の鬼門に『八天塔』すなわち『八天大塔護摩堂』を建立し、大八天神を祀って護摩の秘法で祈祷を納めなければならない。
と言う様な意味でした。この怪文書は、現在、小野市浄土寺と多可郡円満寺に所蔵されていると言います。
剛毅な輝政が打ち捨てていたところ、城内で怪異がつづき、とうとう輝政自身も病の床についた。さすがに気味悪く、輝政は八天堂を建立、
円満寺の僧を招いて悪魔調伏の護摩修法を行った。だが時すでに遅し、輝政は外出中、にわかに苦しみだし、急ぎ帰城する途中、輿にカラスが次々にぶち当たって来た。
この後、輝政は一時的に回復したが、病室の障子や壁に群れをなしたカラスが突き当たってはバタバタと、地上に落ちて死ぬなど不吉な現象が続き、慶長十八、ついに帰らぬ人となった。

おそらくは中気の再発だろうが、ただ、吐血して突然死を遂げた事から、毒殺の噂が立ちました。

http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1268371737

後、祥伝社文庫の『江戸の怪』中江克己 著
にも少し内容が異なるけど池田輝政怪死の話が載ってる模様
457 :
2016/12/24(土) 07:18:59.17 ID:dgj9qo97
どうせなら鴉じゃなくて蝙蝠にすりゃええのに
458 :
人間七七四年
2016/12/24(土) 08:23:15.36 ID:vAaOz2Je
>>457
    (\_/)
  /( (゚(M)゚) ハ 日中仕事するとか眠たい
 / | Y (゚Д゚)Y|
`| |  (ノミミミ|)||
 \(⌒Yミミミノ⌒)/
     ∪∪
459 :
2016/12/24(土) 08:36:03.66 ID:dgj9qo97
いや、石燕は蝙蝠と一緒に長壁姫を描いてるからさ

てか、知恵袋から引っ張ってきたのか
460 :
2016/12/24(土) 09:23:19.51 ID:aP1ZLklG
根岸鎮衛「知恵袋とは耳嚢(みみぶくろ)のようなものですか?」
461 :
人間七七四年
2016/12/24(土) 09:27:49.94 ID:vAaOz2Je
>>459
知恵袋は書き込んだ後で見つけた。
祥伝社文庫の本に載ってるのとでまた若干細部が違うし、池田輝政 死因 呪い とか、姫路城 呪い でggってみるとよろしよ
462 :
人間七七四年
2016/12/24(土) 11:47:20.54 ID:vAaOz2Je
>>460
左様ですな、現代に於ける様々な人々の言葉が詰まったさながら塵袋、芥袋と呼ぶに相応しき物かと存じます
463 :
2016/12/24(土) 14:37:00.84 ID:TsTbPz9n
結城秀康の死去/家康怒りの改葬


結城秀康は慶長12年には父家康により伏見城番に任じられたものの病が重くなり
3月1日に伏見から越前に帰国したものの、同年閏4月8日に34歳で死去した。
嫡男の忠直が江戸にいたため葬儀は大幅に遅れてしまい、わざわざ北庄まで
弔問にきた毛利輝元も痺れを切らして帰国してしまったという(『毛利家文書』)。

秀康は結城家菩提所の曹洞宗の寺、福井孝顕寺(結城氏は代々禅宗だった)に葬送され
孝顕寺殿吹毛月珊大居士と称したものの、それを聞いた家康が
「我が家の者は浄土宗である、結城を名乗っているのならともかく
 既に復姓し松平となっているのに、このたび禅宗に改めるとは何事か!」
と激怒した為家康の意向により、知恩院から満誉大僧正を導師として下向させ
満誉を開基とした浄光院(のち運正寺)を同年中に建立し、浄土宗へ改葬させて、
法号も浄光院殿と改められたという(『知恩院古記録』)。


――『福井県史』など
464 :
2016/12/24(土) 16:11:14.91 ID:tyQB9IgX
増上寺は浄土宗だけど寛永寺は天台宗なんだが...
465 :
人間七七四年
2016/12/24(土) 16:53:28.04 ID:+Oh64i4Z
466 :
2016/12/24(土) 19:43:17.14 ID:RwZ7R4NO
>>454
まてまて「怒りが有頂天」は無いだろう。
「怒り心頭」とか「怒髪天を衝く」がごっちゃになってるよ
467 :
2016/12/24(土) 20:17:22.79 ID:B+sxctzO
>>466
ネットスラングだよ。こういうスレで使うのもどうかと思うがw
468 :
人間七七四年
2016/12/25(日) 06:35:18.93 ID:DQ39pmTE
怒りが頂点に達した時に使用するネットスラング。

元ネタはブロントさんと呼ばれる2chネトゲ実況版に書き込みを行っていたユーザーの書き込みから。

75 名前:既にその名前は使われています投稿日:03/10/30 16:38 ID:QcBxXqoc
お前らは一級廃人のおれの足元にも及ばない貧弱一般人
その一般人どもが一級廃人のおれに対してナメタ言葉を使うことでおれの怒りが有頂天になった
この怒りはしばらくおさまる事を知らない


76 名前:既にその名前は使われています 投稿日:03/10/30 16:39 xu+t+yG6
有頂天になるんか。

http://d.hatena.ne.jp/keywordtouch/%B2%B6%A4%CE%C5%DC%A4%EA%A4%AC%CD%AD%C4%BA%C5%B7



ブロントさんが初めて使ってから13年か…
知らない人も出て来る時期なんだなぁ…
469 :
人間七七四年
2016/12/25(日) 13:59:44.19 ID:M0CotmXw
仙谷由人 - 菅直人政権で官房長官として辣腕を振るい、九州征伐における秀久の見事な采配をなぞらえて、昔仙石、今仙谷と称えられている。
470 :
2016/12/25(日) 16:42:45.52 ID:Q7BnC5SF
>>469
マジでwikipediaに書いてあって吹いた
471 :
2016/12/25(日) 18:03:02.11 ID:C10c0Kmk
徳島から出てるなら
引田の戦いの方がよくないか
472 :
2016/12/25(日) 21:09:54.49 ID:SyPr8TpB
きたない忍者とかはいい悪いスレにも登場してた貴ガス
473 :
2016/12/26(月) 00:23:43.07 ID:foN7RzHZ
仙石被害者の会会長十河存保「三好は仙谷の選挙区じゃないからそれはそれ。我々は今後も仙石を許しません」
474 :
2016/12/26(月) 02:48:27.59 ID:zP/1P0kc
さのばびっちは讃岐にカエレ
475 :
人間七七四年
2016/12/26(月) 07:21:34.34 ID:4gAKK4SP
全ての水は讃岐につながる

      ∧_∧           瀬戸内海放送   ∧_∧ 
      (´;ω;`)  _              _   (`・ω・´) 岡山
       伯方   |\ \ 塩         /  /
           恫喝\  \         /  /
                \  \|     /  |/ 
           電気      ̄        OHK    恫喝
   ∧_∧    ――→    ∧_∧        ――→   (⌒)豪(⌒)
   (´;ω;`)          ( ´・ω・) 香川             (´;●;`)
    愛媛    ←――   (っ=|||o)        ←――  オーストラリア
            恫喝 _         _        小麦
               /|     \  |\
           鰹 /     恫喝.\   \ 水
            /            \|  \
          /  無視          ̄
     ∧_∧                  ∧_∧
    (´;ω;`)                 (`;ω;´)
      高知                    徳島
476 :
2016/12/27(火) 04:54:42.37 ID:M9KwdTmq
さきの土井大炊頭(利勝)は、

権現様(徳川家康)の御乳人の召使いに“松”という女がおり、これを
榊原の家来・土井氏と出合わせて持った子である。

一説には大方様(於大の方)の女房たちの子であるという。であれば、
水野下野守(信元)の落胤だろうか。

この両説は、確かには分からない。

――『武功雑記』
477 :
2016/12/28(水) 19:42:25.71 ID:m8Fp3flN
>>474
仙石被害者の会副会長「弟の名はまざーふぁっかーだが親ではなく姪に盛る(泣)。それもこれも仙石のせいだ」
478 :
2016/12/29(木) 23:56:25.95 ID:KzpI/vYO
唐入り戦間期の頃、李舜臣が失脚し元均が統制使(朝鮮水軍の司令官)になった時の話。

私(安邦俊)の叔父である東巌公の妻が元均の親族だったので
統制使となった元均が私の家を訪ねてきてこう言った。

「何がうれしいってをこの肩書になったことで栄華を極めたことなどではなく
李舜臣に対する恥辱を雪ぐことになったことが何より嬉しい」

これを聞いた東巌公はこう答えた。

「あなたが充分に忠節を尽くして敵を打ち破りその功績が李舜臣を上回った時こそ恥辱を雪いだと言える。
ただ李舜臣の肩書になり替わっただけで嬉しいとは…。恥を知れ!」

(隠峰全書)
479 :
2016/12/30(金) 00:16:58.55 ID:vzqPZiwu
誤った文で送信してしまったので再投稿



唐入り戦間期の頃、李舜臣が失脚し元均が統制使(朝鮮水軍の司令官)になった時の話。

私(安邦俊)の叔父である東巌公の妻が元均の親族だったので
統制使となった元均が私の家を訪ねてきてこう言った。

「何がうれしいってをこの肩書になったことで栄華を極めたことなどではなく
李舜臣に対する恥辱を雪ぐことになったことが何より嬉しい」

これを聞いた東巌公はこう答えた。

「あなたが充分に忠節を尽くして敵を打ち破りその功績が李舜臣を上回った時こそ恥辱を雪いだと言える。
ただ李舜臣の肩書になり替わっただけで嬉しいとは…。恥を知れ!」


すると元均は

「私が敵と戦う時は遠ければ片箭(弓)を使い近ければ長箭(槍か?)を使い
ぶつかり合う時は剣と気合を使うので勝てないわけがないだろう」

といった。

東巌公は笑って

「隊長なのに刀を振るわねばならないのか?」

と答えた。
元均が帰った後、東巌公が私に

「元均の人柄を見るに将来は立身すると思っていたが間違っていた。
 元均は趙括や騎劫と言った古の武将と似たような男ではないだろうか」

としばらく嘆いたという。


(隠峰全書)
480 :
2016/12/30(金) 01:35:34.08 ID:n4CSvgAi
 大坂で井伊掃部(直孝)の先駆けを務めた庵原介右衛門の嫡子主税之介は、
一番乗りに進んで雌雄を争っていると敵に組み伏せられてしまった。
そこへ介右衛門が来たが、あえて子を救わなかった。
主税之介はやっとのことで勝利を得て敵の首を獲った。

 後で傍らの人がどうして子の難を救わなかったのかと尋ねると、
介右衛門は「私も子を不憫に思っていた」とだけ答えたという。

『武士としては』
481 :
2016/12/30(金) 07:43:55.43 ID:WLioW0wL
>>469
「九州征伐における秀久の見事な采配」ってなんだよww
長宗我部信親らを殺したってことは、
仙谷も見事に殺しまくったってかww
482 :
2016/12/30(金) 11:45:35.74 ID:tEa8f4gc
>>481
なんだ皮肉程度も解せないバカがこのスレにいるのか(笑)
483 :
2016/12/30(金) 17:55:46.04 ID:YNI+lkj3
はい草
484 :
2016/12/30(金) 20:33:02.40 ID:T9EaeWR+
485 :
2016/12/30(金) 20:56:44.53 ID:BImuGQqE
たびたびこういうの見かけるけど寺ってどんだけいい加減なんだ
486 :
2016/12/30(金) 21:39:30.18 ID:GyTo8wUi
親族だし
源頼朝→足利直義
足利尊氏→高師直
武田信玄→畠山義続
とかの説よりはマシな気が
487 :
人間七七四年
2017/01/02(月) 11:15:43.31 ID:/Gyz7fw9
水手(かこ)切りと厚藤四郎

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2043.html?sp&sp
↑に纏わるお話

天正20年(1592年)7月、母大政所が危篤という報を受けた秀吉が、肥前名護屋城から水路上洛中、舟が豊前の沖(関門海峡)で浅瀬に乗り上げ、転覆しそうになり秀吉は海中へ投げ出された。
この浅瀬は、地元では「篠瀬(しのせ)」と呼ばれ、満潮時には波の下に見え隠れするために恐れられており、別名「死ノ瀬」とも呼んでいたという。これに加え、この地域独特の「戸ノ上下ろし」と呼ばれる激しい突風が合わさり、古来難所として知られていた。
秀吉は危うく遭難する所であったが、護衛にあたっていた後続の毛利秀元の船に救い出されて難を逃れ、この功により秀元は名物「厚藤四郎」を拝領した。

太閤肥前名護屋より帰洛の節赤間ヶ関にて乗船座礁したる時秀元僅かに十四歳小船を漕寄せ太閤を救ひまへらせしにより海岸の砂原にて秀元に賜りし由物語にあり

この時秀吉は、海難と大政所の臨終に間に合わなくなるという怒りから、水手の頭明石与次兵衛をこの時佩刀していた、備前三郎国宗で手討にしようとしたと伝わる。

その為、この備前三郎国宗に水手(かこ=船頭または船乗りの意)切りの名が付いたと言う。
488 :
人間七七四年
2017/01/02(月) 11:21:21.59 ID:/Gyz7fw9
異説として、この際毛利秀元の懇願により、明石与次兵衛は打首ではなく切腹(当時の武士としては名誉の死)に処されたという。
明石与次兵衛は柳ヶ浦の浜で自害するが、地元では与次兵衛の不運を哀れんで遺体を浜に手厚く葬り、目印に一本の松の木を植え、
後に「明石松」と呼ばれたという。また篠瀬も同様に「与次兵衛ヶ瀬」と呼ばれるようになったという。
のち、慶長5年(1600年)に黒田孝高の後に細川忠興が豊前に入部する際、この明石与次兵衛が事故当時に細川家の組下であったことから、
与次兵衛の死を悼みまた航海の安全を祈願して、船が座礁した暗礁に明石与次兵衛の塔を建てさせている。
その後この石塔は何度も流されるが、そのたびに建てなおされている。しかし文政11年(1828年)の嵐の際に大波にあおられ、ついに海中に流されてしまったという。
文政年間に柳ヶ浦一帯の民の手により再建されるが、大正年間に旧日本海軍が航路を確保する目的で暗礁を爆破する際に、石塔は海中投棄されてしまった。しかし戦後、昭和29年3月に門司郷土会の有志によって海中から引き上げられ、現在は和布刈めかり公園に建っている。

水手切りはこの明石与次兵衛切腹の際、解釈に使われたとも言われる。

与次兵衛は元は明石(石井)与次兵衛といい、播磨国明石を拠点としていた海賊衆。
その後豊臣秀吉の水軍の将となり、石井の姓を与えられ、四国攻めや九州攻め、小田原攻めなどにおいて活躍したという。
489 :
人間七七四年
2017/01/02(月) 11:22:09.89 ID:/Gyz7fw9
>>488
解釈×
介錯○
490 :
人間七七四年
2017/01/02(月) 11:35:13.41 ID:/Gyz7fw9
>>487の追記として、毛利秀元は秀吉を自らの舟で救助した際、家臣共々秀吉に逆心無き事を示す為、
この時佩いていた自分達の刀を海に投げ捨て、その気遣いや手際の良さから秀吉からその器量を認められ、
後に秀吉養女の大善院(秀長娘)を妻として迎える事になったり慶長の役で若輩にも関わらず病身の輝元の代わりに右軍総大将を任されたと言う。
491 :
2017/01/03(火) 14:12:08.99 ID:NcThKzBi
関が原が始まろうとする頃、伊達政宗は自領への帰還を急ぎ、相馬領を通過する。
ここで政宗の家臣である片倉小十郎景綱は、政宗を迎えるためと、鹿島町に先行してそこの宿泊した。
この鹿島町は田中城の近辺であり、田中城には相馬家当主・相馬義胤の父、盛胤の居城であった。

片倉小十郎は草野左馬充、鈴木掃部左衛門を案内として、盛胤の家老である佐藤左近を呼び出し対面した。
左近を通して盛胤に刀、次郎郷胤に脇差しを進上し、その上で左近にこう語った

「今度、政宗は領地への下向につきこう命じました。

『冨塚近江は上下1500の人数にて岩城領に向かえ。我々片倉父子は上下1000人にて御領内の鹿島に
向かえ、矢田勘解由兵衛は上下3000の人数にて駒ヶ嶺領に向かうべし。』

これについて考えるに、世上の浮説ににおいて、佐竹、岩城、相馬、那須の面々が、長尾景勝に同意され、
石田治部少輔に与して家康公に敵対されると言われています。
これに対し我が主君政宗は無二の家康公の御方ですので、これらを警戒する必要があるのです。

憚り多きことですが、相馬と伊達は代々の縁類ですから、私ごときでもそのお為良かれと考え、
全く粗略にすることはありません。

もしも、一旦治部少輔にお志があったとしても、それはお諌めになるべきです。
何故ならば、今天下に、家康公に比するような大将は誰も居ないからです。
治部少や景勝が時の威勢に誇ってとやかく申されようとも、彼らが末まで全う出来る事はありえません。
それに与した人々の家は、滅亡するでしょう。

家にとって大切なのは社稷であり、主人は一代のものですから、時に至っては義を失っても
それは仕方のない事です。ただ期して末の所をよく吟味して頂きたいのです。」

左近はこれに
「底意を残さぬ懇切なお話、委細承りました。これについて先ず、盛胤に聞いてまいります。」
そう答えて退出し、田中城の盛胤に、片倉小十郎の語ったことを逐一申し上げた。
盛胤はこれを聴くと

「世上の浮説について、そういうものも有るだろう。だが我々は全く治部少輔に与していないし、佐竹や
景勝にも与していない。我々の内実は、小十郎も推察しているだろうが、累年の合戦のため諸士はおおかた死に、
今漸く、その子供たちを養育している段階であり、人数を持っていないのだ。なので家康公のお為といっても、
一体何が出来るだろうか?万一、家康公より御催促があれば、その時は50,30であっても召し連れて
参ずるつもりである。

政宗が家康公の御方に参るのならば、伊達との国境に番士を置くべきではない。また伊達家の人数の往来の自由も
認めよう。もし伊達方が相馬に対して隔意を持たれてはどうにも出来ない。内々にこの旨を伝えるように。」
そう語り、佐藤左近は立ち戻りこれを小十郎に詳しく申し聞かせた。

小十郎は
「そういう御心入であれば御家長久、珍重であります。しかし返す返すも、お諌め申し上げるべきです。
義胤公へのお諌めこそ第一です。」
そう申し、政宗に対しても盛胤の考えを伝えた。

片倉小十郎はこの地に1日滞留して、2日目に政宗のお供をして帰っていった。
その後程なく、景勝領であった白石を、政宗が攻め取った。

(奧相茶話記)
492 :
2017/01/03(火) 18:06:49.71 ID:ri5zkNb1
太刀「瀬上がり」

永禄12年(1569年)正月、本圀寺の変の際、
相馬家の堀内俊胤は三好義継の軍勢に加わり、
三好長慶、松永久秀、岩成友通らと戦い敗死した。

家来が俊胤の首を抱えて桂川を渡る際に、
俊胤の佩刀が流れてきたために「瀬上がり」と名付けられた。

堀内俊胤の跡は、奥州三春城主の田村氏の一族である中津川大膳が堀内氏の養子となり、
名跡を継いでいたが後に離縁されて国元へ帰る際、この「瀬上がり」を持って帰ってしまう。
ところが国元で凶事が起こったため、この「瀬上がり」を堀内氏へ返して寄越した。

その後伊達家に近い藤田四郎宗知が堀内氏を継いでいたのだが、
離縁され国元へ帰る際に「瀬上がり」を持って帰るが、
これも同様に奇怪なことが起こったために、
やはり「瀬上がり」を堀内家へ返して寄越したという。

その後は堀内家に伝来した。
493 :
2017/01/05(木) 09:07:42.57 ID:dqYqzxuP
慶長3年7月に、太閤秀吉は、西国の侍は伏見、東国の侍は大阪に詰め秀頼を守り立てるべし、との遺言
を定め、これについて諸大名は徳川家康の屋敷に集まった。
徳川家康が現れると、日本の諸大名はこの日初めて、家康を半ば主人のように敬った。

この人々の中では特に、増田長盛と徳善院の両使は「御意のとおりに致します」と、家康に手を付き、
主人であるかのように敬い申し上げたのである。

五大老五奉行もこの日に定まった。この日の上座は毛利宰相(秀元)であり、彼の振り回しで酒宴となった。
上杉景勝、佐竹義宣、伊達政宗3人の仲直しもこの日であった。
徳川秀忠は勝手に座っていた。

一日間を置いてこの人々は前田利家の屋敷に集まり、霊社上巻の起請文を書いた。

(慶長年中卜斎記)

秀吉死後を見据えて、諸大名の家康への認識が変わった瞬間について。
494 :
2017/01/06(金) 00:27:05.74 ID:HHUrws03
備前国福岡城合戦福井小次郎歌を遺して討死の事

 備前はもとは赤松氏が代々領していたが、嘉吉元年の赤松満祐滅亡の後は山名相模守教之が賜り、
教之は代官の小鴨大和守を備前に住ませた。
応仁の乱の後、備前津高郡金川村の玉松城主松田左近将監元成と細川勝元が語り合い、元成は兵を集めて小鴨を攻めようとした。
そこで散り散りになっていた赤松の家人が元成と組んで小鴨を攻め落とした。
赤松兵部少輔政則(満佑の孫)は元成を賞して伊福の郷に置いた。

 山名宗全と細川勝元が共に病死の後、京都は少し静かとなったが諸国はいよいよ大いに乱れ、
松田の一族どもも備前西郡のうちの多くを押領していた。
政則は将軍家から功を賞せられ、播磨・備前・美作を返してもらったが、
山名右衛門督政豊(宗全の孫)はこれを怒り、文明十一年九月に京都を出て但馬の国に馳せ下った。
 これから政則も播磨に馳せ着いて、ついでに備前の松田がほしいままに攻め取った所を取り戻そうとした。
元成はこのことを聞き

「兵粮の用意のために押領した所は返せるが、伊福の郷は軍功により賜った所なので返す気はない。
これは事にかこつけて我を打ち亡ぼそうという謀であろう。」

と金川に城を構えた。この城は麓に大川が流れ、峰高く、四方が峻険なので要害としてよい地であった。
しかしながら後巻の手だても図り、備後国の山名俊豊(政豊の次男)へ
「備前を切り取って参りましょう」と報告したら俊豊は喜んだ。
政則は備前に赴き、松田が押領して自分の地にした所を取り返していった。

 文明十五年九月、山名も備後の尾道を出て同国国分寺に着き、三千余を駆り集め、
十一月七日に備前の国に打ち入ったら、松田の一族が集まり邑久郡福岡の城の西北の山に陣を取った。
福岡の城は東西に大川が流れていて、その中の島に山があったのでそこに城を築いた。
そこへ政則の守護代喜三郎則国を始めとして二千余人が立て籠もった。
川上の瀬には長船右京亮等が野伏を従えて陣取っていた。
 十一月二十一日に押し寄せて合戦した。
浦上の家人に楢村與三兵衛、同又四郎という兄弟がいた。前に元成に奉公していたが因縁をもっていた。
彼らは密に語らって十一月二十三日の夜半に激しい風に便りとして陣屋に火をかけた。
寄手は内通に力を得てすぐに攻め寄せたが、城中の者が厳しく支えて追い返した。
その後に事が発覚して、楢村兄弟を搦め捕られて誅された。
寄手はその後に図り合って、十二月十三日にまた富岡という小山に兵を出した。
城からも打って出て散々に戦いあい、寄せ手も城兵も討たれた者が多かったという。
495 :
2017/01/06(金) 00:27:38.47 ID:HHUrws03
 この文明十五年十二月十三日備前福岡の戦に、福井小次郎も参加していた。
もとは京都の人であったが、四歳の頃に父の源左衛門が当国の在番の時に連れ下り、
この時には城中にいて二十一歳であった。
 その日の戦では父子の間が敵味方で混雑しおし隔られてしまった。
小次郎は父は城中に入ったと思い、走り帰って探したが見えなかったので、
また城外に打って出て、寄手に向って『福井小次郎!!』と名乗り、縦横に斬って回った。
しかし彼はあまりに戦い疲れていた。結局父を見つけることができず家人が肩にかけて城中へ引き入れた。
浅手深手二十六所も傷を負っていたから、小次郎はとうとう死んでしまった。
 後で父が城に帰って小次郎がの手箱を開いて見ると、多くの書き置きがあった。
その中には母への置き紙もあった。

「幼少から別れていましたので、このまま討死したらお母さまがお嘆きになられるだろう事が心懸かりです。
しばしこの世に残られることになったとしても、終いにはあの世で逢うことができます。
このことをよくお分かりになって、慰めてください。」

と細々と書いてあり、奥に

生れこし親子の契りいかなれば 同じ世にだに隔はつらむ

と書いてあった。「彼は思ひ定めていた討ち死にであったのだな。」と
人は皆、惜しんだという。


(常山紀談)

若干二十一でも、侍は戦場で討ち死にする覚悟を持っている
496 :
2017/01/06(金) 18:23:25.52 ID:DMsbktqS
浅野幸長が早逝したのは


慶長18年8月25日、紀伊国主の浅野幸長が死去した。
近年唐瘡にかかってしまったので、今年は夏中在京した後に
養生のため紀伊に下国されたが、そのまま亡くなられた。
おととしは加藤清正、浅野長政、今年は池田輝政、大久保長安と死んだのは
ひとえに好色ゆえの虚の病という話である。

この浅野幸長も五年前に葛城という遊女を買い、無右衛門尉という傾城を買って
そばに置いて慰まれていたので、その果てに早逝されたとのことだ。
跡を継ぐ息子がいないので、紀伊国は誰が拝領するのだろうかと噂になった。


――『当代記』

大身が相次いで死ぬと、雑にまとめられてしまう悪い例。
497 :
2017/01/06(金) 23:48:38.51 ID:01a7hoED
梅の毒ですね
498 :
2017/01/07(土) 07:29:16.21 ID:fjqhmX6S
再福岡合戦薬師寺額田片岡三士討死の事

 文明十六年正月六日に又福岡で戦があった。
城兵が敗北する所に薬師寺四郎左衛門という者が薙刀を取って返し合せ、
「ここで討死する」と防戦した。
同弥四郎らが四郎左衛門を討たせまいと取って返し、
津坂の山の麓から城際まで僅かの兵で多勢を防いで払い退けた。
寄手の中にも福屋九郎右衛門という剛の者がおり、
鍬形を打った兜をかぶり、隙もなく四郎左衛門に切ってかかった。
ここで、四郎左衛門の家の士が返し合わせて福屋を討つことができた。
 しかし寄手がいよいよ追い詰めてきたので、
薬師寺四郎左衛門、額田十郎左衛門、片岡孫左衛門の三人は
引き返し枕を並べて切り死にした。
これは三人が必ず死を約束したためだという。


 これより前に三人が話した時、次郎左衛門が、

「今回の戦は必ず味方は負けるにちがいない。
松田は元々当国の者なので、後巻を味方から申しても播州の加勢もが来ないだろう。
政則は真弓峠の戦に負けて姫路に引き退いたと聞こえるので、味方は力を失っている。
なので討死すべき身である。人の後れて生きながらえるのは本意ではない。
もう一度戦があったら必ず討死しよう。」

と語った。二人は聞いて、

「我々も皆同じ所存ですぞ。互いに同じ所で討死しましょう。」

と約束した。
 その日、四郎左衛門が打ち出る時に、

「ただ今、敵の手に渡るはずの首である。最後の対面しよう。」

と鏡に向かってニコっと笑って出たとか。
 額田は岡本筑後守に向って、

「子であります又三郎は私のたった一人の子なので、とりわけ不憫であります。
私と一緒にいたら必ず死を逃れられないでしょう。よろしく計らってください。」

と言ってきたので岡本は、「心得た。」と親子引き離したのでこの日には討死しなかった。
 片岡は自分の家来に向って、

「わが首は必ず敵に取られるだろう。これをしるしに死骸を探せ。」

とこよりを左の二の腕に二重に結ばせていたので、
案の定、これをしるしに死骸を求め得たとか。


(常山紀談)

生に執着しないのが武士
499 :
2017/01/07(土) 07:41:37.26 ID:9Z8Rx85u
強姦や強盗など悪逆の限りを尽くしてきたのだから当然ですよね
500 :
2017/01/10(火) 04:28:01.89 ID:XIXVpzdu
 人の禍福は決まっているという事は、珍しくない事である。
が、江口石見(正吉)という者は、さしたる場も聞き及んでもなく、徳が有る人でもない。
されども、幸運な生まれつきなので丹羽五郎左衛門(長重)について万石を領した。
朝倉能登は首供養を三回もした武功の者であるが、北条氏康のもとで五百石を領したとか。

 茶臼と石臼の替わりがあるように、世間で言う福耳というものがあるのだろうか。
これを見て必ず羨ましがってはならない。
自分は自分で生まれ持ったものがあり、ふさわしくない事を願い無理に利を得れば滅亡することも早くなるのである。


『武士としては』

江口さんにやたら厳しい
501 :
2017/01/11(水) 19:41:29.26 ID:JXo5ixzE
豊臣秀次は高野山に上り、木喰上人の坊へと案内された。木喰上人は秀次の来訪を大いに驚き、
急ぎ招き入れ「只今の御登山は思いもよらぬことです。」と涙を流した。秀次は何も言わず、
袖を顔に当てて涙にむせんでいたが、
「私はこのような事が起こるとは思いもよらず、世にあった頃、気をつけることもなかった。
今更浅ましいことであるが、今にも伏見より検使がくれば、私は自害する事になるだろう。
そうなった跡の事は、一体誰に頼めばいいだろうか。」
そう、涙ぐんで尋ねた。

「御諚ではありますが、当山の衆徒一同に訴えれば、太閤殿下がどれほど憤り深くあられようと、
どうしてその御命令を承知するでしょうか?」
木喰上人はそう頼もしく答えた。

秀次はそこで法体と成り、道意居士と名乗った。供の者達も皆髻を切って、ひとえに来世を祈り、
上使を今か今かと待っていた所、福島左衛門大夫正則、福原左馬助長堯、池田伊予守景雄を大将として、
都合1万余騎、7月13日の申の刻(午後4時頃)伏見を立ち、14日の暮れ方に高野山に到着した。
3人の上使は、木喰上人の庵室に入った。この時秀次は大師の御廟所に詣でるため、奥院に居たが、
これを知らされ戻り、3人と対面した。

福島正則は畏まり、法体姿に変わった秀次を見て涙を流した。秀次は言った
「汝らは、私を討ちに来たのだな。この法師一人を討とうとして、由々しき振る舞いではないか。」

福原が畏まって申し上げた
「その通りです。御介錯仕れとの上意にて候。」

「さては我が首を討とうと思ったか。しかしお前はいかなる剣を持っているのか?
私も腹を切れば、その首を討たせるために、形のごとく太刀を持っているぞ。さあ、汝たちに
見せてやろう。」

そう言って3尺5寸ある金造の帯刀をするりと抜き、「これを見よ」と言った。
秀次は福原左馬助が若輩であり、推参を申したと思い、重ねて物申せば斬って捨てると考えているようであった。
秀次の3人の小姓は秀次の気色を見て、少しでも動けば、秀次が手にかけるまでもなく自分たちで
斬り捨てるのだと、互いに目と目を合わせて刀の柄に手をかけていた。その有様はいかなる天魔鬼神も退くように思えた。

秀次は刀を鞘に収めると、
「お前たちは私が今まで存命しているのを、さぞや臆したためだと思っているだろう。
私も伏見を出た時に、どうとでも慣れと切腹を思ったが、上意を待たずに切腹すれば
『はやり自身に誤りがあったからこそ自害を急いだのだ』と言われ、これにより責任の無い者たちまで
多く命を失うことになるとの懸念から、今まで生きていたのだ。

今は最期の用意をしよう。故なき讒言によって私はこうなってしまったが、私に仕える者に一人も
罪有る者は居ない。良きように言上し、申し扶けて、私への饗応にしてほしい。
この事、相構えて汝らに、頼むぞ。」
一座の者たちはこれを聞き、有り難き御志と感じ入った。

そうして座を立つと、最後の用意を初めた。しかしここに木喰上人はじめ一山の衆徒が集まり、
3人の上使に対して抗議をした
「当山は七百余年このかた、この山に登った人の命を害したこと、その例ありません。
一旦この旨を太閤殿下に言上していただきたい!」

3人はしかし「そうではあろうが、とても叶うことではない。」と説得した。それでも衆徒の抗議は
止まなかった。ここで福島正則が進み出て
「衆徒の言うこと、尤もである。だがこれ以上時刻を費やせば、お前たちまで太閤殿下の勘気を蒙り、
腹切れと言われるだろう。それでも言上したいと言うなら、先ずここに居る我々3人を衆徒の者達が
手に懸けよ。その後はお前たちの心次第だ。」
そう、膝を立てて言うと、所詮は出家の事ゆえ、上人はじめ一山の衆徒も、力及ばず立ち去った。

その夜はこのような評議に時遷り、漸く曙になると、巳の刻(午前9時頃)に秀次の御最後となり、その有様は非常に神妙に見え聞こえた。
彼は付き従った人々を召して、
「汝らこれまでの志こそ、返す返すも浅からぬ。多くの者達のその中で、数人が最後の供をするというのも、前世の宿縁というものだろう。」
502 :
2017/01/11(水) 19:42:20.88 ID:JXo5ixzE
そう涙を流した。そして3人の小姓たちに
「若き者達だから、最後の程も心もとない。その上自ら腹切ると聞けば、それを妨害しようと雑兵共が
乱れ入って、事騒がしくなるのも見苦しい。」
そう考え、山本主膳に国吉の脇差を与え、「これにて腹切れ」というと、主膳承り、
「私は御介錯仕り、その後にこそと思っていましたが、先に参り死出三途にて、道を清めておきましょう。」
そう言ってニッコリと笑い戯れた姿は優美ですらあった。
彼は脇差を押しいただくと、西に向かい十念して、腹十文字に掻っ切って、五臓を腹から繰り出した所を、
秀次が手にかけて討った。この時19歳。

次に岡三十郎を召して「汝もこれにて腹切るべし」と、厚藤四郎の9寸8分を与えた。
「承り候」とこれも19歳であったが、さも神妙に腹を切り、また秀次が手にかけて討った。

3番目の不破万作には、しのぎ藤四郎を与え、「汝も我が手にかかれ。」というと、「辱し」と脇差を頂戴した。
彼はこの時17歳。日本に隠れなき美少年であり、雪よりも白い肌を押し開き、初花がやや綻ぶ風情なのを、
嵐の風に吹き散らされるように、弓手の乳の上に突き立て、目手の細腰まで引き下げた。
秀次はこれを見て「いみじくも仕りたり!」と太刀を振り上げると、首は前に落ちた。
誠に彼らを人手に掛けたくないと思われた、その寵愛のほどこそ浅からぬものであった。

その後、秀次は僧侶の立西堂を呼んで伝えた
「その方は出家であるから、誰も咎めるものは居ない。ここから急ぎ都に上り、私の後世を弔うように。」
しかし
「これまで供奉仕ったというのに、今更都に上って何の楽しみがあるでしょうか?
私も厚恩深き者ですから、出家であるからと言って逃げることなど出来るでしょうか?
僅かに命を永らえるために都に上り、人手に掛かるなど考えもできません。」そう言い切った。
この僧は博学多才、和漢の書に詳しく当檀那の弁を持っていたのに、秀次の酒宴遊興の伽僧となった事で、
多くの人々から宜しからぬ人物と思われていた。それが最後の供まで仕るのも不思議な事である。

次に秀次は篠部淡路守を召して
「この度私の後を慕い、ここまで参った志、生々世々まで報じ難いものである。汝は特に、私を介錯した後、供をせよ。」

淡路は畏まり、大いに悦んだ。
「今度、その跡を慕い参らんと思っている者達はどれほど居ることでしょうか。その中でそれがしは
武運にかない、御最後の供を申し付けられただけでなく、御介錯まで仰せ付けられました。今生の望み、何事かこれに過ぎるでしょう。」

これを聞いて秀次は心地よさげに静かに笑い、両目を閉じ、「迷故三界城悟故十方空」と観念して後、
「ならば、腰の物を」と申し付けた。
篠部は1尺4寸の正宗の脇差の中巻きしたものを差し上げた。
秀次はこれを右手にとり、左手で心元を押し下げ、弓手の脇に突き立てると、目手にキッと引き回し、
腰骨に少しかかったと見えた所で、篠部淡路守が刀を構えた。しかし秀次は「暫く待て!」と、
さらに取り直して胸先から押し下げた。ここで篠部は秀次の首を討った。

惜しむべきかな。御年31を一期として、南山千秋の露と消えられたのだ。哀れと言うにも余りあるではないか。
そして立西堂は死骸を収めると、これも秀次の供をした。

篠部淡路守は関白秀次の死骸を拝して後、3人の検使に対し
「それがしは不肖ですが、この度秀次様の後を慕った恩分に、介錯を仰せ付けられました。誠に弓矢都っての面目です。」

そう言うやいなや1尺3寸平作の脇差を腹に二回刺したが、切っ先が五寸ばかり背に貫いた。
更に刀を取り直し、首に押し当て、左右の手をかけて、前へと押し落とすと、頸は膝に抱かれ、身体はその上に重なった。
これを見た人は目を驚かし、諸人一同に「嗚呼」と感じ入った。

木村常陸も摂津茨木にて腹を斬った。その子木村志摩助は北山に隠れていたが、父の最期を聞いて、その日寺町正行寺にて自害して果てた。
熊谷大膳は嵯峨の二尊院にて腹を斬り、白井備後は四條大雲院、阿波木工は東山にて腹を斬った。
有為転変は世の習い、盛者必滅の理とはいいながら、昨日まで聚楽の花の春の宴も、今は野山の秋の露と、皆散り果てられた事も哀れである。

(石田軍記)
503 :
2017/01/11(水) 20:07:35.12 ID:dM5tBKtA
グロ、と書きたくなるわ
504 :
2017/01/11(水) 20:13:45.93 ID:BSUyfD/D
そんなこと言ってたら戦国時代行けないぞ
505 :
2017/01/12(木) 04:42:22.31 ID:fItAvr7B
信長の御前へ武者修行を致しているという武功の者がまみえた。

冑に白熊の引きまわし(引き回し合羽)をつけて、甲立に立てて
出たのだが、公は見なさって、

「この者は手酷き合戦に、いままで合わなかったものだと見える。
白熊の引きまわしなどでは、なかなか戦の急な時には、叶わない
ものである」

と、仰せになったということである。

――『山鹿素行先生精神訓』
506 :
2017/01/12(木) 10:43:58.52 ID:6QVQ91xf
秀次事件て秀次はどうでもいいけど連座させられた人たちがかわいそうで仕方がない
507 :
2017/01/12(木) 15:55:20.00 ID:SCP5Kk/o
女性陣が悲惨すぎて草も生えない
当時女性への極刑は珍しかったのになんやあれ(ドン引き
秀吉ぐう畜過ぎ
508 :
2017/01/12(木) 17:46:30.88 ID:ApKa+Wr8
畜生塚、て呼ばれたってことは当時の人から見たら秀次たちがぐう畜扱いされてたのでは
509 :
2017/01/12(木) 23:06:38.30 ID:hQcVxIgQ
この間行った松阪城の歴代城主に服部一忠ってのが居た
http://i.imgur.com/BvILZWf.jpg


誰かと思って調べたら今川義元に槍をつけた服部小平太だった
すげー出世したんだなと思ってたが最期は秀次事件で連座切腹...
510 :
2017/01/13(金) 09:26:45.98 ID:79vl6XnC
その人信長の小説で桶狭間の場面で毎度出てくる有名人じゃん
最後そんなことになってたんだ
511 :
2017/01/13(金) 12:21:26.02 ID:cnMSw6Qs
そして毛利新助は本能寺の変で信忠と一緒に討ち死に
三人まとめると赤穂浪士の毛利小平太元義になってしまうな
512 :
2017/01/13(金) 18:25:00.95 ID:ALhyLUvV
吉良義央−吉良義冬−女−今川範以−今川氏真−今川義元
討ち入り前日に脱盟した毛利小平太が吉良義央を討ってたら
吉良義央は祖先同様、毛利と小平太に討たれた、と話題になったのに
513 :
2017/01/14(土) 12:19:11.80 ID:rE+exn0h
文禄4年(1595)7月15日、豊臣秀次が切腹。
そして8月2日、秀次の若君、上臈、婦人たちを誅すべきとの上使が立ち、いやが上にも悲しみは増した。
検使には石田治部少輔、増田右衛門尉をはじめ、橋より西の片原に、布皮敷いて並び居た。
彼らは若君達を車に乗せ、上臈達を警護して、上京を引き下り、一条二条を引き下り、三条の河原へと懸った。

橋のあたりまで着くと、検使たちが車の前後に立ち「先ず若君達を害し奉れ」と下知した。
青侍・雑兵共が走り寄り、玉のような若君達を車から抱き下ろし、変わり果てた父秀次の首を見せた。

仙千代丸は冷静にこれを見て、「こは何と成らせられるや」と呟き、嗚呼と嘆いた。
その姿に母上たちだけでなく、見物の貴賎男女、警護の武士に至るまで前後を忘れともに涙に咽んだ。
しかし太刀取りの武士は「心弱くては叶うまじ」と目を塞ぎ、心を太刀だけに集中して仙千代丸達を害した。
この時彼らの母上たちは、人目も恥ずかしさも忘れ声を上げた

「どうして私を先に殺さないのか!急ぎ我を殺せ!我を害せよ!」
(こは何とて、我をば先に害せぬぞ。急ぎ我を殺せ我を害せよ)

そう、仙千代丸の死骸に抱きついて伏し嘆いた。
それより夫以下の目録に合わせ、順に座らせた。
一番に上臈、一の台の御局、前大納言殿の息女にて、三十路余りであった。これを今わのすさみとて
『存へて ありつる程を浮世ぞと 思へば残る言の葉もなし』

二番は小上臈、於妻御前であった。三位中将殿の息女にて、16歳になられていた。紫に柳色の薄絹の重ねに
白袴を引き、練貫の一重絹うちかけ、緑の髪を半切り、肩の周りにゆらゆらと振り下げて、秀次の首に三度拝し、
こう詠んだ
 『槿の日 影まつ間の花に置く 露より脆き身をば惜まじ』

三番は、姫君の母上、中納言の局於亀の前であった。摂津小浜の寺の御坊の娘で、歳は33。栄に少し
過ぎていたが、西に向かい「南無極楽世界の教主弥陀仏」と観念し
 『頼みつる 弥陀の教の違わずば 導きたまへ愚かなる身を』

四番には仙千代丸の母上、於和子の前であった。尾張日比野下野守が娘にて、18歳になられていた。
練絹に経帷子を重ね、白綾の袴を着て水晶の数珠を持ち、若君の死骸を抱きつつ、泣きながら大雲院の上人に
十念を授かり、心静かに回向して、こう詠じた
 『後の世を 掛けし縁の栄えなく 跡慕ひ行く死出の山路』

五番には百丸の母上であった。尾張国の住人山口将監の娘。19歳になられていた。
白装束に墨染の衣を掛け、若君の死骸を抱きつつ、紅の房の付いた数珠を持って、これも大雲院の十念を受け心静かに回向して
 『夫や子に 誘はれて行く道なれば 何をか跡に思残さん』

六番には土丸の母上、於ちゃの前であった。美濃国竹中与右衛門が娘にして、18歳。
白装束に墨染めの衣着て、物毎に軽々しい出で立ちであった。かねてから禅の知識に参学し、飛華落葉を観じ、
世理無常を悟って、少しも騒ぐ気色無く、本来無一物の心と
 『現とは 更に思わぬ世の中を 一夜の夢や今覚めぬらん』

七番には十丸の母上於佐子の前であった。北野の松梅院の娘で、19歳になられていた。
白綾に練絹の単衣の重に、白袴を引き、戻の衣を掛け、左には経を持ち右には数珠。西に向かって法華普門品を
心静かに読んで、秀次、若君、そして我が身の菩提を回向して
 『一筋に 大慈大慈の影たのむ こころの月のいかでか曇らん』

八番には於万の方であった。近江国の住人多羅尾彦七が娘。23になられていた。練絹に白袴引き、
紫に秋の花が刺繍された小袖をかけておられた。その頃病中であったので、見た目にもいと悲しく、
心も消え入るように思えた。これも大雲院の十念を受け掌を合わせ
 『何處とも 知らぬ闇路に迷ふ身を 導き給へ南無阿弥陀佛』

九番には、於与免の前であった。尾張国の住人堀田次郎右衛門が娘で、これも白装束に数珠と扇子を持ち添え、
西に向かい十念して
 『説置ける 法の教の路なれば 弧り行くとも迷ふべきかは』

十番に、於阿子の前であった。容姿よりも尚勝る心にて、情け深く聞こえた。毎日法華読誦怠らず、最後にもこの心であった
 『妙なれや 法の蓮の花の縁に 引かれ行く身は頼もしき哉』
514 :
2017/01/14(土) 12:20:23.81 ID:rE+exn0h
十一番には於伊満の前であった。出羽最上殿の息女であり、十五歳になられた。東国第一の美人であると
伝え聞かれ、秀次より様々に仰せになり、去る7月上旬に上洛したが、旅の疲れにて未だ見参のない内に、
この難儀が勃発し、淀の方より「いかにもして申し請け参らん」と心を砕かれたため、太閤秀吉も黙し難く、
「命を助け鎌倉に遣わし尼にせよ」と言った。これにより伏見から大至急早馬が出たが、あと一町という所で
処刑された。哀れと言うにも余りある、最後の際、やさしくも
 『つみを切る 弥陀の剣に掛かる身の 何か五つの障あるべき』

十二番には阿世智の前であった。上京の住人秋葉の娘であり、30あまり、月の前、花の宴、事に触れて
歌の名人であったとか。最後の時も先を争ったが、目録どおりとのことで仕方なく、辞世に
 『迷途にして君や待つらん 現とも夢とも分かず面影に立つ
  彌陀たのむ 心の月を知べにて 行けば何地に迷あるべき』

十三番には小少将の前であった。備前国本郷主膳が娘にて、24歳になられた。彼女こそ関白の御装束を
賜った人である。
 『存へば 猶もうき目を三瀬川 渡るを急げ君や待つらん』

十四番には左衛門の後殿であった。岡本某の後室で、38歳であったという。琵琶、琴の名人で、歌の師匠も
されていた。是ぞ今わの気色にて
 『暫くの 浮世の夢の覚め果てて 是ぞまことの仏なりけり』

十五番には右衛門の後殿であった。村瀬何某の妻であったとか。村井善右衛門の娘にて、35歳になられていた。
21歳で父の村瀬と生き別れ、今また重きが上のさよ衣、重ね重ねの憂いの涙。よその袖さえ乾く間もない
 『火の家に 何か心の留まるべき すずしき道にいざやいそがん』

十六番は妙心老尼であった、同坊の普心の妻であったが、夫に先立たれた時も自害しようとしたのを
無理に止めて、尼と成られたのである、最後の供を悦んで
 『先達ちし 人をしるべじ行く路の 迷を照らせ山の端のつき』

十七番は於宮の前であった、これは一の台の娘であり、父は尾張の何某にて13になられた。
母子を寵愛されたこと、ただ畜生の有様であると、太閤は深く嫉み思われたとか、最後の体、おとなしやかに念仏して
『秋といへば まだ色ならぬ裏葉迄 誘ひ行くらん死出の山路』

十八番には於菊の前であった。摂津国伊丹兵庫の娘で、14歳になられていた。大雲院の上人に十念授かり、
心静かに取り直り
 『秋風に 促はれて散る露よりも 脆きいのちを惜しみやはせじ』

十九番には於喝食の前であった、尾張国の住人、坪内右衛門の娘で、15歳であったとか、武士の心で
男子の姿をし、器量類なかったため、稚児の名を付けられた、萌黄に練絹の単衣衣の重ねに白袴を引き、
秀次の首を拝して残る人に向い「急がれよ。三瀬川に待ち連れて参りましょう。」と語りかけ、検使にも
暇乞いをして、西に向かって声高に、こう2,3回吟じた
 『闇路をも 迷わで行かん死出の山 清る心の月をしるべに』

二十番には於松の前であった。右衛門の後殿の娘にて、12歳であったとか。未だ幼く、唐紅に秋の花を
刺繍した薄衣に、練絹をかけ、袴の裾を握りながら、母親の死骸を拝しつつ
 『残るとも 存へ果てん浮世かは 終には越ゆる死出の山路』

二十一番には於佐伊の前であった。別所豊後守の身内の客人、という者の娘で、15の夏の頃初めて見参し、
新枕のあと絶えて召されず、拙き身を恨んでいたが。ある酒宴の折に「君やこじ我や行きなん」と謡ったことで
他に勝って寵愛されるようになった。しかしその後何があったか、事情があり久しく出仕しなかったが、
最後の御後を慕い参られた事こそやさしくも哀れである、法華経を読誦してこれだけを言った
 『末のつゆ 本の雫や消え返り 同じ流れの波のうたかた』

二十二番には於古保の前であった。近江国の住人鯰江権之介が娘にてこれも15の春の頃より寵愛深く、
閨の袖の香浅からず成り染めて、花月の戯れに、後の事は思いもよらなかったであろう。
そしてこの期は大雲院の十念を受け回向して
 『悟れるも 迷いある身も隔てなき 弥陀の教を深くたのまん』

二十三番には於仮名の前であった。越前国より木村常陸守が呼んだ上臈とか。17歳であった。
非常に賢く、浮世を泡のように観念して
 『夢とのみ 思ふが内に幻の 身は消えて行く哀れ世の中』
515 :
2017/01/14(土) 12:21:29.42 ID:rE+exn0h
二十四番には於竹の前であった。一条あたりで、ある方の拾った娘であったという。類なき美人にて
昔の如意の妃もこうであったと思われた。仏元来今無く、心又去来の相なしと悟り
 『来りつる方もなければ 行末も死らぬ心の仏とぞなる』

二十五番には於愛の前であった。古川主膳の娘で、23であったとか。法華転読の信者で、草木成仏の心を
 『草も木も 皆仏ぞと聞く時は 愚かなる身も頼もしきかな』

二十六番には於藤の前であった。大原三河守の娘で、京の生まれ。21歳になられていた。
槿花一日の栄、夢幻泡影と観じて、大雲院の十念を受け
 『尋ね行く 仏の御名をしるべなる 路の迷の晴れ渡る空』

二十七番には於牧の前であった、斎藤平兵衛の娘で16歳だとか。これも十念を受け西に向かい手を合わせ
 『急げ唯 御法の船の出でぬ間に 乗遅れなば誰を頼まん』

二十八番には於國の前であった、尾張国大島新左衛門の娘で、22になっていた。肌には白帷子に山吹色の
薄衣の重ねに、練絹に阿字の大梵が書かれているのを掛けて、秀次、若君たちの死骸を拝し、秀次の
首に向かって直られるのを、太刀取が「西に向かれよ」と言うと、「本来東西無し。急ぎ討て」と答え、
そのままに討たれた
 『名計を 暫し此の世に残しつつ 身は帰り行く本の雲水』

二十九番には於杉の前であった。19歳。前年より労気を患い、秀次とも疎遠になっていたため、浮世を恨み、
どうにかして出家したいと願っていたが、叶わずこのような最期を遂げた
 『捨てられし 身にも縁や残るらん 跡慕ひ行く死出の山越』

三十番には於紋といって、御末の人。心静かに回向して
 『一聲に こころの月の雲晴るる 仏の御名を唱へてぞ行く』

三十一番は東といって61歳。中居御末の女房が預かる人であった。夫は75歳で、この3日前に相国寺にて
自害した。

三十二番に於三。末の女房であったとか。

三十三番は津保見。三十四番は於知母であった。

この三十余人の女臈たちをはじめ、午の刻(午前11時頃)から申の刻の終(午後5時頃)までに
朝露となられたのは、彼女たちのことを知る人も知らぬ人も、見る人聞く人ごとに、肝も裂け魂消えて、
涙に暮れぬものはなかった。
秀吉は殊更に、死骸を親類にも返さず、巨大な穴を掘らせて、旃多羅が手にかけてその手足を取って
投げ入れた。その有様、昔玻斯国の瑠璃太子が浄飯王宮を攻め破って、五百の宮女美人を穴埋めにしたという
哀れさも、これにはどうして勝るだろうか、
こうして最期に臨んで、歌を詠まれし風情、万年の後までも、聞くに涙に咽ぶであろう、

色を誅するのは、不義を後にして己の嫉を先にすると、世史に謗って記されているのもこのためである。聖智ある明将のやることではない。
太閤秀吉の強暴さは支那をも動かしたが、慈しみの心が嫉妬に勝つ事を得なかった。婦人や幼い子供を億万殺しても、一体何の益があるのか。
人々は誠に、「御代が短かるべき事ぞ」と申した。

(石田軍記)
秀次家族の処刑についての記述である。
516 :
2017/01/14(土) 13:12:53.81 ID:QLhwJ8hg
まだ出てなかったんだ、秀次妻子の処刑の模様
517 :
2017/01/14(土) 15:56:12.34 ID:YLjoeKPp
妊娠してたら困るからってここまで殺さんでも…
518 :
2017/01/14(土) 16:48:44.45 ID:tVr6p7UI
手当たり次第に手を出して子を産ませるアホは死んで当然
秀長を見習うべきだったな
519 :
2017/01/14(土) 18:21:08.96 ID:z7jd4P8T
???「城中の女に見境なく手を出して100人以上作ったけど何か?」
520 :
2017/01/14(土) 19:52:46.06 ID:399BbC7j
はいはい、お薬出しておきますねー
521 :
2017/01/14(土) 20:41:28.73 ID:AHLvRmkW
>>512
今川から吉良になったかのような印象をうける
西条だから今川との結び付きも強かったんだろうなあ
522 :
2017/01/14(土) 20:49:57.21 ID:AHLvRmkW
>>514
於伊満の命乞いを淀がしてるのか
523 :
2017/01/14(土) 20:53:20.45 ID:QLhwJ8hg
今川義元「わしを弔うためにわしの孫が和尚となって、わしの号(栴岳承芳)を元に『せんがく』と
名前をつけた寺なのに、なぜこの寺に来た者はわしの子孫を殺した奴らの墓に参拝しに来るのだ」
524 :
2017/01/15(日) 17:52:22.35 ID:ryfezp7n
池田家臣伊木豊後と若原右京の衝突(未遂)事件


ある時、伊木豊後(忠次)と若原右京には確執があった。
豊後は第一の寵臣で播州三木の城主であり、若原右京は中村主殿と同じく
領国の仕置を掌っており、その威勢は肩を並べる者はいなかった。
豊後は右京と常に不和だったので、双方の家臣も不通であり
互いに己の主の権勢を恃みにし、何事も負けないと争い合っていた。

右京が姫路に登城しようとして、大手(正門)で馬から降り歩いていると
豊後の鑓持ちの男が両足を投げ出して、打ち仰いで髭を抜いていた。
右京が前に来ても両足を引こうともせず、人がいないような態度でいたので
右京は怒り刀を抜いて、そのままその男の両足を切り落とした。

(右京は)登城せず急ぎ馬に乗って引き返し、己の屋敷に馳せ帰ると
「豊後が程なくして寄せ来るだろうから、その用意をしろ」
と言い、与力の士五十騎、足軽二百人に自分の人数を加えて
屋敷の四方に隙間なく配置し、鉄砲兵はみな屋根に上げて
自らも六文目の鉄砲を持って書院の棟に打ち跨り
豊後が来たら討ち取ってやると待ち構えた。

豊後も右京の大手での振る舞いを聞き、同様に下城して人数を揃えて
右京の屋敷に押し寄せようと鬩いでいたところ、国清公(輝政)の耳にも入り
(輝政は)急ぎ使者を以って先に豊後を呼ばれ
「右京の所業で、そのほうが立腹するのは尤もなことだが
 今押し寄せて攻めるのは、我に免じて堪忍してくれ
 そのほうが遺恨のないように(右京に)申し付けろ」
と仰せられ無理に留め置いたところで、右京を呼ばれた。

右京も豊後が静まったのを聞いて登城したが、(輝政は)右京が普段から
豊後に対し過ぎた振る舞いをしていることを(豊後から)聞いたために
「今日の粗忽は言語道断である。当家にいることは叶わないだろう。
 どこへなりとも立ち退くように」
と仰せられたのですぐに退出しようとしたが
これを聞いた豊後が御前に出てきて
「只今の指図は忝ない仕合わせに存じますが、右京に暇を与えるのは
 私の本意ではありません。右京のような者と権威を争ったと
 他家の人が評論することになるのは恥ずかしく、当惑しています。
 是非とも右京を召し返して下さい」
と申し上げたので、公もお許しになり急ぎ召し返された。

右京は何事だろうと再出し、御前近くに呼ばれこのことを聞いたので
このときから右京は豊後に心服し、懇ろに会釈などをするようになった。
この豊後は東照神君(家康)も懇ろにお会いする者だったので
この頃の勢いは申すに及ばず、姫路では平時の供廻りが三百人いた。
時々摂州(摂津)にも踏み込み、鷹狩りなどをしたのに咎める者がいなかったとか。
その他の事跡については推して知るべし。


――『池田家履歴略記』

あわや大惨事……。
525 :
2017/01/16(月) 02:28:29.13 ID:Mdk5HAw2
鎌倉光明寺勅額裏年号之事

 水戸御撰『鎌倉誌』の光明寺の条には、
寺宝の勅額二枚あり、一枚は後土御門帝の宸筆、”祈祷"であるという。
裏に福徳二年辛亥九月吉日とある。
祈祷堂の額である。福徳の年号は不審である。恐らくは誤って彫ったためであろうか。

 善筑が言うには
この頃〔後土御門の御時をいう〕は、どのような訳か東国では別に年の偽号があってこれを用いていた。
福徳はつまり東国の偽号で、その元年は正に延徳二年庚戌に当る。
なので福徳二年辛亥は、正しくは延徳三年辛亥で、後土御門天皇即位二十七年の年である。

 さて、善筑の言ったことは偽りではない。善筑は何に拠ったのであろうか。
また水戸御撰はその頃にはまだ及ばない所があったのであろうか。

 また偽号に弥勒というものがある。元年は丙寅で、永正三年丙寅とする。後柏原朝のときである。
また食禄というのもある。元年は庚子で、天文九年庚子とする。後平城朝のときである。
なので皆足利の権柄の間に、東方で偽号がつかわれた。

 予はこれから思った。
世に「万歳!」と呼んで、三河の農夫が烏帽子素襖を着て舞うということがある。
歌詞に弥勒十年辰の歳とある。これはまさしく弥勒十年の偽号のことである。
しかし弥勒元年は永正三年丙寅で、十年は永正十二年乙亥である。
辰歳ではない。もしくは予が万歳の歌詞を誤聴したのであろうか。

(甲子夜話三篇)
526 :
2017/01/17(火) 01:47:21.03 ID:iEWAFcbK
福島大夫(正則)を御改易の時、防備のために鳥居左京亮(忠政)は
御城の近辺に人数を出し置いたのだが、

馬を御堀の方に立て置きなさっていたのを、牧野駿河守殿(忠成)は
見なさって曰く、

「鳥居家に似合わぬ軍法かな。敵が攻め掛かって来たならば、馬は
たちまちのうちに掘へ追い込まれることであろう」

――『武功雑記』
527 :
2017/01/17(火) 19:09:15.70 ID:qJMrCMga
真田幸村の智謀

上田籠城の時、織田、徳川、北条の三将、二十余万の大軍を以て百重千重に取り囲み、水も漏らさぬばかりに
ヒシヒシと取り詰め、哀れ上田城は粉々に踏み崩されんとしていた。
これには流石の真田昌幸も、城兵僅かにニ千余り、今は防御の術も尽き、如何にすべきかと思案し、苦慮して
いた所、倅の幸村、当年十四歳であったが、彼が『鶏卵煎り砂の謀計』を考えだした。

彼は鶏卵を二つに割り、中身を取り除いてこの中に煎り砂を入れて合わせ、水に浸した紙を割口に巻いた。
これを数万作り出し、それぞれの櫓に十籠、二十籠づつ取り備え、寄せ手を遅しと待ち構えた。

頃は天正十年三月二十五日の朝(ちなみに実際の第一次上田合戦は天正十三年閏八月である)、
織田徳川北条の軍勢はどっと鬨の声を作り押し寄せ、鉤縄打ち掛け勇みに勇んで攻め立てた。
城中よりは「時分はよし」と、件の鶏卵を合図とともに投げつけた。

兜面頬があっても、当たれば砕け、煎り砂は兵士の眼に入り、さしもの勇者たちも暗夜をたどるに
異ならぬ有様。城中よりはこれをみすまし、「時分は良きぞ」と、松本口の織田勢には真田源次郎(信之か)、
軽井沢口徳川勢には隠岐守信尹、笠ヶ城北条勢へは与三郎幸村、何れも三百余人を率いて鬨を作り
攻めかかれば、盲目に等しい寄せ手の面々は戦うことも出来ず、我も我もと敗走し、同士討ちするものも
あり、踏まれて死ぬものもあって、二十余万の大軍が、雪崩掛かって落とされたのは、たいへん見苦しい
有様であった。

この状況に信長は、如何にすべきかと思慮を巡らしたが、今だ良き工夫もつかぬ所に家康が現れ、
「鶏卵煎り砂の目潰しを防ぐためには、竹束を以て盾とし、鎧の袖を額にかざすより他、術がないでしょう」
そう献策した。
これにより夥しい竹束を用意し、またもや押し寄せた。

しかし幸村は「煎り砂に懲り果てた敵兵は、今度はこれを防ごうと竹束の盾を必ず用意してくるであろう。」
よ推察しており、あらかじめ多くの投げ松明を用意していた。
果たして先手は竹束を束ね、、後ろに太い棒を取り付けた物をひっさげ、目潰しの鶏卵が今や降ってくるかと
待つ所に、城中は静まり返って音もせず、寄せ手充分に近づいた所で、一発の銃声が響くとともに、三方の
櫓より松明が投げつけられた。
すると油を注いだかのように、竹束はみるみるうちに燃え上がり、寄せ手の者達驚き騒ぎ、消そうとするも
うまく消火もできず、散々となって我先にと敗走した。

(芳譚)

何故か甲州征伐とごっちゃになっている上田合戦のお話
528 :
2017/01/17(火) 21:11:13.13 ID:n+P9kTbE
>>527
鶏卵数万w
529 :
2017/01/17(火) 21:11:38.99 ID:/3OBSLpx
幸村が活躍するなら、そんなことはどうでもいいんじゃないの
物語なんてそんなもんでしょw
530 :
2017/01/18(水) 04:39:20.20 ID:3YTafbkP
越前少将忠輝卿(松平忠輝)は性質剛強にして武芸に達し、猛勇の大将であるが
思慮は浅く、大坂夏の陣の時に大和口の総大将に命ぜられながら、

軍場へも御出にならず、その他条々の御不審を蒙り、飛騨国へ配流されたのだが、
その後に信濃諏訪の高島城の南の丸へ移された。

この城は三方に湖水、一方には大沼があった。その中に縄手があって、左右には
柳があったため、“柳縄手”という。南の丸は本丸の下で、一方口であり湖水の端
である。館の外には塀があって塀の上には忍び返しを付け、その外に二重の柵を

付けて、柵の間は30間に1ヶ所ずつ番所を立て、昼夜番士を置きなさり、半時毎
に見回った。その厳重なことは、いかなる故にかと不審に思う人もいたという。

忠輝卿へは1ヶ年に金3百両、米3百人扶持が将軍家から御合力された。城主の
因幡守(諏訪頼水)からは、薪千駄ずつが差し上げられた。また参勤帰城や年頭
の礼として1ヶ年に2度、因幡守は南の丸に至って、御目通りがあった。

忠輝卿も1ヶ年に1度は、因幡守の館へ御出になったということである。忠輝卿は
御存生中、大坂の陣の御話しは1度もなさらなかったということである。

御預けの期間は50年余りになるから、御子も多く御出生したが、1人も柵から外
へ出さず、皆柵の内で相応に婚姻なさったということだ。忠輝卿は、御背丈は高く
もなかったが、眼は大きく御顔色は恐ろしく見え給うた。

――『明良洪範』
531 :
2017/01/20(金) 12:52:13.09 ID:Q8kJutz3
天文11年、伊達晴宗はその父・稙宗を西山城に幽閉した。晴宗はそれ以前の稙宗の行動に懲り、
彼を幽閉した座敷の廻りを厚い板で釘付けにし、食物を出す口ひとつだけを開け、番の兵士により
厳しく監視させた。

この状況に、懸田義宗などの一族衆は晴宗に対し申し上げた
「稙宗様との仲については、去年の遠征の時に晴宗様に御異見申し上げ、無事に取扱になったはずです。
であるのに、突然その約束を変じてこのような不義を成すとは、先の取扱に協力した相馬などへの
聞こえも宜しからずと存じます。」

そう言葉を尽くして異見したものの、晴宗は屈せず、「こうなった以上もはや変えられない」と
拒絶した。

一族衆は話し合い、懸田俊宗・義宗父子より相馬顕胤に、晴宗を説得してもらえるよう使者を遣わした。

相馬顕胤は自身で出馬し、14,5騎、上下70名ほどで晴宗の元に出向き、稙宗の幽閉を解くよう、
相馬方の老臣たちと伊達家の老臣たちとの間で議論を重ねたが、顕胤の訴えを晴宗は受け付けず、
晴宗からは顕胤にこう言った
「貴方から何度承っても、この事について従うことは出来ない。貴方が長々とここに滞在されるのも
無駄なことであるから、早々に帰館されるべきだ。」

顕胤はこう返答した
「御心底が変わるまで、この地に滞在し訴訟申す他ありません。」

しかし後には、伊達家の家臣たちすら顕胤からの遣いを受け付けることすら拒否するように成り、
申し出自体が不可能になった。
これに顕胤は老臣たちに

「晴宗は大身であることに奢り、去年の約を変ずるのみならず、父兄の礼を致しても取り合わない有様
である。この上は晴宗と運の勝負をするしかない。相馬の人数をあつめよ。」

そう下知したのである。

(奧相茶話記)

天文の乱(洞の乱)に至るお話
532 :
2017/01/20(金) 23:45:05.76 ID:MPgyUaul
武田といい伊達といい、遺伝子に欠陥でもあるのか?
533 :
2017/01/21(土) 01:00:00.58 ID:eT8dTXut
親子喧嘩はたいていどこでもやっとる
命を取られんだけでも有難いじゃろ
534 :
2017/01/21(土) 12:54:16.62 ID:CfuXCaQx
蜂須賀至鎮の手紙、名古屋城普請のときのはやり歌


[前略]
(名古屋城普請をする自分の"身のあさましさ"を長歌などで綴っている)


 此の頃常時思いに違はぬことは
一薪の高さ      一真桑瓜 聞いていたものと違ってあしきもの
一美濃鮎 昔からいいと言われているが、思っていたよりめでたいもの
一名古屋の井戸の浅いこと、井戸の水がいいこと、兎角ない物は若衆で
 普請の隙には編笠をきて、小屋垣の隙を覗き歩いても、その方に似て
 いるようなものは一人もいません。路地に水を打ち掃除して、お客を
 待っている者を、口を切りすぐに近づいて、目利きだというので是に
 金を出して知人にもなりましたが、衆道の目利きとはまことではあり
 ませんでした。数寄道具と若衆のような目利きは和尚に直に聞くべき
 なのでしょうか。
 [中略]
 自分のところには執心の人はいませんが、夕べさる方から習ったので
 名古屋のはやり歌を書き付けておきましょう。

 <たれか思ふ人は名古屋にござる、長の留守すれやしんくてならぬ
  えいえい、えいさらえいさらと石を引き、えいえいえいといふて
  引く間は夢だんべえな、えいとえいとゆて引くは亡い子かのといふた>

 若きも老いも口ずさんでいるので、是がないと浮世にはならないそうです。
 [後略]


――『徴古雑抄』
535 :
2017/01/22(日) 02:28:04.25 ID:lYSVfIwg
またある時、紀伊頼宣卿(徳川頼宣)が忠輝卿(松平忠輝)を御招きになり、
饗応があった折、いかなる故にか忠輝卿はとにかく機嫌がよろしからず、

頼宣卿は心配なさって自ら盃を進めるなどしなさったが、忠輝卿は酒も飲み
なさらなかった。ところが、頼宣卿が用事あって、正木小源太という小姓を

呼び寄せなさると、忠輝卿はその小姓・小源太を御覧になられて、頼宣卿に
所望なさった。これに早速、頼宣卿の御承知があったので、それより

忠輝卿は大いに機嫌がよろしくなりなさり、興に乗じて、側に有り合わせた
大砂鉢を取り寄せ、酒をなみなみと注がせて、2度まで飲みなさったという。

この小源太は後年に忠輝卿が将軍家(徳川秀忠)の御不審を蒙り、条々の
御咎めがあった時に、忠輝卿に切腹を勧め奉ったのだが、

忠輝卿は仰せになり「命さえあれば身はいかようになり行くとも、また面白き
こともあるだろう」として、切腹仕りなさらなかった。

しかし、小源太は強く切腹を勧めて、「私が御先を供に仕らん!」と言って、
忠輝卿の眼前で切腹して相果てた。しかしながら、忠輝卿は切腹仕りなさら
なかったので、小源太は犬死になった。

――『明良洪範』
536 :
2017/01/22(日) 05:52:52.32 ID:cyXxn47K
ひでぇw
537 :
2017/01/22(日) 10:15:10.59 ID:CwRxEV7E
オチがあるとはw
538 :
2017/01/22(日) 16:53:29.04 ID:x1e3RZKr
犬死にww
539 :
2017/01/22(日) 19:05:55.41 ID:7XewJp7u
砂鉢なんかで酒飲むあたり
やっぱアタマの具合が怪しい感あるよ
540 :
2017/01/22(日) 22:24:29.98 ID:5wYdkQtS
高麗宗五郎。付吾国高麗町之事

 三月二十三日の御沙汰書に、
焼火の間に若年寄の方々が出席され、
小普請高力丹波守組高麗宗五郎を表御台所に仰せ付けられたというのを見た。
予はこれから、この人はきっと隣域の号を名乗っているのは何か理由があるのだろうと思った。

 ある人に問うと、
この人はもとは朝鮮から帰化した家で、名字も「カウライ」と呼ぶ。
先祖が高麗の地から出たことによる。
本姓は朴氏であろうか。代々御台所人の家で御目見以上に至る者もいる。
今は上の勤めをしているとのことだ。
 またその元は帰化の人が日本流庖丁の伝授を受けたときの誓約文が、
御台所人の磯貝某の家が所持しているという。

 これについて、我が法印公(松浦鎮信)が朝鮮在陣の間に俘虜とされた者を、
帰陣の御時多く率いて帰られ、諸士勤番の賄いを調える奴隷とされたことを思い出した。
彼らは軽んじられたのであろう。
 この徒を一所に住ませた。人呼んで高麗町と言う。
予が在城していた頃までかの党は旧に依っていたが、
しだいにその恥辱を厭い、我が国の人の類に入ることを願うようになり、
今となっては、高麗の本種とは変わって調食は皆この国の賎夫が勤めることになった。
高麗と称する旨は同じだが、その内実は異なっている。


(甲子夜話続編)
541 :
2017/01/23(月) 08:12:00.14 ID:/twk/pCO
強制連行の始まり
542 :
2017/01/23(月) 20:04:54.37 ID:uIepIOQR
また在日が粘着してんのか
543 :
2017/01/23(月) 21:11:56.83 ID:yLOeu4UA
このスレでも話題になった鑑定団が鑑定した曜変天目に贋作疑惑
持ち主にされた三好長慶にとっては、たとえ本物であっても
他のと比べて見劣りする、てことになるから悪い話に
544 :
2017/01/23(月) 22:07:57.16 ID:GCNAERFQ
前に出たときも書いたけど、三好の所有物なら堺の連中の記録に残っていてもいいと思うんだわ
まあどう決着するのかわからんが、最悪の場合はいままでの中島さんの鑑定にも疑問符がついちまうことになるねえ
545 :
2017/01/24(火) 16:04:54.60 ID:+lu1UhFm
骨董に誤鑑定は付き物なんだし。再鑑定でもしてはっきりさせればいいよ。
546 :
2017/01/24(火) 16:40:27.64 ID:ywjC+m/s
偽物ってことでいいから俺が一万円で買うよ
再検査?こっちでやっとくわ
547 :
2017/01/24(火) 16:50:58.55 ID:X+liXQyw
中島とか糞胡散臭いからはやく消えて糒
548 :
2017/01/25(水) 04:00:28.67 ID:CHjahkZO
佐々木承禎(六角義賢)は、三好のことを憎んで、「四国から異な者が
上り居て、威を振るうことかな」と、終いには三好追討のことを

公方に勧め、時に東山へ勢を出した。この根本を三好は推し量り、
松永(久秀)を大将として、公方を弑逆した。

承禎は家来の後藤という者の娘が、公方に近侍しているのを縁として、
公方に親しかった。

松永は三好の乳母に密通し、これを縁として三好は松永に親しかった。

――『武功雑記』
549 :
2017/01/25(水) 11:53:48.33 ID:8SvKVSKd
さすがゴールドフィンガー霜台さんやで
550 :
2017/01/25(水) 18:09:13.59 ID:ivLwVkKw
黄素妙論(震え声
551 :
2017/01/26(木) 19:09:47.99 ID:6U7WMmld
黄素妙論は道三が松永に渡した本だが
松永が書いた、という意味でなければスマソ
552 :
2017/01/26(木) 23:44:09.77 ID:h+IZe1XV
 大坂陣で蜂須賀(至鎮)の者の稲田九郎兵衛(植次)が若年での働きがあった。
それを聞いた権現様は
「惜しいなあ、九郎兵衛とは名が古い。幼名にすればよいのになあ。」
と上意されたという。

 九郎兵衛とだけ聞いても、年若な者の働きとは分かり難い。
名もその時に相応のものにするべきものである。


『武士としては』
553 :
2017/01/27(金) 00:02:29.67 ID:IMLDCitB
てっきりおかしな名前を名付けた話かと思ったわ
554 :
2017/01/27(金) 08:50:18.71 ID:UQlJ97ei
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=6672
見覚えがあるとおもったら徳川実紀が出典で出ていた
徳川家康「名前はよく考えろ」
555 :
2017/01/27(金) 09:44:27.72 ID:0W/94KwA
幼名は梶之助か。
556 :
2017/01/29(日) 03:08:15.06 ID:aPNAmi8U
井伊家の付人連署して直政を諫めし事

井伊直正は壮年の時鋭気が甚だしかったので、東照宮から付け置かれていた。
そこで...(抜落)以下が連署して諫書を捧げた。
その中に
「人には必ず目標を設けるのがよろしいと思われます。
私達臣下らが前の主君の事を申すのもいかがなものかと思われますが、
申し上げさせていただきます。
信玄が若い時から一つとして心から善事を行わなかった人ではありましたが、
常に越後の謙信を目標として謙信に優るように努め励まされていました。
なので信玄の一生の間、手を下した大事の合戦が五回に及びますが、
大きな敗北はされませんでした。
殿にも本多中務大輔忠勝を目標として、努めて劣らないように励みなさってください。
古から『進まず退かざる良将』と申しますが、それは中書(中務大輔の唐名)のことだと思われます。」
と書いてあったそうだ。

(常山紀談)

信玄に対してひどい言い様www
何かあるでしょ、信玄堤とか
557 :
2017/01/29(日) 11:01:26.32 ID:n0T35VGg
昨日、戦国時代展でこれのガチャあったらやった
http://i.imgur.com/zDQ2XYs.jpg


ザビエルとか出たらどうしようかと
思ったけど、真田昌幸という微妙な結果(´・ω・`)
558 :
2017/01/29(日) 11:14:12.92 ID:Tc8KsaEm
上田原の戦いや戸石崩れは謙信と対立する前だからノーカンなのだろうか
559 :
2017/01/29(日) 12:27:02.63 ID:n0T35VGg
戦国時代展行って初めて知った事

応仁の乱で焼けてしまった清水寺再建の勧進に
日野富子が6本寄進(1本20貫)
他は大抵1本位のところ越前の朝倉孝景(先代)が25本
朝倉なんとかは50本寄進
そういえば清水寺に朝倉堂ってあったっけ

三郎氏秀が人質になる前に北条氏邦が人質に
行っていて三郎と交換した事。

地黄八幡の文字が善光寺の額みたいに鳥っぽくなっている事。

北条氏綱の銘が入った鞍を氏綱が自ら造った可能性があると
の解説...

信長が切り取った蘭奢待を勧修寺晴豊が少し分けてもらって
泉涌寺で行われた親父の法要で焼香に使った事
560 :
2017/01/29(日) 12:29:45.24 ID:muoMw3qC
>>557
武将だと晒し首連想してやだなぁw
561 :
2017/01/29(日) 12:47:03.79 ID:rGNzqNN7
>>556
出典違いで前にも出たと思うけど同じ流れになりそうやね
562 :
2017/01/29(日) 23:47:02.91 ID:1xKiVCOY
>>557
ザビエルと昌幸の間のは誰?名前がぶれて読めねえ。
563 :
2017/01/30(月) 00:23:01.63 ID:axXnpFmC
服部半蔵…と読めるな
564 :
2017/01/30(月) 00:27:46.89 ID:S6FKrOOE
服部半蔵正成だろ

戦国時代板居るなら普通顔で分かるだろ
565 :
2017/01/30(月) 04:44:00.69 ID:NWxOwKiI
人魚の肉でも食ったのかえ
566 :
2017/01/30(月) 23:54:08.09 ID:eGddXOW8
清正の花押筆画多かりし事

朝鮮より、諸将が連判の書を太閤秀吉に送るという時、加藤清正の花押が特に画数が多く、
書き上げるまでやや時間がかかったのを、福島正則は苦笑して
「こんな事では、仮に病が重くなって、いざ遺言を書くという場合にも差し障りがあるだろう。」

清正はしかし
「私はそうは思わない。戦場に屍を晒そうとも、汚く逃げてしとねの上に死のうとは考えもしていない。
であれば遺言状など問題ではない。」


これに正則は返す言葉もなかったという。
(常山紀談)

しかし

清正の花押
http://i.imgur.com/E988uIr.jpg

正則の花押
http://i.imgur.com/zBL2r6X.jpg

それほど手間に違いがありそうには見えないがw
567 :
2017/01/31(火) 08:39:47.30 ID:NzQiGzf/
>>566
その花押はあからさまに家康に影響されたタイプだから、唐入りの頃とは違うでしょ。
568 :
2017/01/31(火) 18:51:07.68 ID:n10zVkN4
この年(天正6年(1578))、隅州高城、日州耳川での大友家敗北により、国々の城主、郡主は
大友家から背いた。

肥前の龍造寺隆信は、肥筑を討ち平らげ、大友・島津もろとも滅ぼそうと謀った。
同国の小田重光を謀って閨の中に殺し、筑後の蒲池鎮漣舞楽に事寄せ、肥州与賀宮にて殺した。
両人とも、隆信の婿であった。

また龍造寺は松浦、波多、大村、有田などを攻めた。或いは降参し、或いは籠城して大友に加勢を
乞う者もあった。

筑前では秋月種実が、肥後五箇山の城主・筑紫広門と同心し反逆を企て、城井、千手、長野、上原、
原田、麻生、杉、宗像などに手を付け、筑前、豊前を治めようとした。

肥前・肥後では、宇土城、川尻、合志、詫摩、赤星、和仁、相良、有動、小代、隈部、本山、天草山、
山田、津守といった者達が大友の下知に従わず、島津に内通し、あるいは龍造寺に同心した。

筑後では田尻、蒲池、三池、江上、豊持、豊穣、黒木、斎藤、草野、大鳥井らが皆龍造寺隆信に
打ち負けて、隆信の幕下となった。
生葉郡井上城の問註所一族と、高良山良寛法印ばかりが、終始大友の味方として忠を成した。

(大友公御家覺書)

耳川合戦以降の、九州の有様について。
569 :
2017/01/31(火) 20:03:55.01 ID:OjIdd8mX
隆信の西肥前勢攻めと鎮光忙殺は耳川前だなあ
570 :
2017/01/31(火) 23:50:32.13 ID:S12jdg3l
耳川後にしないと格好がつかないもんな
571 :
人間七七四年
2017/02/02(木) 23:29:57.77 ID:tUuJ8z9c
十三塚原(じゅうさんづかばる)は、鹿児島県霧島市と姶良市に跨る東西6.5キロメートル、南北11キロメートル、
標高210-300メートルのシラス台地です。近くには鹿児島空港があります。
名の由来は13基の塚が数十メートルの間隔をおいて並んでいたことから十三塚原と名付けられました。

十三塚原の由来については次のような伝説がある。かつて国分八幡神社(鹿児島神宮)と宇佐八幡神社(宇佐神宮)の間で
どちらが正統の八幡宮であるか論争があり、大永七年(1527年)十一月、宇佐八幡の神官14名(15名の説もあり)が
鹿児島を訪れ国分八幡の古文書を調査し、正統性は疑わしいとして社に火をかけた。ところが社が猛火に包まれた
その煙が「正八幡宮」の文字を示したことから神官たちは驚きあわてて逃げ帰ろうとした。宇佐逃げる途中、
次々と13名が死亡、残された1名(2名の説もあり)も宇佐八幡に戻って事の顛末を報告し終わると同時に死亡した。
しばらくして死者のために13基の塚が建てられたという。(日当山村史)

この伝説が大永七年(1527年)と書いてあるのは「日当山村史」だけで、その他の史料及び十三塚原にある
十三塚原史跡公園の案内板には長承元年(1132年)となっております。
(「日当山村史」にも「長承元年(1132年)との説もあり」とは書いてある)
実際その頃に国分八幡神社(鹿児島神宮)は火災の為焼失しており、そのため年代がかわったのかもしれないです。
(社は永いことそのままでしたが、島津貴久が再建しております。その時の話がこれです。
島津貴久が国分の八幡宮を訪れたとき、とある夢を見た
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2677.html
貴久は再建の為に訪れており、日秀上人は再建に携わっておりました)

※鹿児島神宮の案内板には「八幡宮の総本社は鹿児島神宮」と書かれていますが、鹿児島神宮がある霧島市
では「八幡宮の総本社は宇佐神宮」と見解を出しております。
572 :
2017/02/03(金) 16:32:02.51 ID:Gjqm2/hC
>>571
火災に尾ひれがついたのかな
ずいぶん恐い尾ひれだけどw
573 :
2017/02/04(土) 03:17:10.72 ID:RWhjGdVD
権現様(徳川家康)が中原御殿におられた折、夜中、にわかに犬が
吠えたので、「誰か見て参れ」と仰せになった。

すると小姓衆が「見に参ります」と言い、御前で手をつき通ったので、

「斯様の時の礼は、かえって無礼ぞ。少しでも早く出て見るものぞ」
と、仰せになった。

さて、犬が吠えたのは“淫乱の人跡”と見えたので、詳細を密かに
仰せ上げられると、権現様は「良きぞ。黙れ」と、仰せになった。

(扨犬の吠たるは淫亂の人跡とみへたる故。委細ひそかに仰上られ
たれば。よきぞだまれと上意なり)

――『武功雑記』


“淫乱の人跡”とはいったい…
574 :
2017/02/04(土) 09:46:46.25 ID:dvy1U+wC
ギシアンかアッー!(ボソッ!
575 :
2017/02/04(土) 11:46:12.00 ID:iA9RwaR5
獣姦の詳細なんぞ聞きたい奴おるん?
576 :
2017/02/04(土) 12:10:27.53 ID:8RyG3zgi
>>573
>よきぞだまれと上意なり
これ素直に訳すと「解ったもういい黙ってろ。」って事だな。
家康が苦虫噛み潰したような顔でこれ言ったと想像すると結構面白い
577 :
2017/02/04(土) 16:46:58.10 ID:qH0d9C1Q
【歴史】織田信長=「大猿」「黒鼠」 豊橋金西寺文書に辛辣な批判記述、恨み辛み込め「苛政暴虐枚挙に堪えず」弾圧時の仏教界感情示す

http://www.tonichi.net/news/index.php?id=58285
578 :
人間七七四年
2017/02/04(土) 20:48:26.85 ID:nqYD0FKg
>>572
文献が思い出せず書けなかったのですが、
記憶が確かならば、大永年間の国分八幡神社の火災の原因は
島津と敵対する武将による“放火”だったはず。
怖い尾鰭がつくのはある意味当然かもしれない。
579 :
2017/02/05(日) 14:14:36.09 ID:S09LjR6w
「関連づける文献はなく恵方巻きの起源といえる証拠はない」けれど恵方巻の起源は堀尾吉晴だった可能性も、として「堀尾巻」が販売される
http://www.nhk.or.jp/lnews/matsue/4033545961.html?t=1486266775000
580 :
2017/02/06(月) 00:52:51.46 ID:l0/11MB8
岡崎殿御生害之こと併異聞

以前の類焼の後に、蔵書も多く燃えたので所々から本を借りて読んでいる。
その中には『三河記』という本がある。その本には以下の記述がある。

 八月〔年号は分からない〕、三郎殿〔神祖の御長子、信康君。岡崎殿と称していた〕が
神君〔原本には家康と書いてある。ここでは憚って改めた。下記も皆同じくした。〕
の御気に違わせられて、御牢人〔牢は浪と改めるべきだ。今は原本に従って改めない。〕
を連れて二俣へ出かけられた。
 この子細は、三郎君がわがままで、
宛へ〔宛は恐らく剰えの誤りであろう。あまつさえと読む〕神君の御意見にも従われない。
そのうえ家老の衆さえ、

「勝頼と一緒になられて、野心を企てています」

と申し上げるので、神君はこれらを聞かれると

「親に弓引く事は類例少ない次第だ」

と、服部半蔵に仰せ付けて失いなされた。
三郎殿は

「仰せ置きはなんとも悲しい。親に弓引く事は、ただ両説〔両はおそらく風の誤り。今は原本に従って改めない。〕の事なのに、家老の者が陰口を言うからと親が子を殺すのは、前世の因果と見える。
『我は大敵を滅ぼして天下の主となるべき』、と常に思いかけていたが、
あなたのような親にどうしてか子と生まれ死ぬ事の無念さよ。
二人の息女の事は、絶対に悪くあってはならない。
(『柳営譜略』には、信康君の長女は小笠原兵部大輔秀政室、次女は本多美濃守忠政室)」

と仰せられた。大久保一族その他の人々にも御形見を出し、

「我ゝ(このゝは、おそらく"が"の誤り)後生の事どもは、大樹寺を頼り、よろしく供養してくれ」

と、念仏十篇ばかり唱えながら、腹を十文字に掻き切った。

「服部半蔵! 介錯!」と迫るが、半蔵は

「三代相恩の主君にどうして太刀を当てれましょう。」

と刀を捨て激しく泣き悲しみ倒れ臥した。

「早く早く!」と仰せられるので、遠州住人の天方山城守が、泣く泣く御首を打ち落とした。
御年二十一歳と申すのは〔"は"はおそらく不要〕、花の想いを引き替えて〔"想"、恐らく"姿"の誤り〕、
朝の露と消えられた。

このことを、神君は聞かれて、御涙を流された。
後によくよく聞かれると、ただ偽りを申したため、支えを失われたと
神君の御後悔、御嗔り(いかり)は限りなかった。」
581 :
2017/02/06(月) 00:53:15.31 ID:l0/11MB8
さて、ある人の言ったことを聞くと、
東都の中、渋谷の東北寺というところの後ろの山に、岡崎三郎殿の古墓というものが在る。
東北寺の地はもとは大久保侯〔今の小田原侯〕の別荘であったが、後に寺へ寄附されたという。
かの墓が在るのは、三郎殿が生害のとき、内実は大久保氏の先祖と謀り、
害死したと執り成したが、秘かに大久保氏が逃し後まで匿い置いて、
ついに寿命により終わられたので、その荘中に埋葬した跡であると相伝している。
他の書と照らし合わせるべきだろう。今のところは異聞としかいいようない。

またいわく、このようなので『三河記』に載っていた御生害の御年季と、
御墓標の御遺号が違っているという。

また、後年になってこの墓所につき御茶湯料のことを東北寺から願い出たが、
「たとえ真実であっても、今まで知られていないことを、
このように表に出すのは却ってよくない。」と宣告は容れられなかったと聞いた。

(『江戸砂子補』には、禅河山東北寺妙心派は、下渋谷に在るとある。この地のことだ。)

(甲子夜話三篇)
582 :
2017/02/06(月) 00:57:51.02 ID:IMsa1VVG
謀反を恐れて殺したのにノブのせいにするウンコ漏らし
583 :
2017/02/06(月) 16:39:04.29 ID:r2/kuP1d
>>580
誤字に対する注釈が面白い、今も昔もかわらんなー
584 :
2017/02/06(月) 17:53:59.41 ID:lRnEA01U
>>582
おまえこの本文全く読んでないだろ
585 :
2017/02/06(月) 19:24:05.84 ID:PLy9AzSu
最近、秀吉厨と家康厨が活発にやりあっていてどこも荒れぎみだね
586 :
2017/02/06(月) 19:46:03.96 ID:H2xryelB
まあ信長の武田恐怖症は異常だしな
岡崎が織田を捨てて武田に走る気持ちも分かる
587 :
2017/02/08(水) 03:35:26.83 ID:407AQT02
○ 台徳院様(徳川秀忠)が三河田原で御狩りをなさった時、猟師の中に
“あたり筒”を持っている者がいた。

これを岡部八十郎が借りようと先約した。ところが、中川八兵衛も借りよう
として、口論になり、

八十郎は即座に八兵衛を討った。八十郎の若党が八兵衛を討ったという。


○ 右の御狩りの時、九鬼図書(成隆)は御見舞いに参られ、御狩りを見物
致されて、本多中書(忠勝)に会い、

「おびただしき御人数かな。8,9万人もいるのではないだろうか」と挨拶した。

中書は曰く、「いや左程はあるまい。およそこのように山の方から平地へと
続いている人数は大勢に見える。谷底などの人数は小勢に見えるものだ」

――『武功雑記』
588 :
2017/02/08(水) 18:41:40.50 ID:x9+MGLZ0
流石忠勝さんはいつも冷静だな
589 :
2017/02/09(木) 08:21:08.96 ID:i7dwTuub
>>587
そもそも当時の日本で、視界内に8〜9万人も入る状態が起こり得たんだろうか
590 :
2017/02/09(木) 18:14:53.87 ID:uZ8rMyA2
俺の財布でもそんなにいないな
591 :
2017/02/09(木) 19:28:19.30 ID:IuYwlBQ0
大げさなこと言ったら真面目に返されたんじゃない?
592 :
2017/02/10(金) 02:48:01.57 ID:2I4GYOmF
○ 浜松にて、鳥居金次郎と成瀬藤蔵は口論し、果たし合いをしようと約束した。

ところが、成瀬が「いや、明日の合戦で先を争って死ぬことこそしかるべきだ!」
と言い、三方ヶ原で両人は討死した。

この金次郎の子も金次郎といい、長久手で討死した。

○ 山県三郎兵衛(昌景)の与力・孕石源右衛門は小瘡<ほりめがさとも云>
を煩い、行歩は不自由で、殊のほか痛んだ。

三方ヶ原合戦の時、孕石は馬から下りることができず、下人に負われ槍場まで
参り、ひたと這い出て人より先へ行き、一番槍を合わせて、名乗りをあげた。

三郎兵衛はこれを見て乗り来ると、「孕石の一番槍を見たぞ!」と、言った。

その相手は小栗某と取り沙汰し仕ったが、成瀬藤蔵と鳥居金次郎の両人の内、
どちらかであるという。

――『武功雑記』
593 :
2017/02/11(土) 21:46:26.57 ID:p+eky8c1
本多忠勝が桑名城を拝領した時、本丸の堀を腰の高さまで埋めさせたという。
これは桑名城が海岸に築かれた城であったので、石垣の際まで敵が攻め寄せたところを、
下矢で射やすくするための改修であったそうだ。

(武野燭談)
594 :
2017/02/11(土) 22:23:11.24 ID:6M6UdOVU
松平上総之助忠輝卿は大神君の九男であり、越後高田六十万石の領主である。
あるとき忠輝卿は自領の名生村へ出かけ、漁を見物することにした。
集められた千人の漁師たちは「殿様が見てるなら」と秘術を尽くして網を引いたため、
魚が浜を埋め尽くすほどの大漁。
忠輝卿もおおいに機嫌が良くなり、魚を料理させた上で家臣と漁師に酒をぞんぶんにふるまった。

おかげで一同、大騒ぎした上で酔い潰れてしまったのだが、
村の住人である庄左衛門、異名を“今猩々”という男だけが素面である。
これを見て奉行、「お前は下戸なのか、なぜ飲まないのだ」と問うと、
男「酒は大好きなのですが、いくら飲んでも酔わないのです。
今日もせっかくの心遣い、存分に飲もうと思って何杯かいただいたのですが(酔えず)、
酒が尽きたのか持ってくる人もいなくなってしまいました」という答。
これを聞いて奉行、せっかくみんな楽しんでいるのにこの男だけ酔えないとは気の毒だと思い、
残りの酒を三、四斗ほどをかき集めて飲ませた。
奉行「満足しましたか…(小声
男「もうちょっと飲めば酔えたんですけどね」
奉行「えぇ…」
しかし酒も尽き、忠輝卿も帰城することになったので、話はここまでとなった。

後日この話が評判となり、聞きつけた忠輝卿が
「さてさて不思議なことだ、こやつがどれだけ飲めるのか調べてみよ」と仰せになったので、
男を城へ呼び寄せて饗応することになった。
次の間に通された男、次々に運ばれてくる酒を飲むわ飲むわ、
六斗まで飲み干したところで「ありがたき幸せ、私は生まれてこのかた酔ったことはありませんでしたが、
お殿様のおかげで今日こそは満足しましたぞ」と言い、遂に酔った様子を見せる。
役人が「そりゃ良かった、では少し酔いをさまして帰りなさい」と伝えると、
小唄などうたってご機嫌の男、「かしこまった」などと言い、床の間の縁を枕にグーグー寝てしまった。
これを障子の隙間から見ていた忠輝卿、
「あのような小男がいくら酒を飲んでも酔わないとは不審なことだ。気の毒だが殺せ」
「えっ」
「殺して腹を割き、酒があるか確認せよ」
お殿様の言うことなので誰も逆らえず、哀れ男は殺されてしまった。

家臣たちは男の腹を割き、ついでに手足もバラバラにしてみたが、酒の痕跡は一滴もない。
これはおかしいとよく調べると、男の両脇の下に一寸ばかりの瓶が見つかり、そこから酒の匂いがただよってくる。
忠輝卿、これを打ち砕いてみよと命じるも鉄石のごとき固さで歯が立たず、そのうち口から酒がこぼれてきた。
その酒をあけてみると、一瓶につき三斗、併せて六斗が入っており、
逆に出てきた六斗ぶんの酒を瓶に戻すこともできた。
これを見た忠輝卿、この世にふたつとない宝を得たといって喜び、猩々瓶と名付け、
その後は身から離さず持っていたという。

〜掃聚雑談

捨て童子さんのちょっと悪い話
595 :
2017/02/12(日) 02:11:19.37 ID:1YM6JH+R
長坂源五郎の事

武田信玄は長坂源五郎の心気を試そうと、
度々美女を源五郎の方へ御用を申し付けて使いに出されました。
すると、度々の事なので後になっていくと、
源五郎は嗜みが緩みその女に戯れた言葉をかけてしまった。
その様子を御側の者から聞かれると、信玄は実際にその様子を御覧になられ、
とうとう源五郎を見限られたといいます。

かりそめにも美童美女等に、たとえ遠くから見る人聞く人がいなくても、
少しも戯れた様子で詞をかけてはならないということです。
嗜むべきなのは『色の道は金銀の事』と
堅く守らなければならないということです。


『武士としては』
596 :
2017/02/12(日) 02:39:21.28 ID:rnvBOGUA
ハニートラップしかけて浮気調査
597 :
2017/02/12(日) 02:40:36.37 ID:vQNGMvww
モニタリング?
598 :
2017/02/12(日) 06:17:26.53 ID:vMpwbjHL
嫌なやつだなw
599 :
2017/02/12(日) 09:13:54.62 ID:9kYINmyX
>>594
寝てるならそのまま身ぐるみはげばいいだけじゃん
殺すこたぁないだろw
600 :
2017/02/12(日) 14:06:35.43 ID:doLJSv2v
>>594
御伽噺の世界だw
601 :
2017/02/12(日) 14:51:03.57 ID:b1Rp+1Iz
>>599
胃の中を見たいからね、しかたないね
602 :
2017/02/15(水) 20:08:35.82 ID:0fvy8vfu
慶長5年、関ヶ原の役において、九鬼長門守守隆は家康の会津征伐に従い、小山の陣に伺候していたが、
父大隅守嘉隆は、隠居の身として石田三成に与し、海賊を集めているという情報がもたらされた。

これにより「九鬼守隆を幽閉すべし」との声が上がったが、成瀬隼人正正成は反対した

「長門守が謀反を謀ることはありません。そもそも今回御供つかまつった上方衆のうち、
父子・兄弟別れているものは多くおります。その中で長門守一人を押込めるというのは
如何でありましょうか?

先ずは長門守に今度の旨を仰せ聞かせられ、その上で九鬼の領地に遣わし、彼の様子を
ご覧になった上で、必要な時は踏み潰す。そうしたほうが簡単であると存じます。」

そこで家康は守隆を召し、委細を聞かせ、「早々に志摩へ馳せ上がるべし。」と命じた。
守隆畏まって鳥羽へと赴いたが、考える所あって父。嘉隆とは対面せず、自分は関東に
御味方仕る旨を申し送った。

息子守隆が合流しないことで、嘉隆の勢力は広がらず籠城も難しくなり、伊勢神官の内に知人があり、
それを頼って城を開き退いた。ところが嘉隆の家臣である豊田五左衛門という男が、あえなく
主人嘉隆を害してしまった。

これを知った守隆の口惜しさは如何程であっただろうか。
流石に父に対しては敵し難いと考え、勿論関東に背く心もなかったため、直ぐには父子対面せず、
引き別れて立てた忠孝をどうにかして申し上げ、父の命を救うという計画が果たされるのは
目前であったのに、家臣豊田の大逆にて害されてしまった嘉隆の運命のほど。
是非もないことである。

(武野燭談)
603 :
2017/02/16(木) 20:56:20.04 ID:ytr5iFmx
幕府老中であった井上主計頭正就の父は、井上半右衛門(清秀)という、知行僅かに150石の子であると
されているが、実はそうではない。

井上半右衛門には長男があり、太左衛門といった。この太左衛門も母が身罷った後、故あって
阿部定吉の妾が懐妊していたのを、井上半右衛門の妻として、程なく出産したが、これが
井上正就であった。この妻は続いて筑後守政重を産んだ。
つまり正就と政重は、同腹別種の兄弟である。しかし正就は異父の苗字を称し、実父の阿部を
名乗らなかった。これには以下のような理由がある。

阿部定吉は徳川家における老功の人であり、松平清康に仕えていた。ところがその子・弥七郎(正豊)が
率爾の行動によって清康を殺してしまった。(森山崩れ)
しかしこの事に、父・定吉は全く関わっていなかったため、彼はその後も恙無く松平家に仕えた。

だが定吉は、我が子が主君を弑した逆罪を悔い嘆き、一生養子もせず、妊娠した妾すら、
他人に遣わし、清康・広忠・家康三代の老臣として、あえてその名字を断絶させたのである。

後に井上正就が半九郎と称していた時、大相国(徳川秀忠)が彼を召し出し、この仔細を
教えたという。

そして段々と登用され、奉書・連判の席に加わり、顕職の人となったが、彼は居間に
『井上半右衛門子半九郎』
と書き付け、朝暮れにこれを見るようにしており、この事を、心易い人にはこう言っていた

「私は(徳川の老臣・阿部定吉の子ではなく)150石の微臣である井上半右衛門の子、半九郎に過ぎない
ということを忘れないように心がけているのです。こうすることで御奉公にも、また
家の祈祷にもなると考えています。
かつて石田治部少輔は、そもそもが石田佐吉であったことを忘れ、諸侯に奢り、大志を志して滅びました。
我が願いはただただ、この御恩を無にせぬようにと、そういう心がけなのです。」

そんな彼であったが、寛永年中に殿中で豊島信満に討たれた。これもまた時の運であろうか。

(武野燭談)
604 :
2017/02/16(木) 21:25:00.04 ID:op0NtBCx
>>603
オチが・・・・・・
605 :
2017/02/17(金) 00:53:42.57 ID:29qev1l+
宇喜多秀家流罪に及びしこと

 ある人が曰く、
宇喜多秀家は関ヶ原では毛利上杉佐竹と同じである。
他は皆今の領土となったが、
秀家ただ一人が遠流に処されたのは神祖に憎まれることがあったためだとか。
 秀家は法華宗を信仰していて、その時領していた備前備中備後から諸宗を追い立てて悉く日蓮宗の寺とした。
もちろん浄土宗の寺院も押し退けられており、そのため
浄土宗である神祖から憎み怒られていた。
関ヶ原後に、もはや極刑にもなるべきところを島津氏の御歎きから流罪となったという。
 またかの国の諸寺でもその事実を裏付けることを聞いたが、
皆忘れてしまったので、ここではそれを書くことができない。

(甲子夜話三篇)

なぜ島津が、それも家康に意見を言う立場で出てくるのか?
606 :
2017/02/17(金) 00:57:21.76 ID:7heINWbt
島津が宇喜多を匿っていて
家康に許された時にそれを申し出たから
島津の顔を立てるためでしょ
607 :
2017/02/21(火) 21:11:47.83 ID:CscOQyRT
森川出羽守重俊が、徳川秀忠の薨去に付き殉死する時、息子伊賀守重友以下、親類を招き集めて
庭訓した

「弓矢の臆れは少しでも大事になってしまうものだ。先年、大相国(秀忠)が独座されていた時、
ため息をされたのを御次の間にて承り、「これは天下の大事でも起こったのか」と胸騒ぎしたが、
その後御機嫌を伺った所、先のため息について「真田表のことは…」と仰られた。
あれ式の事さえ、相国様は御身の臆れのように思われていたのだ。

汝ら、構えて自余の事は愚かであっても、武士道の規範を外れ、軍法を破ることなどは、殊に
不忠の第一であるぞ!」

そう遺言して、秀忠の御供をした、

この時、徳川家光は側の者達に「出羽守はどうした?」と尋ねた。殉死した旨を申し上げると
「とても生きては居ないだろう。もし存えていればいいのだが。」と言った。

これを承った人々「これは興味深い御言葉である。どういう理由であのように言われたのだろう?」
そう不思議に思っていると、古くから仕える人が言った

「その事だが、かの出羽守は昔、新将軍(家光)が未だ幼少の頃、いたずら遊ばされた時に、
拳で殴りつけたことがあったのだ(拳の障りし事ありし)。その時家光公は
『これを覚えていろよ!』とのお言葉を発せられた。それは御幼少ながら甚だ鋭いものであった。
もしかすると、その事について言われたのではないだろうか。」
そう推測した。

(武野燭談)
608 :
2017/02/22(水) 04:00:20.62 ID:LKwAbEd0
この年(天正2年)、近江国鎌刃の城主・堀次郎(秀村)と、同じく樋口(堀氏家臣)
が御改易となる。

その詳細は、木下筑前守秀吉と協力していたが、小谷落城以前の秀吉は5万石、
堀次郎は10万石の領主だったので、秀吉の意見に服さず、関係が悪かった。

近年、浅井へ内通した旨が秀吉より言上されたので、このような事になった。

(其子細木下筑前守秀吉同心たりしが、小谷落去以前は、秀吉は五万石、
堀二郎は十万石の領主たるに依て、不服秀吉異見条、間柄不快。近年浅井へ
内通仕候由、秀吉依言上如此)

――『当代記』
609 :
2017/02/22(水) 09:46:36.86 ID:3POQtBKt
手取川の戦い(小声
610 :
2017/02/23(木) 07:41:29.69 ID:NtmEGZmh
獄司所用の鑓之事

 概して人へ刑罰をおこなうとき、獄司が用いる槍は柄が朱黒の段塗である。
予も引廻し晒し者に行きかかったときに度々見た。
宗耕が言うには、磔罪のときもこの槍で突くという。
 さて、この槍は初めは福島左衛門(正則)の家の槍であったが、
故あって何者かの物となり、それより獄司に転じたという。
その次第は聞いたが忘れた。
福島は違っていないはずだ。

(甲子夜話三篇)
611 :
2017/02/24(金) 00:20:47.23 ID:rjLhinUl
秀吉公の御時、「ならかし」と言う事があった。金を貸し出した金融業者は、元金を失った上に、
なお放埒な営業の罪が軽くないとして、罰金として再び黄金を提出させられた。
そこでこのような落首が出た

 奈良かしや この天下殿二重取り とにもかくにもねだれ人かな
 (奈良貸しで秀吉公は黄金を二重取りされた。なんという狡猾な人であろうか)

  ※ねだれ人:色々な計略、策を用いて人に損害を与えようと他人を欺く人、狡猾な人【日葡辞書】
(醒睡笑)

この「ならかし」、はじまりはこういうものであった

『奈良中へは大納言殿(豊臣秀長)より金子一枚を代米四石ずつにして、一万石ばかり町々へ借用。
押してかくのごとし、金は来年の春に取るべきよしなり』
(奈良において豊臣秀長は金子一枚を代米四石とした上で、米一万石を奈良の町々に貸し付けた。
その利息を来年春に「金」で支払うようにとした。」
(多聞院日記天正十七年十月五日条)

つまり秀長が、奈良の金融業者を通じて人々に米を貸し付け、その利息を金で受け取っていた、
という事である。
しかしその結果、天正二〇年九月二日付「奈良惣中」より秀吉側近、木下半助(吉隆)、
山中橘内(長俊)にあてた直訴状の第四条によると

『一、大光院様(豊臣秀長)は御金五百枚あまりに利息をつけて奈良に御貸しなされました。
しかし、毎月利子を銀子にて、奈良奉行の井上源五殿は過分に徴収されました。
しかも井上源五殿は私的な金二百枚あまりも、これも大光院様の御金であるとして、奈良中に
貸し付けられ、ここからも過分の利息を取られました。』
(庁中漫録)

奈良においてはこの借金のため、殺人事件や一家心中が起こるなど、社会問題化していたという。
そしてこの直訴の結果は

『直訴のさまは、ことごとく地下人の勝ち』
(多聞院日記天正二〇年九月八日条)

となり、これにかかわる奈良の金商人(金融業者)が尽く牢に入れられた。
しかし訴訟した者達も一時的に牢に入れられ、また奈良奉行の井上源五には何の処分もなかった。

ところでこの「ならかし」で、何のために資金が集められたのか。
天正二〇年十月十日、豊臣秀吉より、豊臣秀次宛の朱印状にこうある

『一,今度奈良借について出だしそうろう金銀、これらをも右の船(安宅船)の用に入ること
そうらわば、あい渡すべきこと』
(今度の奈良借しで得られた金銀について、安宅船の建造に必要であればそちらに流用するように)

「ならかし」で集めた金銀を、秀吉の「唐入り」のための、軍船建造費に使うように、との内容である。
ここで「ならかし」が、秀吉の政権による施策であったことが判明するのである。
金融業者たちを牢に入れたのは、責任を彼らに転嫁するためであったのだろう。

以上、醒睡笑の「ならかし」の逸話と、それについて、河内将芳 著「落日の豊臣政権」のより、解説を抜粋。
612 :
2017/02/25(土) 22:54:33.58 ID:ORS48Def
山名禅高があるとき、所々破れたいかにも古い、黒き羽織を着て御所に出たのを、大御所徳川家康が見て
「禅高、その羽織は?」と尋ねられた。禅高は袖をかき合わせて
「これは満松院殿(足利)義晴公より拝領したものです。」と申し上げた。
家康はこれを聞くと
「流石は山名殿である。返す返すも殊勝なり。」
そう御感賞された。

これは岩淵夜話に有る話であるが、有る人が言うには、羽織はことさら近年のものである。
初めは中元以上の者達が、ばさら事の伊達に、稀に着たものであったという。
それがこの頃に至っては、上下ともに礼服のように揃って着るように成り、公の場においての
時服拝領などでも、羽織が添えられるようになったが、それはここ百年ほどの事であるそうだ。
613 :
2017/02/25(土) 22:54:53.32 ID:ORS48Def
私の記憶では、七十余年以前の私が幼かった頃までは、武家において子供に羽織を着せることはなかった。
ただし町家などでは振り袖の羽織を着せていて、私もこれを羨ましく思い、親にせがんだ所
「士の子は袴だけでよろしい」と、古風であった私の父母は、どちらもこれを許さなかった。

その当時の老人たちはこう言っていた
「我らの若き時分までは、羽織を持っている人は稀でれあったし、普段から着ている人もおらず、
花見遊山と言った時に着ていただけであった。今のように成ったのは常憲院殿(徳川綱吉)の御代よりの
風俗である。」

このように見ていけば、羽織という物が世に現れたのは全く近年のことと見えるが、またこの逸話の内容が
真実であると見た場合、二百余年以前より羽織という服は存在したが、民間には広まっていなかった、
そう考えるべきであろうか。

(翁草)

言外にすげー言いたいことを感じる翁草の記事
614 :
2017/02/26(日) 00:15:40.67 ID:Lr6URigv
翁草の作者って割とこういう分析コメント好きだよな
615 :
2017/02/26(日) 04:34:54.64 ID:5ya2q+nv
褌みたいなもんか
616 :
2017/02/26(日) 08:11:04.60 ID:yHclo49x
庶民なんか普段は褌してなかったりするからな
617 :
2017/02/26(日) 20:47:37.65 ID:izwNANYm
今川義元は足が短く、胴は長く、片端であるとして臨済寺の喝食に致し
置かれたけれども、大将の器量ありとして取り立てられたという。

(今川義元。足みじかく。胴ながく片輪なりとて。臨濟寺の喝食にいたし
置かれたれども。大將の器量ありとて。取立られし由。)

――『武功雑記』
618 :
2017/02/26(日) 20:53:26.09 ID:j+Q6XpeV
胴長短足のほうが馬上では見栄えが良かったんじゃなかったっけ

たぶん輿に乗っててもカッコついたんだろう
619 :
2017/02/26(日) 21:29:21.37 ID:lnr7vVWg
義元公が輿に乗っていたのは足が短いからじゃない
駿河遠江三河の太守としての格式から乗っていただけ
肥満で馬に乗れなかったのは肥前のクマもん
620 :
2017/02/26(日) 22:18:04.90 ID:qZOgaZXR
雷神さん「輿に乗って戦場往来とか名将ぽくね?」
621 :
2017/02/26(日) 22:29:28.79 ID:lnr7vVWg
輿に乗って采配をふるい戦場を縦横無尽に駆け巡るとか実際に見てみたいわ
男塾の民明書房に騎馬戦の起源であるとか書かれてそうw
622 :
2017/02/27(月) 03:06:00.05 ID:1AOZFTBW
「ワシは輿を大っぴらに使うことを許されてる身分なのだ。格下ども控えおろう」
というデモンストレーションなんだろうけど、小回りが利かなかったから緊急脱出できなかったんだろうな
623 :
2017/02/27(月) 04:41:45.64 ID:cCpF6CPC
>>620
瘡頭「ですよねー」
624 :
2017/02/27(月) 07:32:58.92 ID:JdNMgBd3
>>618
短足だと馬の腹が蹴れないのでは?
625 :
2017/02/27(月) 20:29:57.84 ID:EACPwTQf
豊臣秀頼の最期については、異説が非常に多くて事実を分明できない。
おおよそ世の説を以ってすると、秀頼は大阪落城のあと薩摩へ退いたとされる。
薩州において客分として安居し、しかもかなりの長寿を得て、延宝か天和の頃(1673〜83)
90歳あまりで亡くなられたという。

その頃、薩摩の太守が参勤の御挨拶の砌に、将軍家に対し御人払いをして言上する、という事が
あったそうだ。この時薬研藤四郎の短刀が献上されたそうだが、それ以外に何が語られたのか、
全く知られていない。(この説虚実を知らず)

また、この時の随員のなかに真田を名乗る武士がいたそうだが、彼は世を憚って「マナ田」と
称していたという。真田大助の子孫だろうか。(この説も虚実を知らず)

(翁草)
626 :
2017/02/28(火) 01:26:27.42 ID:QzRy6CAa
昔読んだ小説に真田大助が主人公の話があったけど
武者修行中にチン子切り落とされてそれを哀れんだ実母とセクロスするとかって内容だったから
ずっと架空の人物だと思ってた
627 :
2017/03/01(水) 10:04:22.29 ID:L7mnKgnz
加藤家断絶前兆の事

蒲生秀行に仕えて一万石を領した神田清左衛門という武士は、後に加藤肥後守忠広に仕え五千石を領し、
肥後加藤家断絶の後は阿州松平安房守家(蜂須賀家)に抱えられ、三千石を賜い、その子孫は今も
かの家に仕えている。

この清左衛門の物語によると、肥後加藤家において寛永8年に不思議な事があったという。

熊本城内の桐の木に、冬瓜のようは果物が数多生えた。人々見て、
「これは珍しき事である、末はどのようになるのだろう。そのまま置いて、熟するのを見よう」
そう言って待っていた所、ようやく熟する頃に至って、その果物の中よりネズミが実を食い破って
出てきた。人々更に怪しみ、この果物を尽く取って切り割ってみると、全ての実の中にネズミがあった。
そのネズミは尽く打ち殺し捨てたが、その実のなかに一つだけ、鉈があった。
人々は「不思議、奇怪」と言うばかりであった。

然るにその翌寛永9年6月、肥後守忠広および嫡子豊後守光正父子は配流となり、領国を改易された。
「さては、あれはこの前兆であったか。」人々はそう囁きあった。

そのときに見つかった鉈は、仔細あって某氏の子孫が今も所持しているという。
これは清左衛門が物語したことを、阿州家中の士が語ったものである。

(翁草)
628 :
2017/03/01(水) 12:24:35.35 ID:GR/xBTE0
>>627
既出。しかもソースもいっしょ
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7747.html
629 :
2017/03/01(水) 13:58:25.95 ID:IhN9hwwZ
阿波の安房守か
630 :
2017/03/01(水) 23:11:11.96 ID:kLBlArxO
 ある人、紹巴の所へ行き

「我はあまりに無能でしたので、何か心掛けたいと存じています。
医者か連歌を望んでいます。
御相談の上、あなたの御意見次第にいたすつもりです。」

と言った。紹巴は聞き、

「それはよい心掛けでございます。二つの内では、連歌がましでありましょうか」

と言われた。それから、かの者は連歌を好むようになった。
 その後に、ある人が紹巴の所へ行き、

「さてさて、井原屋の無心は貴老と御相談して連歌をするようになったと申していましたが、
どういった理由からそうおっしゃられたのですか?」

と尋ねた。紹巴が言うに

「そのことでございますか。
あれほど出来が悪いのに医者になりましたら、
人の種がなくなってしまうでしょう。
せめて連歌ならば、人を殺すまいと思ったからです。」

(昨日は今日の物語)
631 :
2017/03/01(水) 23:29:52.99 ID:ahPZfOIy
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6056.html
曲直瀬道三を相手に紹巴で似たような話があったな
632 :
2017/03/02(木) 20:54:21.55 ID:gsMc9xf7
西国の、大村五島の類の外様大名について、彼らは元来国人にて、鯨突きの類であった。
戦国の頃、恣に近隣を略奪、横領し、後治世となって公儀より御改の節には、よき程に
石高を書いて提出し、その後検地の御沙汰も無く、その提出した石高の通りに、格式軍役を
仰せ付けられている。これを「差出高の衆」と言う。辺境の国にこの類は多い。
東国では津軽氏なども同じような存在である。表向きの差出高に対し、実高はその10倍であるとか。

(翁草)

肥前五島藩の五島家(宇久氏)のことか。
633 :
2017/03/03(金) 09:52:22.65 ID:2e2kntZ0
南部さんとか、島津さんとか
634 :
2017/03/03(金) 11:26:44.27 ID:zUVujDMJ
島津は表高を上げ過ぎて四苦八苦してるけどね。
津軽も江戸時代の高直しで苦境に陥ったし
635 :
2017/03/03(金) 14:18:07.22 ID:41HyJ93c
対馬の宗氏と蝦夷の松前氏は1万石扱いなんだっけかそんなにないのに
636 :
2017/03/03(金) 14:26:17.89 ID:9X2ZeKxt
一万ねえと大名じゃねえ
637 :
2017/03/03(金) 22:12:12.36 ID:JhVX3B9d
ろくに米とれない所は海産物やら木材なんかを石高換算するんだっけ?

1万石で大名ってのはいつからそう決まったの?
638 :
2017/03/03(金) 22:51:18.23 ID:H7v176AZ
江戸時代から。
米が単価ベースだったから米が基準、で海産物なんかは別換算だったはず。南部家は米が少ないから広い割に30万石くらいだったけど実際は海産物含めてもっとあったような文献を読んだ。
639 :
2017/03/04(土) 02:29:30.81 ID:CyHrUAAx
3月11日(慶長17年)、小笠原権之丞、榊原加兵衛以下、御旗本の輩
5,6人を改易なさった。伴天連の宗門に帰依している族である。

原主水正(胤信)も同罪の者であったが、逐電して行方知れずになった。

この時、大神君(徳川家康)の上意あって、今後旗本の面々は各10人組
とし、相互に吟味を遂げて、もし、その中にかの宗の徒がいれば、言上す
べしとの旨を、仰せ渡しなさったという。

――『関難間記』


岡本大八事件を受けての処罰と処置という話。
640 :
2017/03/04(土) 21:22:06.58 ID:x2xTiC3w
まとめサイトの管理人さんオススメの平山優「武田氏滅亡」の甲州征伐の箇所読んでたら
「甲乱記」では
飯田城の武田方は、馬糞が燃えているのを織田軍の鉄砲の火だと思い夜間に一目散に逃げ出した
まるで富士川の合戦で水鳥の音に逃げ出した平家のようだ
(平山優によれば、実際は浅間山が48年ぶりに噴火したのを見た武田方が戦意を無くしたからかも、としている)

と書かれてるとか、

勝頼の新府城からの逃亡を木曽義仲の没落や平家の都落ちになぞらえている、

そうだ。
富士川の合戦の大将が武田信義で
自称木曽義仲の子孫の木曽義昌がいち早く裏切ったことを考えると歴史の皮肉というかなんというか
641 :
2017/03/04(土) 22:25:04.51 ID:O+aWJb3p
鳥居家改易顛末

寛永12年、山形藩主・鳥居忠恒は嗣子を定めずに早世する
忠恒には同母弟で戸沢政盛の養嗣子になっていた定盛と部屋住みの異母弟・忠春がいた
本来なら忠春が後嗣になるのが筋だが忠恒はあえて不仲の継母・内藤氏の腹である忠春に継がせずわざわざ定盛に継がせようとした
これが末期養子の禁令に触れ幕府の嫌疑を招くことになる
この時、井伊直孝はこう発言したとされる
「世嗣の事をも望み請ひ申さざる条、憲法を背きて、上をなみし奉るに似たり」
「斯くの如き輩は懲らされずんば、向後、不義不忠の御家人等、何を以て戒めんや」(いずれも『寛政重修諸家譜』)
直孝発言は対立関係にあった鳥居家を追い込むためとの説もある
鳥居家と井伊家は元忠や直政の子世代の忠政や直勝(直孝兄)の頃から対立を深めていた
直孝の発言を受け幕府は「末期に及び不法のこと申請せし」(『寛政重修諸家譜』)とし山形24万石を没収し高遠3万石に転封させた
しかし忠春は忠恒以上の絵にかいたような暴君かつバカ殿でその子・忠則の不始末で鳥居家は二度目の改易に遭うのは先の話
642 :
2017/03/05(日) 02:53:36.53 ID:yOjylQgb
永禄3年の夏の頃、今川治部大輔源義元は駿河・三河・遠江の大軍を引き連れ、
天下一統のために東海道を上洛するので、まず尾張を攻め平らげて攻め上らん
と企てなさった。

(中略)

さて信長公の御軍謀は、敵の先手の大軍を皆本道へやり過して、当方の御人数
はひそかに山の陰を隠れて廻り行き、義元の本陣へ一同にどっと突き掛かって、
切り崩さんとの御謀であった。

義元はこれを知らずに赤地の錦の鎧直垂、胸白の具足を身に着け、松倉郷の刀、
大左文字の太刀を帯びて、先手の者どもが鷲津・丸根の両城を攻め落としたのを
大いに喜び、桶狭間の山下の芝原に敷皮をしかせ、義元はそれに座し休んで、

勇み誇っていたところへ、近郷の寺社の僧社人などが喜びの樽を進上したので、
すぐにそれで酒宴を初め、謡をうたい、 興に入っておられた。

熱田表には織田方の先陣、佐々隼人(政次)、千秋四郎(季忠)などが人数2百
ばかりで信長公の御旗を待ち受けて、山際に控えていた駿河勢へ打って掛かり、
佐々、千秋は小勢なので取り囲まれて50余人が討ち取られ、

駿河勢は勝ち誇って隼人、四郎両将の首を取って槍の先に高く持ち上げ、一度に
どっと鬨を作った。そればかりでなく、信長公の寵臣・岩室長門守も抜け駆けして
討ち取られた。佐々、千秋、岩室3人の首を本陣へ遣わし、

義元に見せ奉ると、義元はますます勇み誇り、「それがしの矛先には、いかなる
天魔鬼神であろうとも、溜まるまい!」とのたまい、なおも勝ち戦に驕りを極めて、
酒宴にふけっておられた。

――『織田軍記(総見記)』
643 :
2017/03/05(日) 05:13:29.81 ID:q0qI5IAz
長門が死んでるw
644 :
2017/03/05(日) 09:11:26.90 ID:xAM+rR9g
ザルすぎる防衛網
645 :
2017/03/05(日) 14:02:31.44 ID:HSagfeNr
 織田信長殿、内裏様を殊の外大切に思われ、村井春長(貞勝)を奉行に任命し禁中を尽く御修理をなされた。

 このことであるうつけ者が言った。

「内裏様の御念者は村井殿じゃ。」
「なぜに。」
「今日も『内裏様のみしりをしに行く』と、日に日に御出かけされるのでそうだと思ったのだ。」

※みしり 御修理 御尻

(昨日は今日の物語)
646 :
2017/03/07(火) 00:36:04.14 ID:sUTcU+gp
寛永14年、肥前島原にて切支丹宗門の一揆が起こった時。江戸より総軍令を遣わされることと成り、
将軍家光のお側に伺候していた板倉内膳正重昌が選ばれた。
ところが、その頃内膳正は病を患っており、老臣以下このことを聞くと

「別にこの役儀に相応しい器量のものを選ばれ、内膳正は御免あるべきではないだろうか。」

そう内々に相談し、何れも尤もであると賛同し、この趣を将軍家に申し上げることに定まった。
そこで大老である酒井讃岐守忠勝まで話を上げると、忠勝は聞くやいなや

「あなた方は内膳正という人間を解っていない。彼がこの度の御使を承りながら、病気のため
御免となったと仰せになれば、忝しとはよもや思わないだろう。
殊に、別人に代わりの軍監を仰せ付けられたと承れば、忽ち自害するような人物である。
ただそのままに、島原に遣わされるべきである。
仮に道中にて病死したなら、その時こそ代わりの人を使わさせるべきだ。」


「そのような事になれば、何かと日数を経る内に、一揆の蜂起はますます広がって
しまうのではないだろうか?そのことをどう思われるのか?」

この反論に讃岐守は笑って
「あれは土民の一気に過ぎない。一体誰が彼らに味方するというのだろう。
もしまた、この混乱を幸いに、幕府に対して反抗の色を立てる者が居れば、それこそ
我々にとって良き対応を試みる、良い機会となるだろう。
尚以て、板倉こそ遣わされるべきだ。」

内膳はこのことを聞き伝え、大いに喜んで早速準備をし、嫡子である後の内膳正重矩、
当時16歳であったのを同行させ、命を受けた即日出陣した。


しかしその冬の軍は思いの外手間取り、その事は将軍家まで聞き及び、重ねて松平伊豆守信綱を
差し向けられるべしとの事となった。

これを大久保彦左衛門忠教が聞いて、心易い同輩にこう囁いた
「あたら内膳正は討ち死にするだろう。不憫な事だ。」

彦左衛門察しの如く、松平伊豆守が発向したとの情報を聞くと同時に、板倉内膳正は一揆に猛攻を
仕掛け、深入りして討ち死にをし、息子重矩も深手を負った。

内膳正はこの日を討ち死にと覚悟し、出立の時、息子重矩に向かい
「私は今回、酒井讃州の一言によって、忝なくも総軍の支配を承った。
お前は相構えて、讃岐守の子孫に対し、無沙汰をしてはならない。」

そう重矩に、くれぐれもと言い含め打ち出たのだという。
人にとっては、一言であっても大事になる事もあるのだ。

(武野燭談)
647 :
2017/03/07(火) 02:24:25.85 ID:f/PBwvWV
信長公はもともと上戸である。浅井殿を妹婿に取って後、浅井殿を
何とかして、打ち潰そうとの謀ばかりを心がけなさったことによって、
大酒を止めなさったという。

――『武功雑記』
648 :
2017/03/09(木) 03:40:45.70 ID:3YZkEmVw
坂田五郎左衛門、穴沢左近と勝負之こと〔『校合雑記』〕付異聞

 世に『校合雑記』と題す書がある。実録と見える。
その書には、大坂信貴野での上杉景勝の兵である坂田五郎左衛門と穴沢左近〔世にいう薙刀の名人である〕の勝負が書かれてある。

 穴沢は隠れもない薙刀の上手であった。
坂田と槍を合わせると互角であり、
穴沢が手元まで入って来ると坂田は槍を捨てて穴沢を押し付けて引き組んだ。
穴沢は大力であったので、手もなく小高い所に坂田を組み敷いた。
しかし坂田は老武者で武功があったので、騒がず九寸五分を抜いて、
【根付の所より繰(クリ)かへし】〔根付以下十字はまだその事が分からない。よって原本に従った〕穴沢の首を取った。

「総じて自分の器量より他人をみくびりおごっている者は仕損じがあるものだ。
穴沢は器量を自慢していたと見えて、長刀ゆえに自分が生き残ると思っていた。」

と坂田が話していたと、上杉衆の話を書き付けてある。
〔長刀ゆえの言葉は、穴沢が長刀の能を誇っていたからかえって坂田は勝つことが出来て生存し、今日に至るとの事であった。〕

 ある夜話のとき、剣の師がいつもの稽古の話として言い伝わっているものを話してくれた。
穴沢のこの最後のとき相手は素槍であった。
しかし槍を合わせると穴沢はすぐに入ってきたので、相手は槍を投げ刀で袈裟に斬った。穴沢はここで負けたという。
師曰く、

「このようなので、太刀槍薙刀、その勝負の場は剣刃上である。」
(剣刃上※剣の刃の上を歩くように、自由自在なこと。)

『雑記』の文と異なっている。しかし両者とも心得るべきことだ。

(甲子夜話三篇)
649 :
2017/03/09(木) 23:55:41.28 ID:RVhtdrtc
或る説によると、豊臣秀吉が、実は神皇百六代後奈良帝の御落胤であるという。
母はこの朝廷に仕えていた所、禁裏衰微の故から御妊娠のあと故郷に帰り、上中村の何寺
とやらに居た叔父の僧の世話に寄って木下弥右衛門の所に嫁いだのだとか。

この説によると天瑞院殿(大政所)は弥右衛門の継室であり、瑞龍院殿(秀吉姉日秀尼)とは
別腹ということになるが、この説を豊臣秀吉は非常に喜び、後に朝鮮より素性を尋ねられた時、

「父は知らず。母は官女」

と書かせたという。

(翁草)
650 :
2017/03/10(金) 00:18:49.42 ID:CuKbDLlq
大村由己「天正記」を真に受ける人がいたとは

なお朝鮮の宰相・柳成龍「懲録」によれば
「秀吉については、ある者は『彼はもともと中国人で、倭国に流れ込んで薪を売って生計をたてていた。
ある日、国王が外出中に道ばたで出会い、その人となりの尋常でないのを見て、軍列に加えた。
勇敢で、力があり、戦上手であったので、功績をあげて大官に出世し、権力も握るようになって、
ついに源氏(足利氏)を奪ってこれに代わったのだ』と言い、またある者は、『源氏が、ある人に殺され、
秀吉がまたその人を殺して国を奪ったのだ』とも言う。」
(中略)
その国では、天皇を尊び、秀吉以下は、すべて臣下の礼をもって対処している。秀吉は、国内にあっては王を称えず、
ただ関白とか、博陸侯とか称している。いわゆる関白とは、霍光の言った『凡そ事は皆まず関わり白(もう)せ』という
語からとって、そのように称えているのである。」
となってるので落胤とは思われてなかった模様
651 :
2017/03/10(金) 00:39:46.61 ID:CuKbDLlq
ついでに↓でも触れられているけど柳成龍による巨済島の海戦
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1642.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2860.html

賊(日本)軍の平(小西)行長から要時羅(よしろう)という人物が金応瑞に派遣されて
「自分は講和交渉を台無しにした加藤清正を甚だ憎んでいる。
これこれの日に、清正の倭船が渡海してくるので朝鮮の水軍は迎え撃つべきだ」と言った。
権慄はこれを信じたが、李舜臣は賊の罠だと疑い、前進せずに遅延してしまった。
とうとう清正が上陸してしまったため、朝廷は李舜臣を咎め立てし獄舎に投ぜられた。
するとまた要時羅が派遣されて「これこれの日に倭船が来援します」と伝えてきたため、
李舜臣と仲の悪かった元均は、あるだけの船を全速力で向かったところ、
強風が吹いて散り散りになり、疲れたところを賊軍に襲われてわが水軍は壊滅してしまった。
思えば、賊軍は水軍にだけは敗北を喫していたため、秀吉がそれを憤って行長に撃破を命じ、
行長は応瑞を騙し、李舜臣を罪に落とし、元均を海上におびき寄せて襲撃したのだった。
その計略は至って巧妙で、わが方は、ことごとくその計略にはまり込んでしまった。
哀しいことである!

友軍を売ろうとしたら大戦果を収めてしまった小西行長であった
652 :
2017/03/10(金) 00:57:59.00 ID:B06BHJSI
平戸広前院、壱岐覚音寺、田平弥勒寺、城下正安寺、誓願寺等鐘之事

 天保甲午に侍臣の父が古談を言ったとして話した。
〔以下の文は他人が聞きやすいように記してある。〕

城下の町中にある七郎権現という祠は大きな宇である。
その祠前に道を隔てて海辺に船着きの石段がある。
法印公(松浦鎮信)が朝鮮へ御出陣の時はここから御船を出された。
この時祠の傍らにある別当広前院の門を顧みると、撞鐘が懸けてある。
公は軍吏に命じて
「かの鐘を銃丸とすべし」
とおっしゃられた。
〔予が思うにこの銃丸はいわゆる唐金丸(からかねだま)であろう。
堅物を貫ける利点がある。朝鮮着岸のとき、兵達の利となるように慮られたのであろう。〕

 これから公の鋭志を見ることができた。
この話を聞き、近頃かの侍臣が広前院の門を視たがその門は今日の物ではなく、
甚だしく古色であった。しかし懸鐘の鉤はなお衡門に存在していた。
鐘を取った後からまた年月を経てそこにある。この門の安否は知らないと。

 また不動院〔この僧は平戸の生まれで、久しく壱岐の某寺に住んでいた〕が話では
今壱岐の覚音寺〔立石村〕にある鐘は、法印公は朝鮮に持っていかれた広前院の物だという。
なぜ壱岐にあるのかというと御帰陣のとき混雑だったためだという。ならば銃丸の話はまた一説であろうか。
 少年の時に広前院に仮住まいしていた者に聞いても、前説のようであった。
これはかの寺で言い伝えだという。
また、懸鉤はかの古門を修造するときに取り離したときに、
そのころの住僧がよく心得ていて古い例によってもとのように打たせたという。

 またある者の話では領内の田平村の弥勒寺という寺には、領内の数里隔てた相神浦真法寺という寺の鐘があり、これも朝鮮帰陣の時のことと言い伝わっている。皆の混雑の有様が想われる。

 城下の正安寺という寺は古き祖先公が開基の寺である。
この鐘も朝鮮に持って行かれたが、この寺の銘がある鐘は今日向国にあると聞いたので、
そこの島津淡州に頼んでかの国に問うた。
何八幡とかいう社頭馬場がある辺りの寺に、
正しく平戸島正安寺と銘がある鐘があると答えた。
これらは元の場所と違い所に行き、島津氏が手に入れる結果となった。

 また城下誓願寺という浄土宗も古い寺である。
この寺に今ある鐘は大きな物であるが、長州吉田郷何々の鐘とか銘がある。
また誓願寺の鐘はいずれかにあると。
『扶桑鐘銘集』かに書いてあると思われる。
これは暗記なので定かではない。
この寺の鐘も古寺のことゆえ、朝鮮の役に持って行ったものの一つであろう。

(甲子夜話三篇)
653 :
2017/03/10(金) 11:40:36.45 ID:gLZd/NjL
メチャクチャですがな w
654 :
2017/03/10(金) 13:55:56.55 ID:c5Zdyy3A
>>650
>『源氏が、ある人に殺され、秀吉がまたその人を殺して国を奪ったのだ』

爆弾正「よし、途中が抜けてるからセーフだな」
655 :
人間七七四年
2017/03/10(金) 21:36:32.50 ID:I2lYKaTf
大河ドラマのおんな城主直虎が不発なので応援エピソードを送る

1983年の大河ドラマ徳川家康でのエピソードだが
(NHKオンデマンドで見れるシーンだが)
徳川家康の幼年時代に今川家に人質になった年の正月に
今川義元から屠蘇をもらう時、竹千代のそばに美しい姫が二人並んだ
1人は鶴姫といいもう1人は亀姫という
義元は竹千代に将来、鶴姫を嫁にしないか?と言われる。
竹千代は殿の命令ならいただきますと答えた。
すると義元は竹千代にでは亀姫はどうか?と尋ねられ
竹千代は即答で亀姫を嫁にしたいと答えた。
数年後、竹千代の嫁になったのは鶴姫だった。
それから数年後、亀姫は竹千代事、徳川家康の敵としてはばかり
悲劇の最後を遂げるのである。
亀姫が亡き後、家康は亀姫にそっくりな姫を側室にして
その側室が2代将軍秀忠を生むのである。

ちなみに亀姫が死んだ後に鶴姫は亀姫の墓前に
椿の花を数百本植えて弔った弔ったいうエピソードがある。
656 :
2017/03/10(金) 22:01:22.78 ID:SqWqwXvN
それって大河以前の出典のあるエピソード?
657 :
人間七七四年
2017/03/10(金) 22:13:40.76 ID:I2lYKaTf
原作読んでないからわからん
脚本家の創作かも知れないけど
658 :
人間七七四年
2017/03/10(金) 22:39:44.07 ID:I2lYKaTf
これからの「おんな城主直虎」は田鶴との血を血で洗う攻防戦になるから
これをどのように描くのかシナリオに興味があるな
この田鶴との攻防戦のできによっては面白くなるか
オニギリ以下の大河ドラマになるかの瀬戸際だから注目しといていいよ
659 :
人間七七四年
2017/03/10(金) 22:51:14.59 ID:I2lYKaTf
ネタバレになるのだが
大河ドラマの徳川家康の亀姫=おんな城主直虎の田鶴なんだよな

徳川家康では竹千代の初恋の姫で、直虎では直虎の最大の天敵というのも面白いですと思う
660 :
2017/03/10(金) 23:24:00.65 ID:TbL3G2rO
10年くらい前にいい悪いスレに上がってた話をドラマで見れるとか胸が熱くなるよな
661 :
2017/03/11(土) 10:28:41.06 ID:NRxTn7fG
鶴姫=瀬名
亀姫=田鶴
662 :
2017/03/11(土) 12:42:16.66 ID:3jYWWDyx
鶴がついてる方がつるひめじゃーないのか
663 :
2017/03/12(日) 03:54:09.75 ID:Ea6rH+3d
 関白秀次公の御咄衆に、曽呂利と申す者がいた。
あまりによく話をしますので、ある時話をつまらせてやろうと思し召された。
彼が朝の寝起きで未だ顔も洗わず目をこすって取り乱している体であったときに、

「何か話を一つせよ」

と仰せられた。すぐの話なのでつまりかけたが、ふと昨夜の夢を語りだした。

「さても、今宵夢を見ておりましたのか。
ある所へ行きまして、道に小金が夥しく落ちておりました。
さても嬉しい事かなと存じ、思う存分に拾い持ち帰るところに、
落とした主が来て取り返そうと追いかけてきました。
汗水をかきながら逃げましたが追いつかれそうになり、
もはやというところで余りの苦しさに、大便を垂れてしましました。
そこで目が醒め、かの金を探ってみましたが金は跡形もなく、
大便はたくさん垂れてありました。」

(昨日は今日の物語)
664 :
2017/03/12(日) 14:38:42.96 ID:lFS0FxH5
日本人は本当食い物を粗末にするよな
665 :
2017/03/14(火) 17:34:44.98 ID:T6KbAzrH
ある年のこと、尾張大納言徳川義直の元に酒井讃岐守忠勝が訪問した時、馳走にと
嫡男五郎太殿(後の徳川光友)による能興行があった。
この時、五郎太の手の舞い、足の踏む所、自らの拍子を、『讃岐守はきっと感賞するであろう』と、
義直は自慢げに見せるのを、忠勝は一切褒めず

「勿体なき大事の御身でございます。どうぞ余人に仰せ付けてください。すでにご器用なのはよく解りました」
(勿体なき大事の御身にて候。只余人に仰せ付けられ候へ。最早御器用の程は見え申したり)

と、しきりに止めようとした。立ち返ってから

「武家は何度も武を賞賛されることこそ本意である。大人・公子の御身として、幽霊女の真似など、
全く益がないではないか。」
故に全く感心できなかったのでやめるよう言ったのだと、成瀬隼人正正成に語ったそうである。

(武野燭談)
666 :
2017/03/14(火) 21:27:44.11 ID:BQ1j7HGy
でも武を見せつけると謀叛の疑いをかけらるんだろ
667 :
2017/03/15(水) 17:53:08.67 ID:FwIHOceO
ある人が言った
「大久保相模守忠隣、本多上野介正純などは、父祖代々御当家に仕えて大功のある人々の子です。
であるのにその一身が修まらざるによりて、最期には辱められ、彼らに縁のあった大名たちもまた、
名家、あるいは数代の武臣であったのに、多くがこの事によって改易されました。
これは非常に荒い御政務ではないでしょうか。」

これを土井大炊頭利勝が聞いた
「愚かなることを申す者かな。私などは今、武家(将軍家)執事職を兼ね勤めていると言っても、
子孫が君命に背くなら、他の者よりも罪を糾明されてこそ本意である。
またその上で、折が有れば、大久保・本多といった罪を問われた人々に存命の子孫が有れば、
宜しく召し仕わされる事、これが仁政である。

今は、天下創業の御政務である。
だからこそ、先ず御譜代より厳しく戒め置かれているのは天下に恐れられている。
御譜代の者が別してその罪を深くしてこそ、上の後威光が増すのである。

忠隣、正純の父である、大久保忠世、本多正純も、息子に対して泉下で憎んでいるだろう。
仮に存命していれば、共に子を勘当したであろう。
彼らはそういう人物であった。」

そう申されたという。

(武野燭談)
668 :
2017/03/15(水) 19:41:25.77 ID:jC7m6Npx
>>667
いい話じゃない?
669 :
2017/03/15(水) 21:45:02.10 ID:kjNWxgyd
正純の父が正純
670 :
2017/03/15(水) 22:44:16.45 ID:ccF9VRfj
Oh!マサズミホンダJrのコトダネー
671 :
2017/03/16(木) 00:57:14.93 ID:ESpxuFY9
 天正の末のことである。
関白秀次の家臣の人々が新しい諸大夫になった時、
その若造どもは聚楽の番所のわきに集って居た。

「我が主殿は、今度”かみ”になられたか。
社参してくる衆も『めでたくございます』と樽酒を持って参る。
が、まだ賽銭などは見えませんな。」
「何の”かみ”におなりになられたのか?」
「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」
「それは少し生臭いかみじゃ。しかしながら、これは御意であろうのでどうしようもない。
うちの主殿も昔から、”なまこの寿千寺”といってきている。」

 評して云う。
万民を憂う心は弱く利を思う心が強い人を宰相の職に挙用したら、
雀部淡路守をあはびのかみ、尼子寿千寺をなまこと聞き違える害がでたのだろう。
善悪が生じる原因は、智に明るいかどうかではないだろうか。

(戯言養気集)
672 :
2017/03/16(木) 10:10:26.13 ID:9pvTh3BL
落語の「松竹梅」を思い出した
長屋の松さん、竹さん、梅さんが名前が縁起がいいってので若旦那の婚礼の座興をすることになったが
松「なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿殿じゃになったあ」
竹「なんのじゃになられた?」
梅「長者になられた」
というところを梅さんが間違って
「大蛇になられた」「風邪になられた」
最終的には「亡者になられた」
と言ってしまい、あわてて逃げ帰るという
673 :
人間七七四年
2017/03/16(木) 21:35:54.42 ID:+0jck8rG
おんな城主田鶴
井伊直虎の最大ライバルなのになぜ出て来ないの?
武田信玄に上杉謙信
武蔵に小次郎
みたいな存在なのに
そもそも田鶴が直虎の曽祖父を毒殺して
直虎がおんな城主になったのに
674 :
2017/03/17(金) 01:49:54.67 ID:3F32zGZe
 太閤秀吉公が名護屋に御在陣の時加部島で鹿狩りを催し、
狩った鹿を田島大明神の社壇の前に集められた。
多くの臣下が神明の咎が蒙るかもしれずいかがなものかと思い、外へ持ち出すべきだと言ったが、
秀吉公は少しも恐れられず、

「どうしてそのような事が起ころうか」

と悠然とおられた所に、たちまち風波起こって集まっていた鹿を残らず吹き飛ばし穢土を清めた。
秀吉公はすぐに宮司に仰せられて、神鎮めの神楽を奏上された。
 その後祈祷祈念を怠られず、奉納寄付等があった。
既に朝鮮渡海の先鋒小西摂津守・加藤主計頭の軍勢が出船していたので、敵国調伏の祈祷をさせられた。
 御社の後ろの森の中に大石がある。この前に壇を築き注連縄を引いて、宮司は丹誠を尽くして祈る。
数百騎の精兵は弓矢を帯びて朝鮮の方に向かって矢を放ち鯨波を揚げると、大石が中から縦に割れた。
その石は割れたままで今も宮殿の後ろにある。
秀吉公は御感ひととおりでなく神明を仰がれられて、軍勢海陸無難、敵国調伏の祈願をこめられた。
 その後一艘の船を献じ朝鮮の梅と奈良の八重桜の苗を社内に植えさせられた。今もその樹が残っている。

 松浦郡の神社は皆田島大明神の末社であったという。
境内の末社に佐用姫の神社がある。縁起にもあることである。
秀吉公は、往昔に神功皇后が御祈願をこめられた例により、田島大明神を尊崇された。
また大伴狭手彦の因縁があるので、朝鮮征伐の時から、百石高、山林で相違ないと御朱印を与えられた。
今なお御代々の将軍から賜っており、宮司は従五位下を任官し昇殿を許されている。

『松浦古事記 寛政元年(1789年)成立 著者不詳』

・「往昔に神功皇后が御祈願をこめられた例」というのは、多分「神集島」のことで「加部島」ではない
・秀吉が佐用姫神社に百石寄進した朱印状は実存し名護屋城博物館に収蔵されているらしい
・佐用姫と大伴狭手彦というのはさよ姫伝説の事

「宣化天皇の頃、任那を新羅から救済する為大伴狭手彦が唐津に駐屯した。
そこで狭手彦は現地の豪族の娘の佐用姫と夫婦になるも、
狭手彦は朝鮮への出征により佐用姫を置いていくことにする。
佐用姫は夫を慕い、乗っている船を追いかけて加部島までたどり着くも、
結局夫と離れ離れになってしまう。
嘆き悲しんだ末、佐用姫は石になってしまった。」

というもの。(諸説ある)
元ネタは『肥前国風土記』の弟日姫子と大伴狭手彦だが、
出征して離れ離れになるとこまでは同じだが、加部島には行かないし石にもならない。
675 :
2017/03/17(金) 18:45:26.29 ID:MF2YxTVe
万葉集で大伴旅人に歌われるような伝説にたいして風土記が元ネタというのは違和感が
676 :
2017/03/18(土) 15:20:21.58 ID:L6OBA41M
>>675
正確には、奈良時代には広まっていた肥前国であったとされた伝説が元ネタですね。
万葉集では別れを惜しんで山に登って領巾を振る光景を主に詠っていますね。
どちらでも、佐用姫は加部島に行かないし石にもならない。

ついでに、佐用姫と秀吉の逸話をもう一つ投下


豊太閤が名護屋の御城におられた時、加部島を逍遥された。
浜辺に一つの石があったので、しばし休もうと腰をかけられると、
この石が温かくなってむくむくと動いた。
太閤は驚き、

「これは怪しい石である。きっと由縁があるに違いない。」

と古老を呼んで尋ねられた。

「あれは佐用姫の御形石です」

との答えがあったが、太閤は

「どうしてそのようなことがあろうか」

と尿をかけられるた。
すると沖の方からにわかに大波が来てこの石を洗い流した。
さすがの太閤も大変感じ入り、自らの無礼を詫びられて、
古人平野某を召して神司とし、
その場で百石の証文を授けて佐用姫の霊に仕えさせるよう
大谷吉隆(吉継)に仰せられた。

今もその例により、徳川家から代々百石の朱印を授けられている。

『松浦の家つと 安政六年(1859年)序 明治三十一年(1898年)刊  著者 岡 吉胤』
677 :
2017/03/18(土) 15:59:59.61 ID:TyxkKzHL
>>676
なんなの秀吉のテンプレでもあるのw
秀吉がおごり高ぶったことをする(しかも下品なこと)
→自然現象が起こる
→神意をみた秀吉が反省して色々奉ってみたりする
678 :
2017/03/18(土) 16:13:56.51 ID:lNAyAxB5
あるいは太閤の小便には超自然現象を起こす能力があるのやも知れん
679 :
2017/03/18(土) 22:54:13.84 ID:/FtvZE1I
>>677
あるんだろうね
秀吉が家臣の妻に手を出そうとしてしっぺ返しをくらう、みたいに
680 :
2017/03/19(日) 03:49:08.21 ID:WspcWOTG
(今川義元の討死により、)残る敵どもはどうして少しでも溜まることであろうか、総軍一度に敗北して、
四角八方へ崩れ立ち、後から逃げる味方をも敵が追ってくるぞと見損じて逃げ散るところを、

ここに押し詰め、あそこに追い詰め、思うままに討ち取った。さてもこの合戦の場“桶狭間”というところ
は山の狭間、深田の辺りで高み低みも打ち茂り、足場はどこも難所なので、逃げ行く者どもはいっそうに
途方を失い、ことごとく討ち取られた。

味方の若者ども(織田勢)は追いつき追いつき、首を2つ3つずつ討ち取って、信長公の御前へ参った
ところ、首はみな清洲で御実検なさるとして義元の首だけを御一覧なさり、御馬の先にその首をもたせ、
勝鬨を作り、これより敵を追い捨てて、早々にその日の申の刻に清洲を目指して御凱陣なさった。

山田新右衛門という者は本国駿河の者で、義元懇志の侍であるが、はるばる後陣にいたところで義元の
討死と聞き、馬を速めて桶狭間に馳せ来たり、「まことに命は義によって軽し!」と言い捨てて、義元の
討死の跡で一足も引かずに討死した。

この他、遠江二俣の城主・松井五郎八郎宗信を始め一党2百余人、伊井肥後守、笠原等が一所で討死
した。三河勢は松平善兵衛が棒山で討死した。松平摂津守、同兵部、同次右衛門は所々での討死である。
松平上野介は大高の城から元康の使いに来て本陣にいたが、義元と一所で討死した。

駿河勢には、江馬左京助、由比美作、石河新左衛門、関口越中、斎藤掃部、庵原右近、同勝次郎、
朝比奈主計、西江、内藤、富塚修理進、温井蔵人、富永伯耆守、牟礼主水、四宮右衛門、伊井信濃を
始めとして、駿遠参州の兵どもは数を尽くして討死した。

清洲の城で首帳が記されたところ、その数は2千5百であったということである。また3千ともいう説もある。
これよりしてこそ、信長公の名誉は天下に聞こえたのである。

――『織田軍記(総見記)』
681 :
2017/03/19(日) 03:51:10.05 ID:gSypgfin
なんとなく秀吉=将軍さま 自然現象=一休さんの構図が見えた
682 :
2017/03/19(日) 19:39:01.77 ID:ZMAWX+2P
1567年(永禄10年)、豊後の王(大友宗麟)より支那滞在中のニセア司教ドン・ベルショー・カルネイロに送りし書簡

『最も尊敬すべき君

我らは貴方が本年、当地に来られることを大いに期待している。そして貴方の渡海を妨げる原因が小さくないことを
憂いているが、近く相まみえる事の希望を失っていない。

私が常に耶蘇教を庇護したいと欲していることは、既に貴方の耳に達していると信ずる。
私が山口の王(毛利氏)に対して勝利を望むのは、第一に彼の地にパードレ等を帰住せしめ、彼らが受けていたよりも
大いなる庇護を与える為である。
そして、我が希望を実現するため貴方の援助を必要とするのは、日本に硝石の来ることを一切禁止し、
ただ我が領国防御のため、カピタン・モール(官船の司令官)をして毎年品質良好な硝石ニ百斤をもたらす事である。

私はこれに対し百タイス(銀一貫目)、又は貴方の命ずるところの額を支払うであろう。
この方法によれば、山口の暴君は領国を失い、私の元にある正当なる領主(大内輝弘)がその国に入ること
可能になるだろう。私は貴方の手に接吻しよう。

本日陰暦第九月の十五日』

(異国叢書)

大友宗麟が、宣教師に硝石の禁輸を持ちかけていた書状である。
683 :
2017/03/20(月) 01:39:50.91 ID:dH4ZvUEi
>>682
この頃から毛利の九州への再侵攻に備えて輝弘を山口に送る計画してたんだな
対毛利戦の時はほんと色んな手を打ってて有能なんだけどな宗麟
684 :
2017/03/20(月) 12:45:26.50 ID:ajCmN+xp
家光が最後に上洛した時の事かな
http://i.imgur.com/8N6tupL.jpg

サウジの国王が来日で混乱どころの話じゃないレベルで迷惑だなw
685 :
2017/03/20(月) 18:42:19.69 ID:ccqVKeS4
>>684
示威とはいえ、かなりの金がかかったんだろうなあ
686 :
2017/03/20(月) 23:36:41.03 ID:Xngeiluy
鎌倉もそうだが遠国に本拠地があると天皇権威が復活するよね
687 :
2017/03/21(火) 21:56:50.71 ID:3jA4Kuzq
1562年(永禄4年)、鹿児島の王(島津貴久)よりインド総督に贈りし書簡

『コンパニヤのイルマン2人が、昨年私の鹿児島の領国に来たり、私の領内を巡って説教をしたが、
私は一つの戦役のため救援の準備に従事していた故に、私の希望のように彼らが当然受けるべき境遇を
与えることができなかった。

また、私の領国の一港であるマンゴー(Mangoo)にポルトガル人の船一艘が来ていたが、上記の戦役に
巡り合わせた故に、彼らに相当なる礼遇を与えることが出来なかっただけでなく、国内に外国より
略奪のために来た剽盗があったために、ポルトガル人が来ているのを知らず、彼らを剽盗と誤認し戦ってしまい、
アフォンソ・バズ(Affonso Vaz)という人物一人を殺してしまった。
私はこれを遺憾とする。

私は毎年書簡を送るべきである故に、閣下がもし書簡を送ってくれば私はこれを大いなる名誉と思うだろう。
ポルトガル人、又はパードレ等を当地に派遣しようとする時、閣下の書簡、又は口上を持参すれば、私は彼らに
相当する、一切の歓待礼遇を与えるであろう。

(永禄)四年薩摩より』

(異国叢書)

島津貴久による「合戦騒ぎでついうっかりポルトガル人殺しちゃったわテヘペロ」という書簡である
688 :
2017/03/21(火) 21:58:52.95 ID:Kls3i0zw
お詫びに軍旗に大きく十字を書けば許してくれただろうな
689 :
2017/03/22(水) 11:18:06.25 ID:XIT09IlA
戦国も後半になると海外と外交したり秀吉のゴマすったり中間管理職めいて大変だな
毛利元就くらいがいいな。領国内で成り上がって国人衆を統一して自国領を広げてハッピーエンドみたいな
690 :
2017/03/22(水) 11:29:14.25 ID:nTvcLbOj
守護大名がか?
691 :
2017/03/22(水) 12:46:46.90 ID:mQ1Lf/Wi
元就は元就で苦労の連続じゃん
692 :
2017/03/22(水) 22:39:46.44 ID:fDcqyXCX
元就は書状で愚痴りまくりの戦国苦労人。しっかり苦労人の血を受け継いじゃった長男。そしてなぜか孫がアレ
693 :
2017/03/22(水) 22:52:19.62 ID:tvp724bG
あれ呼ばわりされてるが大友家一条家朝倉家のアレ等よりよっぽどマシだろう
694 :
2017/03/22(水) 23:52:54.86 ID:qPwsY8gI
結構アレな息子は多いな、今川とか。黒田もそうか。
695 :
2017/03/23(木) 13:14:43.44 ID:lIeg49m7
1568年(永禄11年)、豊後の王よりニセアの司教ドン・ベルショール・カルネイロに贈りし書簡

『私はジョゴ・バズ・ダラガンより貴方が支那に渡来されたこと、並びに貴方の病気について聞き、
甚だこれを悲しんでいる。そして更に悲しみが強くなるのは。このために貴方が日本に来ることが
不可能に成ってしまうと思ってしまう故である。

私は貴方がいかなる人かを聞き、また貴方の請求により総督が大砲(espera)を私に贈られたことを
聞きたるにより、貴方が私の領国に来ることを大いに希望していた。
この大砲はマラッカよりの船中にて(船の沈没により)失われたことは私の不運ではあるが、
安全に到着したのと等しくこれを感謝し、貴方に恩を負うと考えている。

私は大砲を得ることの希望を捨てていない。
私が(ポルトガル)国王の僕にして、またその友人であることは、デウスの事について、また私の領国に在る
キリシタン等、及びポルトガル人一同に対し庇護を加え、好遇を与えることで示し、またデウスが私に
生命を与え給う間は、常にこれを継続し、また貴方の要求されることをなすべきを以て、貴方が総督に
書簡を送り、私が大砲の贈与を受ける資格の有ることを通知されることを希望する。

私が再び大砲を求めるのは、私が海岸に住み、敵と境を接し、私の防御のためこれを必要とする事
大なるが為である。

私がもし領国を防衛し、これを繁栄ならしむ時は、領内のデウスの会堂、パードレ及びキリシタンたち、
並びに当地に来るポルトガル人一同もまた同様に繁栄するだろう。

先年、私はポルトガル王妃の書簡を接受したが、大いにこれを尊重し、宝物としてこれを首から下げている。
当地には王妃の如き方に贈るべき物は無いと雖も、私の領国に有るものは喜んで殿下に献ずるだろう。

この他述べたいことは多いが、長きに失するがゆえにこれを書簡に綴らない。
ジョゴ・バズ・ダラガンがその地に赴いた時に陳述するであろう。

1568年9月13日(永禄11年8月22日)』

(異国叢書)


とにかく大砲を早くよこせ、という大友宗麟の書簡である。
696 :
2017/03/24(金) 00:17:52.08 ID:Sxykn2tM
天正19年(1591年)豊臣秀吉、フィリピン諸島に入貢を促したる書

『予が国は恐ろしい戦争が100年余り行われ、諸人甚だしく背馳し、交通並びに書状に統一が
なかったが、この時、この世界を治め嘆賞すべき和合に導くため、予の大いなる誕生が有った。

予は年少の頃より国務に任じ、10年を経ずしてこの小国(日本)を尽く服従せしめ、三韓琉球、
及び他の遠方の諸国は既に予に帰服して頁を納めている。

予は、今支那に対し戦をなさんとしている。しかしこれは予の力に因って行うものではない。
天が予に与えたものである。

其方の国は未だ予と親交を有せず、よって予は行きてその地を取ろうと欲したが、原田孫七郎が
予の寵臣に告げるには、商人の船舶がその地に往返し、彼自らもまたその国に赴いたことがあって、
諸事に通じていると言うので、故に彼を派遣してこの事を報じさせる。
これは100レグワを隔てても、諸事を探求し実相を明らかにすることを得るためである。
こういったことは、古人の一人の言葉にあり、価値を持つ。

これ故に、原田は身分卑しき者では有るが、予はこれに聴き、暫く時を与え、諸将を派遣し
大いなる軍隊を率いて高低尽く平坦にするための命を下さなかった。

今は旗を倒して、誠に予に服従すべき時である。
もし服従することを遅延すれば、予は速やかに罰を加えるだろう。後悔すること無かれ。
この他告げる要は無い。


天正19年9月19日

日本国の関白』

(異国叢書)

マニラのフィリピン諸島長官、ゴメス・ペレス・ダス・マリニヤスに宛た、豊臣秀吉よりの服従勧告である。
697 :
2017/03/24(金) 11:25:08.55 ID:njXTdQT1
元寇でのフビライ・ハーンの手紙に似てるな
698 :
2017/03/25(土) 00:05:44.43 ID:Ko4xD5Gw
春日周防の徒党の磔


ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-357.html
↑の記事の2つ目の話の詳しい版になります。

天正壬午の乱のときに森長可を裏切ってひどい目にあった春日周防。
(参照 ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5950.html)
慶長5年3月に弟の忠政が海津城に入った頃には病死していたので
(葬儀で)親類が一か所に集まっており磔に懸けることになった。

そのとき彼の地の風説では、信州は人がいない国なので
徒党の者を残らず成敗してしまっては亡所になるだろう。
ならば(忠政が)見回りに来る前に、磔に懸けてご覧に入れ
御成敗したと判断してお通りした後で悉く命を助けようと
下劣の者共が(春日周防の徒党に)申し做した。

そういうことならば一日磔に懸けられているのもどうかと
日用を雇って名代として磔に懸かってもらうことにした。
米壱石で懸かる者が多く、あるいは七、八斗で懸かる者もいたが
少しの内なのだからと値切る者がいたり、壱石出すくらいなら
自分で懸かろうという者が、金持ちの中にもいたそうだ。

海津城はその頃松城といったが、乾の方角にある鳥居坂から
なしか池まで二十町ばかりに磔を懸け並べた。
そこに先走りの者が、忠政様の追付きお通りと参るやいなや
大身の槍を持って片っ端から突いて通った。
そのとき磔木の上から口々に日用なりと断る声があったという。
百々瀬加兵衛、三溝三右衛門[両人共に信州のあのあたりの地侍の家
だったが森家へ召し出された]がこの話を度々承ったそうだ。

そのときの罪人の内6才の子供を一人、名は又右衛門と申す者を
お竹様(忠政側室・香々美殿)が引き取り養われた。
後に大膳重政様(忠政庶長子・母お竹)の草履取りとして仕えたが
元和4年に大膳様が御逝去の後、作州久米南条郡中嶋村へ引っ込んだ。
百姓をしていたそうだが、同郡北村の者と公事取詰になり
寛永16年6月3日、46才で一家残らず長法寺河原で御成敗に逢ったのは
天罪奇妙な事なのでここにこのことを記す。


――『森家伝記』
699 :
2017/03/25(土) 11:19:30.51 ID:B6+kOeJd
>>695
時期的に対毛利で欲しかったんだろうな大砲w
700 :
2017/03/25(土) 17:29:14.49 ID:w3PsfF11
1592年(文禄元年)、フィリピン諸島長官ゴメス・ペレス・ダマ・マリニヤスより豊臣秀吉に贈りし書簡

『カスチリヤ、レオン、アラゴン、両シチリア、エルサレム、ポルトガル、ナバラ、グラナダ、サルジニヤ、
コルシカ、ムルシア、ハエン、アルガルベス、アルヘシラ、ジブラルタル、東西インド、
大洋中の諸島及び大陸の王、アウストリヤの大公爵、ブルゴーニュ、ブラバント及びミランの公爵、
ハプスブルク、フランデル、ブレターニュ及びチロル等の伯爵なる我らの君、ドン・フェリペ二世王のため、
当大群島の諸島および西部地方の長官兼司令官たるサンチアゴの騎士、ゴメス・ペレス・ダス・マリニヤス、
高貴にして強大なる君主関白に当然の敬礼を致し、健康と恒久の幸運とを祈る。

御家臣にてキリスト教徒たる日本人、原田孫七郎(Faranda Mangoschiro)は当地に着し、貴王の一身に関する
報告をなし、その内容に私は甚だ喜び、天の神が貴王に授けられた勇気・思慮・および勢力に対し大いなる好意を表す。

原田は数日前、私に一つの書簡を与えた。その形式の整っていることと、文体の壮重なるにおいては、
大いなる君主の書簡と見えたが、それを届けた使者が、これを派遣する人、及びその使いする先の
人の格、そして使命の重大さについて必要とする材幹および資格を備えない、甚だ卑しくまた貧しい人物
であり、しかも食料その他の商品を搭載してこの地に来る普通の商船にて渡来し、航程甚だ遅れたるが故に、
この書簡は、この原田なる人物が当地において一層の尊敬を受けたいという私的な目的のため、自分、もしくは
他人の手によって作ったものではないかと疑った。

また私は、当地に日本語とイスパニヤ語を解する信頼すべき通訳を持っておらず、彼自らが書簡の内容、及び
使命を説明したため、書簡の言葉の真実の意味を疑いった、
もし日本国王より私に書簡を贈る時は、その地に耶蘇会のパードレその他イスパニヤ人が存在するので、
彼らを用いて、少なくともこれを私の国語に翻訳したものを送られると考えたのだ。

これ故に、私は未だこの原田という人物のもたらした書簡を読まず、その使命を明らかにしてはいない。
彼が貴王、及び私に欺瞞を計っているのではないかと疑い、その実否の判断を保留している。
しかし貴書、および貴使節らしい所がある一点を思い、礼儀を守ってこの書簡を書き、原田が私のために
作った翻訳により、わずかに知り得た所に対し、貴書に答える。

私は、徳高く慈悲深き長老代野パードレ、フライ・フワン・コボを派遣する。彼は当諸島において
最も尊敬され、その思慮及び勇気あるがため、私が最も重要なることを告げ、その意見を求める人である。

彼は私の名において、貴大王に当然の敬意を表すだろう。そして使節の言う所が真実であれば、私は
貴手に接吻し、今も、また将来も交友たることを明言し、世界において最も偉大なる我が主君たる
国王の名を以て、貴王の幸福を喜び、不幸を悲しみ、天の王がこれを除かれることを祈る。
701 :
2017/03/25(土) 17:30:04.48 ID:w3PsfF11
東インド及び当地方より日本に赴く我が国王の臣民たるイスマニヤ人が、貴王の手より受ける厚遇及び
恩恵に対して、我が君なる国王の名を以て、親交を希望し、当地においても、貴王の臣民に対し同一の
愛情を以て、及ぶ限りの厚遇をするだろう。

私はこの人のもたらした使命の真実か否かの報知を得るの恩恵を希望する。
もし真実であるのなら、我が君である国王に対する決意及び義務に背反しない限り、この如く偉大なる君主に
相当する友情を以て答え、我が国王にはすぐにこれを報告し、その命を仰ぐだろう。

私は、我が国王及び日本国王の如く、偉大なる両君主の間には、満足なる結末を見るだろうと信じる。
真実なる友情及び同盟が存在することは、世界の平和と一般の満足とをもたらし、また諸王の王である
全能の神の栄光と成るべきを期待する。

日本より私が大いに珍重する物を贈られたことを以て、私も又返礼として、イスマニヤの珍奇なるものを
贈ろうと欲するが、武士の間で最も珍重するのは武器であるが故に、剣および短剣1ダースを贈る。
これは当地において用いる、最も精巧な品である。
これを贈る者の好意を思い、友情の証として貴王の幸福及び強盛を望む我が手より受納されることを請う。

本書感を携える者は、前に述べたることの実否を知ろうとするためにのみ赴く者であるので、
その地において知りたいと思う事は、彼に聞いてほしい、

我らの主が貴王の身を護り、多くの幸福を与え給わんことを。

我らの主にして救主たるイエス・キリスト生誕の1592年6月11日(文禄元年5月2日)
マニラより。』

(異国叢書)

>>696の書状に対するフィリピン総督の返信。どうも原田さん、非常に適当なことを言ったようである。
702 :
2017/03/25(土) 22:47:30.61 ID:gmJK76VS
>>698
この「松代物語」でも春日皆殺しについて触れられてるね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4100.html
ところで高坂信達(春日周防)って病死って書いてるけど、真田昌幸のせいで上杉裏切ろうとして殺されたんじゃ
(真田丸では調略がバレたのをなぜか昌幸の策略にして主人公側を悪どく書いてたな)
534KB

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